83-3話 顕現
報告を聞いたヨキウは、なんともいえない表情をしていた。
それが怒りなのか憤りなのか、それとも他の何かなのか。それは報告をした男にも理解できなかった。そして、理解できないことに少しばかり動揺していた。
「――……そうですか」
それともここが地下神殿で、周囲に原初の女神の信者たちが居たからこそ、感情を表に出すのを控えたのかもしれなかった。そのことに思い至ると、報告をした男はひとつ頷いた。
魔女の使い魔が現れたことは、兄弟を通して姉にも伝えられていた。
宵闇の魔女は存在する。
その存在は徹底的に秘匿されているが、使い魔としては存在を示されている。これはいったいなんなのか。考えても答えは出なかった。そして、秘匿されているのにもかかわらず、使い魔が出てくるのはいったいどういう意味なのか。
だが、ある程度推察はできる。
原初の女神の力を取り込んだ兄弟たちを、同じ神であるブラッドガルドが倒せるはずがない。だからこそ力を与えた誰かが必要なのだ。対抗できる人間が。風神――いやいまは光神セラフがその力を勇者に与えたように。
だがブラッドガルドに味方するのは魔女くらいしかいない。だからブラッドガルドは魔女の使い魔を引っ張り出してきたのだろうと。ヨキウは今度こそ笑いそうになった。そんなときまで魔女本人ではなく使い魔なのかと。結局、ブラッドガルドは唯一の味方である魔女さえも十分に信頼していないのだろう。奴は結局独りなのだ。孤独のうちに朽ち果てるのが相応しい。いや、今度は四人揃って死ねるのだから、淋しくはないだろう。奴にとってはそれすら忌々しいだろうが。
ヨキウは少しだけ口の端をあげた。
何かに対しての笑いではなく、信者に向けるための笑みだった。
意味ありげに祭壇の前へと歩くヨキウを、信者たちの目が追う。何かお話がありそうだ、と彼らは気がついた。だが、もっと重大な意味を孕んでいると気付けたのは、誰もいなかった。あたりはすぐに静かになる。ゴホゴホと小さく咳をする声だけが最後に残った。
ヨキウは祭壇の前に立ち、全員を見回した。いつものように、落ち着いた口調で語りかける。
「皆さん、準備は整いました」
すぐにその言葉を理解できた者は誰ひとりいなかった。
その場にいた全員があっけにとられて、次の言葉を出すのに苦労した。
なにしろ、ヨキウがここへ来たことは何度もあった。
そのたびに、ヨキウは少しばかり話をするに留まった。「その時はいつか必ず来る」と約束はしたが、具体的な日時まで指定することはなかった。だがとうとうそのときが来たのだ。恐る恐る、ひとりが声をあげる。
「ヨキウ様。準備というのは、まさか」
「はい。古き封印を解き放ち、原初の女神様をこの世界へお迎えする準備が整ったのです」
「おおおお」
今度こそどよめきが起こった。
地下聖堂にはざわめきが起こり、さざなみのように人々は沸き立った。
「みなさん、お静かに。落ち着いて! ――お静かに」
再び静かになる。
「我々はこれまで、多くの皆さんの力をお借りし、名もなき原初の女神さまの存在をお伝えしてきました。この世界を支配する偽りの神々に対抗すべく、爪を研ぎ、牙を磨いてきました。この世界にはいま、四つの大穴が開けられています。大地に。海に。空に。そして地下に。我々は、そうすることで偽りの神々を引っ張り出すことに成功しました。偽りの神々が現れたということは、真なる女神の存在もまた人々の間に認知されたことでしょう。そして、たとえ力を与えられた魔物たちが破れても、そこには力を通す風穴が開けられていたのです」
ヨキウは続けて語りかける。
「いまや、機は熟しました。偽りの神々が――特にこの世界を我が物顔で飛び回るセラフや、それ以上にこの世界を混乱に貶めたブラッドガルドが消耗しているいまが最大のチャンスです。もはや偽りの神々の好きにはさせない!」
おおおお、と信者たちが湧いた。
地下神殿が大きく揺れる。
シャァン。
鈴の、澄んだ音が響いた。
人々の目は一瞬でその音に引き寄せられた。
祭壇の奥にある階段から、誰かが降りてくる。
他の男たちを従えながら、白い薄手の衣服に身を包んだ女が姿を現した。
床につきそうなほど、しなやかで豊かな金の髪。整った鼻先に、何もかも見透かしたような甘い瞳。表情はどこか甘えるように官能的で、しずしずと階段から降りてくる。布をかき分ける足先は、まるで舐めろとでも言われているような錯覚に陥るほど整っている。頭の上から、そのつま先に至るまで、完璧な美がそこにあった。
「巫女さま」
「巫女さまだ」
「巫女さま!」
「コルシャさまあ!」
彼女に付き従う男たちが、ほとんど同じ顔をしていたことなど、人々の目には入らなかった。
「みなさん――」
とろりと、蕩けるような甘い声が、信者の耳から脳へと入り込む。
「ようやくこの日がやって参りました」
あああ、と信者の男のひとりが感極まって泣き出した。
「これより、我らは女神をこの地へと呼び戻すのです」
人々は呆けたようにその言葉に聞き入っていた。
貴族も平民もその下の人々も関係なく、平等に心を動かされていた。
その中には当然のようにロダンもいた。彼が取り込んだ町の人間も多くいた。いつその時が来てもいいように、彼らは準備を進めていた。ミサがあれば必ず顔を出した。そして今日、とうとうこの時は訪れた。
「おお、おおおおお」
老婆が声をあげ、弱々しく泣き出した。隣にいた女性がその背中を撫でる。若者たちは興奮で声をあげ、老人は手を合わせて祈った。
月の女がヨキウに手をとられ、地面に描かれた魔法陣の中央へと歩いてくる。人々はすぐに二つに割れ、その歩みを邪魔せぬように脇へと寄った。やがて女を中心に、静かになった。
シャァン、とどこかで鈴が鳴った。
また、シャァン、と今度は反対側で。
地下神殿を囲むように、四つの区域で鈴が鳴る。
女は中央で衣服を脱ぎだし、玉のような肌を晒した。女が羽織っていた衣服はすぐに男たちによって持ち去られた。女が纏っているのは、まるで装飾のような羽衣だけになった。豊かな乳房を晒し、惜しげもなくすべてをあらわにする。その肌に一点の染みもなく、その美に一点の曇りもない。
彼女にとって誰かに裸を晒すことなど、視線を集める以上の意味はない。特に男達の視線は常に彼女にとっての賞賛である。それが使い魔であろうと、信者であろうと。だがそれこそこの儀式に必要なことだ。
女の手が振られると、手首についた黄金の鈴から音が鳴った。
ゆらりと両手が振られるたびに、音は大きく、強くなって、音に乗った魔力が人々の耳から入り込んでいく。女は軽やかにステップを踏み、否応なく人々の気を高めていく。その踊りは幻惑するようでもあり、誘っているようでもあった。官能的ですらある。人々は変わらず涙を流し、言葉にならない声を発しながら、巫女と信じた女にすべてを捧げる覚悟を固めていた。
すばらしいものがここにある。本物がここにある。
まがい物に支配された世界の、唯一の本物だ。
「さあ、おろかな人間さんたちぃ? アタシのために、その命を捧げるのよぉ。うふふ。あはははは!」
誰も否定するものはいなかった。
*
狂気とも思える地下神殿の様子を見ながら、影に隠れていたハンスは息を呑んだ。
このままでは、飲み込まれる。
高揚とともに危機感と恐怖心が湧き起こった。
――こいつら。いままで、どこにいやがったんだ。
きっといままで普通の顔をして、普通に暮らしていたはずの人々だ。そんな人々が、これほどまでに原初の女神に夢中になっていたのだ。ぞっとした。自分たちが考えていた以上に、原初の女神とやらは人々に知れ渡っていたのだ。こうして、隠れながら。
そしていまや、ひとつの形に結実しようとしている。
――失敗しろ。
ハンスは呪った。それは空虚な言葉にしかならなかった。心の底から呪うことができなかった。
――失敗、してくれ。
祈ってみても、駄目だった。
これ以上心を動かされてしまえば、もっとひどいことになる。
ハンスは瞬間的にリクのことを思い出していた。セラフのことを思い出していた。アンジェリカのことを思い出していた。オルギスのことを思い出していた。ナンシーのことを思い出していた。シャルロットのことを思い出していた。そうすることで、なんとか自分を保つことができた。思い出せ、自分の役割を。例え手遅れになったとしても、どうにかなるはずだ。
ぐっと口元をおさえ、極力自分の存在を押し殺す。
駄目だ。これ以上、魅入っては取り込まれる。
そのとき、ぴょい、とハンスも気がつかぬうちに何かが飛んできた。ハンスは虫にすらその気配に気がつかれないようにしていた。だが虫ではなかった。丸い肉団子のようなそれは、丸い目玉を覆うだけの肉と、蜘蛛のような足を持っていた。ブラッドガルドの使い魔だ。よくわからない、群体の使い魔。ブラッドガルドもここを監視しているのだ。だが突き止めたのはこちらが先だと、わずかばかりに湧いた対抗心を頭の隅に追いやる。あるいはこのままここに居るとまずいのだと、居合わせたハンスに乗り合わせたに違いない。自分は影を移動できるくせに。ハンスはじりじりと下がっていき、やがて踵を返した。
誰も自分を振り返ることはしなかった。
もはや一人の逃走者を追うよりも、目の前で起きる儀式の成り行きを目に焼き付けるほうが遙かに重要だったのだ。
ハンスはとうとう足音を出して逃げ出した。
早く地上に戻らないといけない。きっと地上はひどいことになる。
その後ろで、儀式は最高潮に達しようとしていた。
膨れ上がった魔力が神殿の中を包み込んだ。祈りが形となり、膨らんでいく。中央で踊る女に力のすべてが注がれていく。
「ああ、あああ。姉さん。姉さん」
ヨキウが叫んだ。
泣いている。
他の兄弟たちもみな涙を流していた。
「おおお、おおおお」
「綺麗だ。綺麗だよ、姉上」
「美しい。なんて美しいんだ。姉君こそ本当の女神に相応しい」
「これこそが、僕たちの待ち望んだものだよ、お姉ちゃん」
玉のような汗が女から噴き出していた。
「あああ。ああああ。姉上、姉上ぇ! 僕たちも――そこに連れて行ってくれ!」
そのとき、地下からせり上がってきた魔力が大口を開いて、すべてを飲み込んだ。
人々は祈りの形のまま、ばたばたと倒れ伏した。捧げられた生贄を喰らい尽くし、巨大な魔力が天井をぶち壊しながら世界に顕現した。
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