74-12話 怪物・使い魔・腹の中

 闇。

 あたり一面の闇が、全てを支配していた。

 その海賊の男にとって、どちらが上で、どちらが下かまったくわからない。どれほど海水にまみれたのかわからない。もうこれ以上息をとめていられない。死にたくない。暗黒の海のなかで、必死で死から逃れようともがく。


 ――も、もう、息ができねぇ……!


 がぼっ、と口の中に溜まった空気が出ていく。その空気でさえ何処へいくのかわからなかった。だが不意に、自分の姿が見えた気がした。


 ――……光だ!


 死の間際の幻影だとか、それが本当に助けなのかどうかとか、男にとってはどうでも良かった。光のあるほうが上に決まってる。とめた息は限界にきていた。伸ばした腕すらもうよく見えなくなっていた。意識を失いかけたとき、急にその手が掴まれて引っ張り上げられた。


「ぶはああっ!?」


 水面に出ると、勢いよく空気を吸う。


「げほおっ、ごぶっ、げっほ!」

「おいっ、大丈夫か!」

「おーい! もう一人ここにいたぞお!」


 ほぼ窒息寸前で、ぜえぜえと大きく口を開けて息を吸う。体力というより、息の限界だった。自分の腕を掴んでいた人物は、ゆったりと泳ぎながらどこかへ声をかけている。

 海水でべったりと濡れた髪の毛を払いのけて、目元をぬぐってなんとか視界をはっきりさせた。


「こ……ここは!? 助かったのか!?」

「一応はな。アンタ、クリストファーのとこの奴か」

「あ、ああ。そういうお前たちはバルボアんとこのだな」


 普段であればそのまま殺し合いに発展してもおかしくなかった。だがいまはそれどころではなかったのだろう。それに、相手の姿もはっきりと見える。どこかに光源があるに違いない。


「泳げるか?」

「か、海賊が、泳げねえなんて、ことが」

「ふん。なら大丈夫だな。こっちだ」


 男はそのままゆったりと連れられ、丘の上のようなところへと誘導された。妙に肉々しい丘の上へとつれられると、男は四つん這いになって生きていることを実感した。肩を大きく揺らしながら、なんとか仰向けになり、足を投げ出した。他にも丘のような場所があり、なんとかそこにたどり着いたらしい仲間たちがいた。


「おおーい、生きてる奴はこっちだ!」

「こっちに丘があるぞ! 生きてる奴は全員、あがってこい!」


 先に上がった海賊たちは声をかけたり、茫然と天井を見上げて座り込んだりしている。男もようやく大の字になって転がった。まだなにも解決してはいないが、一応は生きている。

 視線の先には、ドーム状の巨大な天井があった。そのど真ん中にはひくひくと動く穴のようなものがある。あれは胃の入り口なんだ、と理解した。直前のことを思い出すとぞっとした。なにしろ海の下にはカリュブディスが大口を開けていたのだ。海水ごと、海に落ちた自分たちを呑み込んだのだ。自分たちはその腹の中にいる。

 だが胃の中にいるという事実よりも、奇妙なものが視界の端にあった。

 そもそも胃の中であるなら、真っ暗なはずだ。こんなにも明るいはずはない。その答えが、天井付近の壁に鎮座していた。


「……なんだありゃ」


 そこには巨大なランタンが存在していた。巨人の使うようなランタンだ。それが、あたり一面を照らしているのだ。船の中のように、僅かに揺れている。さらに不思議なことに、あたりは胃の中のように肉々しいのに、ランタンの後ろだけは木製になっている。


「どういうこっちゃ……」


 もっとよく見ようとしたとき、耳を劈くような声が響いた。


「バルバロッサァアア!」


 視界に入れたくはなかったが、どうしても視界に入ってきてしまった。絶叫しながら海水を物凄い勢いで泳いでいるのは、まちがいなく自分のところの船長だ。なんでいるんだ、と思う間もなく、あたりに響く声がもういちど耳を劈く。


「返事をしたまえバルバロッサァ!!!」

「うるっせぇぞクソ船長!! 声落とせや!!」


 救助に回っている他の海賊に怒鳴られているのを見つつ、呆れと安堵の入り交じった複雑な表情でその様子を見る。


「なにしてんだあのアホは……」

「なんだ……ありゃ? バルボアの船長も呑み込まれたのか」


 自分よりも一足早く救助されたらしき仲間が、胡乱な目で胃液の中を泳ぐクリストファーを見ている。反対側で、別の海賊が更に胡乱な目で見た。


「おめーんとこの船長うるせぇんだが、なんとかならんのか」


 すまん無理だ、と声が揃った。

 もういちど視線を目の前に広がる海だか胃液だかわからない水の中に移す。すると、奇妙なことに海の底から光が出ているのに気付いた。


「ん……?」


 光が向いている方向に視線をやると、そこには巨大なランタンが映し出されていた。はっとしたように、クリストファーが海水の中に潜っていった。男はゆっくりと立ち上がる。既に立ち上がれるほど回復した者たちはみんな、固唾を呑んで見守っていた。


「おい、準備をしとけ!」


 そう叫んだのはバルボア船の海賊達だった。

 クリストファーはしばらくあがってこなかった。わずかばかりの泡が海面に上がってくるのが見えた。ごくり、と喉の奥が鳴る。たらふく海水を飲み込んだ口の中が、からからに渇くのを感じた。


 やがてしんと静まりかえる。

 だが次の瞬間、泡が再び水面へとぼこぼことあがってきた。にわかに周囲がざわつく。


「ぶはっ!」


 クリストファーがその肩にぐったりしたバルバロッサを背負って海面に浮かび上がると、そこかしこから歓声があがった。拍手と口笛が鳴らされるなか、咳き込む彼女の顔を濡れないように海面に出して、クリストファーはゆっくりと移動しはじめる。


「ぐぬぬぬぬ……!」


 クリストファーが海水まみれのバルバロッサを背負って岸辺までやってくると、そこにいた海賊たちの何人かが彼女を抱えて地面に下ろした。

 バルバロッサはゲホゲホと海水を吐き出してから、おもむろに相手の顔を見る。一度だけ自分の片目に触ってから、もういちどクリストファーを見る。


「……おう。なんだ、お前か」

「うおおおお!! バルバロッサぁあ!!」


 そのまま抱きつこうとして、バルバロッサからの肘鉄が見事に決まった。そのまま背後にぶっ倒れてもだえる。


「ぐおおお……、そ、それでこそ僕の婚約者……」

「違うが?」


 船長、船長、とあたりから声がする。


「ああ。海水のおかげで助かったようだな」


 本来なら、胃液で溶けていてもおかしくなかった。それなのにこうして生き残っているのは、カリュブディスが海水ごと呑み込む性質のためだろう。伝説からすると、カリュブディスが海水を吐き出すまでにまだ時間はある。

 片目を気にするバルバロッサに、海賊が声をかける。


「せ、船長、目をいったいどうしたんですかい」

「気にするな。もう片方は使えてる」


 その言葉に、その場にいた者たちは背筋に冷たいものを感じた。

 思えば自分達だって、あの嵐のような渦に巻き込まれて、よくぞ五体満足で此処に立っていられるものだ。だが落ち着いて周囲を見回せば、腕が折れているのを処置してもらっていたり、岸に上がったもののダメージから回復せずに寝かされている者もいる。この胃液の中に沈んだまま上がってこられていない者もいるだろう。


「い、痛みはあるんですか。何か刺さったか、あるいは胃液か何かで……」

「まあどちらかだろうな」

「せめて船に戻るまで覆っていたまえ!」


 復活しながら珍しく正論を叫んだクリストファーに、海賊の一人が持っていた水筒の水で布を洗い流し、絞ったものをバルバロッサに巻こうとした。

 彼女もまた正論だと思ったのか、大人しく片目を巻かれるに任せていた。


「ひとまずクリストファー、お前には礼を言っておくよ。ありがとう」

「ふん。気にするな! まァなによりきみは僕の宝石なのだから、謝礼であるなら僕との結婚式の」

「それでここにいる奴ら、とりあえず助かったようだな」


 無視して言うと、クリストファーの部下たちも頷いた。


「ええ、そのようで。どうやらあいつの腹の中のようですね」

「伝承によると、こいつはしばらくしてすると海水を吐き出すだろうが……。海に戻るにゃあ、それに乗れるかどうかだな。……あるいはもしかして、内部から……」


 海賊たちは考え込むバルバロッサを見ていたが、彼らはまったく別のことを考えていた。それを指摘したのは、クリストファーだった。


「それよりバルバロッサ、ひとついいかい?」

「殴るぞ」

「なんで!? ……ここが明るいのがおかしいって話だよ! そもそもこの灯りも、きみから光が発せられているんだ。いったいどうやってそんなことを……」


 バルバロッサをのぞく全員がギョッとした。バルバロッサの影から、目玉がひとつ覗いているのだ。


「うおあああああ!?」

「あああああああ!!」

「うっわなにこいつキモっ」


 バルバロッサ以外の全員がパニックになる中、彼女は冷静にその目玉のようなものをつまみあげた。


「船長! なんですかいそれは!?」

「なんの魔物で!?」

「わからんキモい」


 バルバロッサがつまみあげたのは、蜘蛛の足のようなものだった。

 だがただの蜘蛛ではない。体の部分は丸い肉塊状で、そこに大きな眼球がひとつだけついている。眼球から直接蜘蛛の足が生えているような気分になる。それが一匹だけではなく数匹、バルバロッサの周囲にわらわらと溢れ出てきた

 髪の毛に紛れた三匹は目の部分が光っていて、光線のようなものを出している。それが収束している方向を見ると、天井の巨大なランタンがあった。まるで大きな窓があり、そこにあるランタンが見えているようだ。ときおり、端のほうで僅かばかりに黒い髪の毛が揺れていた。


「なんだこりゃ」


 その言葉に応じるように、バルバロッサに捕らえられていた一匹の目から光が発せられた。


「こいつっ……!?」

「いや待て!」


 その光はランタンと同じように壁に当たって、ひとつの映像を流した。それは、全員にとって見覚えのある船の中の様子だった。

 映し出されたのは、副船長のパウロがあれこれと指示を出しているところだった。それだけではない。海賊たちのほとんどが牢屋に入れられているところや、一部の海賊が副船長に忠誠を誓っているところが映し出されている。海賊たちはそれを見ながら呆気にとられた。


「ほおん、なるほど。アンタんとこの副船長がうちに取引しに来たのは、船の乗っ取りのためか」

「はあ~、うまくやったもんだなあ。俺は船長についてきますけど!」

「だ、だが、これをどうやって……」


 困惑の中で、誰かが気付いたように言った。


「……聞いたことがあるぞ。魔術師は水晶で遠い場所を見ることが出来るって……」

「そうか! おまえらルリの使い魔か!」


 バルバロッサが言うと、蜘蛛足たちはこくこくと体全体で頷いた。


「えっ? 使い魔?」

「ああ。うちのルリっていう新入りの。そうか、あのとき……」


 海の中に落ちていく自分に向かって、瑠璃が何か小さく呟いた気がした。

 あのとき、カメラアイの一部がバルバロッサの影の中へと飛び込んだのだ。そう理解すると、カメラアイの見た目からくるものではない、妙な気味悪さを感じた。同時にぞくぞくする。油断のならぬものを目の前にした時のようだ。あの娘は侮れない。おかげで海上の灯りに頼ることはできたが、思わず舌打ちしそうになる。

 瑠璃のものだと断定はしたが、バルバロッサは怪訝な表情をした。匂いでも嗅ぐように蜘蛛足たちに顔を近づける。


「……。いや……。こんなに魔力が小さかったか……?」


 瑠璃から感じていた奇妙さは、こんなものではなかった気がする。

 カメラアイたちはその言葉にあわあわと慌てつつ、シラを切った。


「しかし、変わった使い魔だな」

「いや、あいつの美的センスもどうなってんだよ」

「魔術師の美的センスがおかしいんじゃないか?」


 魔術師に使い魔は基本的にひとりに一体。

 群体タイプや同じ種類のものを大量に扱える者はいるが、そう何種類も契約できるとなると相当な使い手にならないと無理だ。


「バルバロッサ。それは本当に新入り君の使い魔なのか? とてもそうは思えないが」

「なぜだ? というか、知っているのか?」

「そりゃあ、パウロが取引を持ちかけてきたときに、新入り君の情報もあったからさ。新入り君の使い魔はモノの収納ができるくらいというから、彼らの性質とは違うように思えてね」

「……」

「それにこいつらは魔力も小さい。群体で周囲の様子が見られるというのなら理解できるけど、僕達にもたらされた情報とまったく違うように見えるんだけどね」


 わたわたとカメラアイの映像のひとつが、瑠璃を映した。肩口で延々とランタンを見ている同族をも映し出す。少なくともこれで、ここにいるのが瑠璃の使い魔――それも群体タイプのもの――であるとは証明されたわけだ。


 ――……。こいつら、一匹単位は弱そうだが……。


 瑠璃という脳天気にもほどがある殻に守られ、わらわらと気付かれぬうちに群体で入り込み、ありとあらゆる情報をどこかへ送ることも可能ではないか。疑念を抱かれにくい人物が扱うにはちょうどいい。

 しかし、隠密担当にするには、瑠璃は危なっかしい。そもそも出てきた状況からしておかしい。それが隠密担当とは笑わせる。


 もし、瑠璃に直接危害が加えられるようなことがあれば――いったい何が起きるというのだろう。バルバロッサは瑠璃の横顔を見ながら、わずかに口の端があがるのを感じた。

 瑠璃は近くにいる誰かと会話しているようで、その会話もいっしょに流された。


「……フランク……」


 うんうん、と思わず聞いてしまう。

 瑠璃は先程から、フランクとパウロ副船長との関係についてや、現状どうなっているかを聞き取っているようだった。

 パウロはクリストファーの船も掌握しようとしているようで、それはさすがにクリストファーも真面目な顔になった。


「あ、そうだ。お前らに話しかければ言葉も通じるのか?」


 わけのわからない生物に引いている海賊たちをよそに、カメラアイに尋ねる。

 カメラアイは頷くような仕草をすると、他の個体がバルバロッサの姿を映し始めたようだった。


『俺はっ……、船長を、殺したくなんかなかった……!!』

「へ~。なるほどなあ」


 声に出すと、向こうの動きが止まった。

 瑠璃まで動きが止まったのは、さすがにつっこみたい。いやお前が驚いたような顔をするなよ、と一瞬思うと、面白くて噴き出しそうになった。


「あ、続けていいぞ」


 向こうの映像から驚きをもった怒号が聞こえてきたのは、その直後のことだった。

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