74-3話 檸檬・夕飯・ヨーグルト
「う……うおおお。色んなとこが痛い……」
瑠璃はキッチンの隅で、魂が抜けたように座り込んだ。
一日中こき使われていたせいか、すでに体力の限界が来ている。いくら瑠璃が体力オバケだとはいっても、それはあくまで遊ぶ時だけだ。
ㅤ他の船と戦ったわけでもないのに、まさに戦場だ。これが毎日のように続くとなると、とんでもなく体力を消費する気がする。
「ってか、ほとんど残ってないじゃん」
しかし、調理場を漁って残り物を集めると、そこそこの量にはなった。フライパンに残ったパエリアのようなものからは、仄かにレモンのいい香りがする。一緒に炒めているらしい。
「うん。美味しい!」
干物の魚も名前は分からないが塩が効いているし、これもレモンの香りがする。焼いた干し肉も悪くは無い。ついでに野菜クズを口に入れようとして、野菜クズに混じってレモンも落ちていることに気付いた。
――……レモンがたくさんあるな?
隅の方の箱の中にも、黄色い果実が大量に入っている。おそらく壊血病対策だろう。
「うーん。ちょっと物足りないかな」
フランクが喜び勇んで食堂に行ったのがわかる気がする。
「材料は……あるけど、使っていいやつかどうかわかんないな」
︎︎ㅤ下手に手を出すと、後でどうなるかわかったものじゃない。薮蛇を起こすべきじゃない。
そのとき、トントン、と箱のようなもので肩を叩かれた。
振り向くと、薮蛇ならぬ影蛇が目に入った。ヨナルが口にチョコレートの箱をくわえている。箱で肩をつついていたらしい。瑠璃の足下に出来た影からも、わらわらとカメラアイが出てきては目を輝かせる。
「……ええと。君たちも当然必要だよね」
瑠璃が苦笑いでチョコレートの箱を受け取る。
ヨナルはきゅっと腕に軽く巻き付き、待ちきれないようにチョコレートに視線を向ける。カメラアイは目を輝かせたままわらわらとあたりを旋回した。
適当な皿を二枚ほどとると、チョコレートの箱を開ける。個別包装になったチョコレートをいくつか取り出し、ばらばらと皿の上に載せた。
「はい。いいよ」
カメラアイたちがそれぞれ、皿の上に陣取る。
新たに開けたチョコレートのひとつを、目の前にやってきたヨナルの口の中に入れる。
「どう? 美味しい?」
ヨナルが頷き、カメラアイたちが瑠璃を見上げてぱちぱちと瞬きした。
「うん、良かった」
にへっと笑い、自分もチョコレートを口にする。舌の上を転がるチョコレートはひんやりとしていた。どうやらケーキを買った時についてきた保冷剤のおかげで、ヨナルの影の中が冷蔵庫のようになっているようだ。いつもよりひんやり度が高い気がする。
後で歯を磨くものを用意しないと、と、できるだけ小さく割って呑み込むようにして食べる。チョコレートを充分に楽しめないが、こんなところで歯を痛めても困るからだ。
それにしても、真っ先にチョコレートを選ぶあたりは、やっぱりブラッドガルドの使い魔なのだと瑠璃は思う。案外、瑠璃もこっそり隠れて食べられるから――ということを考えてくれたのかもしれないが、それならクッキーでもいいはずだ。もくもくとチョコレートを食むヨナルの頭を軽く撫でると、どうかしたかとばかりにこっちを見る。なんでもないよと手を振って、カメラアイたちの頭らしきところも指先で撫でておいた。カメラアイは普段はコンペイトウのほうを気に入っているが、チョコレートも嬉々として食べている。
――ホントは、ケーキのほうを先に食べたほうがいいんだけどねえ……。
いくら冷蔵庫とはいえ、別に時間が止まってるわけではないだろう。ケーキこそ生ものなのだから、早いところ食べてしまったほうがいい。せっかくブラッドガルドに買ってきたのに、ちょっともったいない気はするが、食べないほうが余計にもったいない。
そのブラッドガルドからいまだ何も連絡が無いのをみるに、「特に問題はない」と判断されているのかもしれない。カメラアイに接続を頼んでみたが、どうも魔力が遠いらしく、手のように使っている足がバッテンを作ったり、カメラアイの目そのものがバッテンのようになるだけだった。
そもそも彼らの数が多いのは、お互いにつながりあって映像を飛ばすためだ。
なんかWi-Fiの電波が遠いみたいだな、と思ってしまう。
瑠璃が最後のチョコレートを食べきったとき、勢いよくキッチンの扉が開いた。
「おうい! 新入り! いるか!」
「は……はいっ!」
はっとした瑠璃は、慌ててチョコレートの包みを箱に突っ込んだ。カメラアイが残りのチョコレートを持って影の中へ落ちる。ヨナルも影に突っ込もうとしてから、慌ててチョコレートの箱をくわえて回収していった。
眷属たち全員が影の中に入り、とぷんと音がしたのと同時に立ち上がる。
「追加だぞ」
その手にはいくつもの皿が載っていた。中央のテーブルに皿がどんと盛られ、瑠璃は気が遠くなるのを感じた。あれだけの量があっという間になくなったらしい。
「はー……。わかったよ、やるよ」
「おう、きりきりやれよ」
瑠璃はがしがしと頭を掻き、皿のいくつかに手をつけた。桶の中に突っ込み、洗おうとしたところで改めて後ろを振り向く。
フランクはそこでまだ突っ立っていた。
「……なんで先輩そこにいんの?」
「ん!? お、俺はお前の監督があるからな。気にするなっ」
「そう?」
「ほら、早く汚れものを片付けろ。早急にだ!」
「お、おう?」
瑠璃は首を傾げつつ、また皿に向かい合う。
背後から、ぐう、と音が鳴った。
「いまの……」
「ん!? んんっん! なんでもないぞ!」
フランクは何度か咳払いでもするように、顔を逸らした。
「ほら、お前はさっさとキッチンを片す!」
瑠璃は何度か瞬きをしてその様子を見ると、おもむろに髪の毛の間から顔を覗かせたヨナルと顔を見合わせた。それから桶の中で皿の片付けをしている間、ちらっと背後の気配をのぞき見た。
どうやら食堂には入り込めたものの、大人の海賊たちと取り合うには足りなかったらしい。育ち盛りの少年の腹を満たすには充分ではなかったようだ。フランクはたまに瑠璃の様子をうかがいながら、きょろきょろと残り物を物色していた。しなびた野菜を顔をしかめて取り除こうとしたり、しぼりとったレモンを吸い取ったり、魚の骨に残った肉を舐め取ったりしていた。
何個目かの鍋を片付けたあと、瑠璃は骨ばかり残った肉を舐めようとしていたフランクの後ろに立った。ぎょっとした顔で、フランクが振り向く。
「先輩」
「なっ、なんだ。これはやらんぞ!?」
「……先輩は――口は堅いほう?」
瑠璃があまりに真剣な顔をしたので、フランクは言葉に詰まった。
というより、瑠璃の背中あたりからする気配が、圧を放っていた。
ㅤ本来ならば我が主への献上品を、恐れ多くもただの人間風情が機会に恵まれたというだけで、その恩恵に預かろうというのだ。それだけの覚悟を持っているのなら、ここなる小娘の慈悲と能天気さに、そしてなにより自らの幸運に感謝しろという目――なのだが、実際はそこまで明確には伝わっていなかった。じっとりとした圧になるだけである。
「……ば、場合によるな。もしあれだったら船長に報告――」
「そっかあ。じゃあ、……いいや」
あっさりと引いた瑠璃に、フランクはぎょっとする。
「ちょ、ちょっと待て。何か持ってるのか?」
「んー? そんなこと言ってないけど……」
瑠璃はそう言い出すと、後ろを向いて皿に手をかけた。約束が守れないなら出せない。本当にただそれだけのことである。
その瑠璃を、今度はフランクががしっと掴んだ。
「まーまーまー。まぁまぁまぁまぁ。ちょっと座れって後輩」
フランクは呆気にとられる瑠璃をキッチンの椅子に座らせ、その肩を揉む。
「えっ。なに!?」
「いま、船長も他の奴らも酒飲んでいい気分だからよ、ここには滅多なことじゃあ来ねぇよ。……何か隠し持ってんだろ?」
「先輩、約束できる? 誰にも言わないって」
「おう。男に二言はねぇ」
「んー……。じゃあ、今から見るのは秘密ね」
瑠璃は、それとわからないようにして影の中から箱を取りだした。途端に声を鎮める。フランクにしてみれば、突然白い箱が出現したように見えただろう。
「こいつは……?」
「レモンのケーキだよ」
「げぇっ? またレモンかよ」
食べ飽きているらしく、フランクはそう言う。やはりこの船ではレモンは常食らしい。しかしそれなら、都合がいい。期待させやがって、とぶつくさ言うフランクを横目に、瑠璃は蓋を開けた。
中からケーキを取り出す。げんなりしていたフランクは、ケーキを見た途端に自分の口を手でおさえた。
そこにあったのは、まばゆいばかりに真っ白なケーキだった。上にはうっすらと黄色いゼリーが乗っていて、そこに綺麗にカットされたレモンが並んでいる。夏の爽やかさを醸し出している、まさに夏のためのケーキだ。
「な……なんだこりゃ!?」
「レモンヨーグルトケーキ」
「ケーキ……こいつが、ケーキ!?」
この世界では、ケーキといえばパウンドケーキやシフォンケーキのほうがまだ馴染みや見覚えがあったんだろう。こういう生ケーキは貴族や王族でしか口にできない。それも、持ち運びができないので作ってすぐに食べないといけないものだ。庶民は口にすらできない。
「お、お前っ!」
フランクは驚いたように瑠璃に飛びついてから、思わずというように口を塞いであたりを見回した。キッチンには他に誰もいない。
「お前、こんなものをどこからっ……」
「しーっ!」
ひとまず口元に指先を当てて、静かにするように促す。二人して近づいて口に人差し指を立てると、まるで脱獄でもするかのように声を潜める。
「というか聞いてたでしょ。お菓子を運ぶ途中だったって」
「あ、あれ、本当だったのか……。どこにしまってたんだ、こんなもの」
「使い魔の中」
それ以上説明のしようが無い。
ㅤ自分の使い魔ではないが、嘘は言っていない。
「お前、魔法使いだったのか!?」
「しっ!」
もういちど周囲を見る。
フランクはもういちど口を手でふさぎ、きょろきょろとあたりを見回し、耳を澄ませた。
「い、いいじゃねぇか。そんなの持ってたなら、この先輩に、は、早く渡すんだな」
本来ならバルバロッサに報告すべきなのだ。
だが、この時点で完全にフランクは混乱していた。
ㅤすうっとナイフが入れられると、円形が真ん中で切り分けられた。上に乗ったレモンの瑞々しさは失われていないようだった。
ナイフがわけ入り、ざくり、と下の方で音がする。土台は砕いたクッキーとクルミを混ぜた生地だ。
「残しといても悪くなっちゃうだけだし、何処かで食べないといけなかったんだよね。でも半分にしておこうか。明日のぶんで」
フランクの視線は半円になったケーキに釘付けになっていた。瑠璃は半分より少し大きくして、フランクに渡した。これなら文句は出ないだろう。自分の分を少し切り分けて、フランクが見ていない間に影の中に落とした。そして、ついでに箱もしまいこむ。
「そ、そうか。明日のぶんか。そうだよな」
「口に合うかどうか分からないけど……」
「そうだな。そこからだ。レモンなんか食べ飽きてるからな」
フランクはごくりと喉を鳴らしてから、白い部分にスプーンを突き刺した。ぷるんとした柔らかい感触がかえってくる。
「くっ……!?」
口の中に最初に入ってきたのは上品な甘さだった。ヨーグルトの爽やかな酸味と甘み。何かで固められているらしいヨーグルトが、仄かな乳の匂いと優しい味わいになって舌の上に着地した。ヨーグルトは舌の上で少しずつ崩れ、あっという間に喉の奥へと消えてしまう。
普段は甘みのあるものなど食べられない舌は、その甘さを求めた。もう一口を食べたくて仕方がなかった。
下の方はクッキーを砕いた生地だ。ザクザクとした食感が、変化を与えてくれる。
上のゼリーも甘く、プルプルとした舌触りがたまらない。仄かにレモンの風味がするが、フランクは今まで食べたどんなレモンよりも美味い気がした。
そのとき、意識的に避けておいたレモンが一緒に入ってしまった。やってしまった、と思ったのもつかの間。甘味にぴったりの酸っぱさが甘味を引き立て、より爽やかな味わいになることに気付いた。
「あ。美味しい!」
ごく普通に美味しいとのたまう瑠璃に、フランクは震えた。何故かそんなに冷静に美味いなどと言いきれるのか。
「おまっ……お前!」
「美味しいでしょ!?」
にっこりと笑う瑠璃に、もはや同意するしかない。
「お、おう。な、なかなか、や、やるじゃねぇか……」
そして今度はフランクの素直ともいえる反応に、うっかり顔が緩む瑠璃。
「なに笑ってる!?」
「いや~、こういうの毎回持ってくんだけど、必ず『まあまあ』としか言わない人がいるんだよね~」
「なんだそいつ。バカ舌なのか?」
「んふっ!」
辛辣な一言に思わず噴き出しそうになる瑠璃。
足下でヨナルがさすがに物言いたげな目をした。
「でも、気に入ってくれて良かったよ~。甘さひかえめって話だったから、どうなるかと思ったけどね」
「ん? どういうことだ?」
砂糖にあまり身近ではないフランクにとって、砂糖は入れるだけ入れるという印象しかない。砂糖は甘くて美味しい。美味しいものならどれだけ入れてもいいという感覚なのだ。
「甘さひかえめのこと?」
「まだこれ以上甘くできるのか!?」
「うん?」
「い、いや、甘さが足りねぇなと」
「ふうん? あ、そうだ。甘さが足りないなら、これはどう?」
瑠璃はスイッと目の前に瓶を出した。
きらきらと輝くばかりの瓶がそこにあった。
黄金色の蜜に、見た事のある黄金色の果実が浮いている。
「なんだこいつは!?」
「はちみつレモンだよ。レモンのはちみつ漬け。糖分もとれるし、疲れもとれるよ」
本当はチョコレートをあげた方がいいのだろうが、まだこっちのほうが「言い訳」が利く。それに、はちみつも栄養価が高くてエネルギー源としては即効性が高い。この世界でも甘味として使われていたはずだ。
それに、チョコレートよりもこっちのほうがあうはずだ。
蓋を開けると、ポンという音がした。ビクッとするフランクを横目に、スプーンを中に突っ込んだ。レモンごと持ち上げる。単体の蜂蜜よりも柔らかく、トロリとした黄金色が誘うように糸を引く。
「ホントは水とかで割って飲む……」
瑠璃が説明する前に、ケーキの乗った皿がザッと目の前に滑ってきた。
甘さが分離しないかなこれ、と思ったが、瑠璃はケーキの上に黄金蜜をかけた。とろとろと流れ落ちる蜜は食欲を誘う。最後にレモンを乗せると、するすると流れに乗って落ちてゆく。
有無を言わさず、残ったケーキをかきこむようにして口の中へと運び込んだ。特に土台のクッキー生地に染み込んだ部分は、フランクをがっちりと掴んで離さなかったらしい。
「うっ……めえ!」
心の底から言うフランクに、瑠璃はにこにこしていた。足元でヨナルがやや不機嫌に足首に絡む。
「お前、本当に何者なんだ」
「迎えの来ない迷子だよ」
「なんかちょっとキレてないか?」
足元で睨むように瑠璃の足首を噛んで主張していたヨナルが、少しだけ力を弱めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます