74-1話 迷宮・海・遭難

 今まで色んなことがあった。

 そもそもが扉のついている鏡が異世界に通じていたところから始まって、その先に迷宮の主が封印されていたり、王族の末裔が殺しに来たり、土地を取り戻したり、幼馴染みが勇者だったり……。

 とにかく色んな意味で異常事態と言われるような出来事が多々あった。


 でも、何がどうしてこうなったのか。

 現状ほど異常事態レベルマックスになったことはなかった。


「それで? アンタはいったいどうしてこんなところに漂ってたんだ?」


 各方面から突きつけられた細い剣に、瑠璃は正座のまま引きつり、縮こまりながら両手を挙げていた。

 燦々と照りつける太陽の下。

 広がる大海原。

 そこを行く一隻の船の上。


 何がどうしてこうなったのか、瑠璃のほうが知りたかった。







 一時間ほど前――。


 瑠璃は一週間ぶりに扉の向こうへ行くのに、お菓子をこれでもかと選んでいた。

 行かなかった理由は簡単で、単にテスト週間だったからだ。三年生の一学期の期末テストともなれば、皆気合いが入ってくる。これが終わればもうすぐ夏休みだが、受験を控えた瑠璃たちにとっては勝負の夏だ。中には推薦で早くから決まる生徒もいるが、ひとまずは皆勉強に力が入る。

 とはいえ、テストという一時的な緊張感から解放された瑠璃は、その勢いでかなりの数のお菓子を買い込んでいた。扉の向こうの友人はチョコレートが好きなくせに、業務用チョコレートでは満足しないらしい。なにより「業務用」という響きが気に入らないらしく、全部たいらげた後に、次は無い、と断じた。だから、近所のスーパーの品揃えでも感謝したいくらいだ。まだ持っていったことのない商品はいくらでもある。

 しかし、瑠璃だってただただ普通のチョコレートを持っていっているわけではない。ちゃんと情報収集もしている。


 たとえばイスラエルで冬に並ぶという、クレンボ。

 フランス生まれのオランジェット。

 ブラジルのチョコレートボール、ブリガデイロ。

 ドイツの黒い森、フォレ・ノワール。


 瑠璃の隠し球は確実に増えていた。

 チョコレートを使った菓子は意外に存在しているものだ。


 だが、今日のチョコレートはあくまで一週間留守にした、ご機嫌取りのためのチョコレートだ。本来の目的は、別のところにある。

 瑠璃は目的地に行く前に、買い物籠の中にレモンの蜂蜜漬けを二つ突っ込んだ。ひとつはカイン達用で、もうひとつはブラッドガルドと自分用だ。ついでに炭酸水の入ったペットボトルを二つ買う。これでレモンスカッシュにするのが最高にたまらない。

 それからスーパーを出ると、すっかりおなじみになった近所のケーキ屋に足を向けた。既にずっしりと重いスーパーの袋が、暑さに拍車をかける。


 中に入ると、クーラーの効いた店内が汗を吹き飛ばしてくれた。


「すみません、予約していた萩野ですが」

「はい、萩野様ですね。レモンヨーグルトケーキのホールケーキでよろしかったでしょうか?」

「はい!」


 スマホの予約画面を見せたあと、確認のための電話番号も告げる。

 甘夏はこの間食べたから、今度はレモンだ。

 レモンは単体では酸っぱくてなかなか食べられたものではないが、こうして夏になるとお菓子によく使われる。特に最近の流行りである瀬戸内レモンを使ったヨーグルトケーキを、瑠璃は一週間前から楽しみにしていた。ヨーグルトも以前ブラッドガルドに持っていったが、レモンを使ったケーキなら合格を貰えるだろう。しかも、かなり奮発してワンホール分もある。大量のチョコレートに、ワンホールケーキ。これで落ちないブラッドガルドはきっといない。

 瑠璃はついでとばかりに、店でクッキー缶をひとつ買い込んだ。これもカインへのお土産だ。さすがにレモンの蜂蜜漬けひとつでは、主役感に欠けるだろう。

 代金を支払って外へ出ると、ずっしりとした重みが両手を支配する。

 学校の荷物を肩に、頼まれた買い物と、ブラッドガルドへのチョコレート、カインへのお土産をそれぞれの両肘に引っかけ、大きな真っ白な箱を持ち運ぶことになる。


「うおお……」


 照りつける太陽の下、瑠璃はできるだけ日陰を歩く。

 せめて日傘でも持ってこればよかったと思っていると、不意に石壁に映った影が動いた。


「ん」


 影からせりでてきたのはヨナルだった。瑠璃が周囲を確認すると、ちょうど誰もいなかった。だから出てきたのだろう。ヨナルは、いましがた出てきている影をちょいちょいと示した。

 何かの意図があるのだろうが、通じなかった。瑠璃は目を瞬かせて不思議そうな顔をする。無言のまま向かい合っていると、ヨナルが瑠璃の持っていた白い箱をそっと口でくわえた。瑠璃は何をするんだろうと思ったまま手を離すと、ヨナルはそれを影の中へと収納した。

 ヨナルがちょいちょいとビニール袋を頭で突いたので、今度はそのまま手渡す。もうひとつ持っていたビニール袋も、無事に収納された。


「あ、ありがと、ヨナル君」


 礼を言ったものの、自分の影が荷物入れになっていることに若干の動揺を隠せなかった。実際には瑠璃の影ではなく、影に入り込んでいるブラッドガルドの使い魔、影蛇たるヨナルの領域に収納されているのだが、瑠璃には違いがわからない。


「……あ、でもちょっと重い」


 少し楽にはなったものの、体に感じる重みはある。むしろ、背中に背負ったような感覚がする。手が自由になった分、つらさは減ったが。

 ヨナルの頭が瑠璃の持っていた通学用のカバンを少しだけ押す。


「これはいいよ、自分で持つから」


 ヨナルの頭をちょん、と指先でつつくと、ひんやりとぷにぷにした感触がかえってきた。


「早く帰ろ。きみのご主人も、お腹空かせて待ってるからね」


 瑠璃がそう言って歩き出すと、ヨナルは影の中に入り込んだ。少しだけ揺れた瑠璃の影は、誰にも見られることなく元に戻る。

 さっきまで荷物で一杯だった瑠璃は、気軽に帰り道を歩いた。少し足早に、一週間ぶりのお茶会に心を躍らせながら自宅のあるマンションへと帰る。それでも家に帰り着くと、いつも通りのルーティンは忘れずにこなした。

 手洗いとうがいを済ませたあと、ひとまず着替えを済ませる。ベッドに放り投げたカバンの中からスマホだけ取りだしておいて、リビングに戻る。


「んーと……」


 壁に影を作ると、もぞもぞと影が動いた。ヨナルが姿を現したあと、自分の影の中を頭で探る。ビニール袋がひとつ、かえされる。


「お、ありがと」


 もはや自分の影から出てくることになんの疑問も持ってはいなかった。

 かえってきたビニール袋を手に、キッチンへ向かう。


「もう一個のやつと、箱は預かっててくれるかな。すぐ持ってくから」


 ヨナルがこくりと頷く。

 ビニール袋の中身をすっかり冷蔵庫と保管庫の中へ入れてしまってから、瑠璃は腰に手を当てた。


「おしっ」


 気合いを入れて、ちょっと得意げになって自分の部屋に戻る。

 目の前には、古びた色合いに加工されたアンティーク調の小さな扉がある。本来なら、その向こうには鏡があるはずだ。

 瑠璃は小さなドアノブに手をかけると、深呼吸してにやりと笑ってから勢いよく開けた。


「やっほー! ブラッドく……」


 その言葉がすべて紡がれることはなかった。

 見覚えの無い水色をとらえた瑠璃の視界は、向こう側に足を踏み入れた瞬間、どういうわけかまっすぐ下にスライドした。ばしゃーん、という物凄い水音とともに、バラエティ番組も真っ青なほど綺麗に落ちたのである。


「おごがばっ、べああ!?」


 あまりのことにパニックになりかける瑠璃。

 唐突に水の中に入ってしまったことで、まったく準備が出来ていなかったのだ。どちらが水面なのかもまったくわからず、水を掻いても上昇しているのか下降しているのかわからない。


 ――う、ぐ、ぐるじっ……


 そのときだ。不意に首根っこが引っ張られ、勢いよくどこかに引っ張られた。

 ずもも、と水面が盛り上がり、中から黒い頭が飛び出る。影のような蛇は口で瑠璃の首根っこを引っかけ、目を丸くしながら焦った様子で軽く振った。


「おおおお……。よ、ヨナル君ありがとう……」


 目を回しながら、自分を引っ張り上げてくれた使い魔に言う瑠璃。

 なんとか息を整えたあと、周囲が妙に明るい事に気付いた。


「は?」


 ゆっくりとヨナルは口を開き、瑠璃を水面に近いところで落ち着かせる。瑠璃も泳げないわけではないが、この現状にはパニックにならざるをえない。

 どことなく肌にはりつくようなこの水。

 しかもしょっぱい。

 海だ。


「え?」


 ――ど、どこここ……。


 瑠璃があたりを見回している間に、仔牛くらいなら飲み込めそうだった大きさのヨナルが、次第に小さくなっていった。省エネ体型になったヨナルは、瑠璃の頭にぐるんと捕まった。まるで水面から逃れるように、瑠璃の頭の上で縮こまっている。


「ヨナル君? ……あ、そっか。影……」


 水面だと微妙に不安定なのかもしれない。

 あるいは、本体であるブラッドガルドからだいぶ離れているのかもしれない。


「だ、大丈夫。私のなか入ってていいよ」


 だがヨナルは濡れた髪の毛の僅かな隙間に入り込んだあと、首元にできた影からちょこんと顔だけを出した。肩口からは、慌てた様子のカメラアイが何匹か出たり引っ込んだりしている。目しか存在しない肉塊に、蜘蛛のような足がついた奇妙な眷属だ。魔力も少なく、はたから見れば存在価値のわからない眷属であるが、彼らは名前通りカメラである。ネットカメラに近く、お互いに魔力で繋がって遠くの映像も見られる。たぶん話し合うこともできるだろう。

 いったいいつから自分の影に入っていたのかわからないが、たまたま自分の部屋にいた時に影から出てきたので、ストックのコンペイトウをあげた事があった。それ以来、どうもとっかえひっかえ――個体の区別はあまりつかないのだが――何匹か自分の影に住んでいるらしい。そんな彼らまでもが慌てた様子でいることから、これはブラッドガルドの眷属や使い魔から見ても、「非常事態」に違いなかった。


「ええ……ほんとなにこれ……!?」


 まさかブラッドガルドが、一週間ぶりのお茶会を放り出して海に投げ出すはずがない。

 そもそもなにゆえ、自宅から迷宮までの徒歩ゼロ秒で海上で遭難するはめになっているのか、理解が追いつかない。


 ――そ、そういえばここに落ちる前、誰かいたような……。


 迷宮のお茶会部屋の中に、水色の服を着たような誰かがいた気がする。

 お茶会部屋ではあまり見ない色だったからか、その色の印象だけが妙に強く残っていた。だが、それが誰だったのか、もしくは何だったのかはわからない。


「とにかく、どっかに島とか……」


 島を探そうにも、そもそもがここが海のド真ん中ということしかわからない。改めて周りを見回す。すると、向こうのほうにちょうど船が通りすがっているのが見えた。


 ――船あるじゃん!


「おーい!」


 これ幸いとばかりに、瑠璃はほぼ何も考えないまま大きく手を振る。


「おーい!!」


 とにかく必死に手を振ると、船は瑠璃のほうへとまっすぐ向かっていた。だんだんと船が近づいてくる。海の真下から見る船は、意外に大きい。弾き飛ばされそうだ。


 船が近づいてくるのを見上げると、そこに人影が動いた。

 がっ、と音を立てて、豪快に船首に片足がかけられる。

 朱色の長いコートのようなマントが翻る。膝下まで覆う黒いブーツの上に、艶めかしい太ももが見えていた。短パンの上には良く焼けた腹。そして白いシャツでも隠しきれない、豊満な胸。ウェーブした茶色の髪の上には、マントと同じ色の、いわゆる三角帽子と呼ばれるそれがあった。


「変な魔力が浮いてると思ったら! そんなところで何してるんだい? お嬢ちゃん!?」


 それは何かいいものを見つけた、という顔で、青色の瞳がにやりと笑った。


「……ねえ。これやばいやつじゃないよね?」


 瑠璃が真顔でそうヨナルに尋ねたのは、どうにもその姿がまっとうな「船長」には見えなかったからだった。

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