挿話37 世界樹の異変

 庭は、穏やかな風が吹いていた。

 中心にそびえた世界樹はいつになく煌めき、葉の合間から心地良い木漏れ日を大地に落としている。

 エルフの長老は、世界樹の幹に触れて見上げた。ざわざわと木の葉が応えるように揺れる。世界が均衡を取り戻してから、世界樹もずいぶんと安定していた。光と大地と水が要となった世界に、影が生まれた。それは本来、四つの力によって生まれた世界樹が、元通り四つの力によって支えられた――。どことなく憂いのような寂しさのようなものがあった世界樹は、かつての姿を取り戻したようでもあった。

 老エルフの顔が和らぎ、ふ、と笑みを浮かべた。皺の刻み込まれた顔はどことなく若さを取り戻したようにも見える。それを感じ取ったのは、長老の背後から近づいた影だけだった。

 振り向くと、影の主――美しい女性へと視線を向けた。


「世界樹様は、相変わらず安定しておられますよ。女王」

「そうですか。……これで、もっとはっきりとしたお言葉を下さればよろしいのですが」

「さあ、そこまでは」


 老エルフの穏やかな返答に、女王は目線を向けた。


「お茶を淹れましょう」


 長老は少しだけ微笑むと、ヤカンの方へと足を向けた。

 その間に、女王は切り株のテーブルへ足を向けた。椅子代わりの小さな切り株へと腰を下ろす。僅かに顔をあげ、茶を淹れる長老の横顔を眺めた。

 女王の目から見ても、その動きは柔らかく落ち着き払って見えた。老エルフはなによりも世界樹と一番近い存在。世界樹が活性化していれば、実際の年齢に関係なく見た目の老いは抑えられるものなのではないか――確証はなかったが、彼女はそう推測した。


 反面、老エルフから見た女王もまた落ち着きを取り戻しつつあった。勇者の出現どころか、宵闇の魔女の出現によってもヴァルカニア争奪戦から遅れをとってしまった。しかしそれは女王だけでなく、世界全てがそうだと言えた。

 完敗だったのだ。

 どれほど理由をつけようと、宵闇の魔女はすべてかっ攫っていった。魔女の目論みがなんであれ、不思議なことに世界にとっては良い方向へと動いたようだ。事態は既に次のステージに向かって動きつつある。ヴァルカニアを危険視している場合ではないし、忌み嫌っている場合ではない。こうなれば、少なくとも宵闇の魔女と先んじて接触した所が次の一歩を踏み出すだろう。


「いかがですかな。宵闇の魔女殿のことは、わかりましたか」


 長老は木杯を二つ手にして、テーブルに戻る。

 差し出された木杯を受け取ってから女王は続けた。


「……いいえ。結局あれから、魔女は表舞台から去っているようです」

「そうですか」

「今度、ヴァルカニアにも使者を送るつもりですの。そこで何かわかれば良いのですけれど……」


 つまりは結局、まだ何も分かっていないのだ。

 だが、ただひとつだけ。


「やはり『落ちた夜の欠片』とは、迷宮に降り立った宵闇の魔女そのもの……だったということになりましょうな」


 長老はそう告げると、木杯の中身に息を吹きかけた。


「『大地の子』が勇者殿のお名前であったように……。そういえば、宵闇の魔女にも名前くらいはありましょう。それすらもわからぬのですか」

「ええ。不思議なことに」


 勇者の名前は全土に轟き、その名が何を意味するかまでも囁かれた。

 それなのに、魔女に関しては一切の情報が無い。ヴァルカニアが黙っているという事もありえるが、それにしたってもう少しくらいあってもいいだろう。


「夜の欠片は、古き蛇……ブラッドガルドの執着を剥ぎ取ったのですね」


 小さなため息とともに、女王は言った。


「……いやはや。これまで通り、虚無の王……ブラッドガルドなどとは呼べませぬな。かといって、元の通り、火龍カウィル様とお呼びするのも我々には烏滸がましい。悩ましいものです……」

「……」


 女王は何も言わぬまま、木杯に口をつけた。

 沈黙が降りると、鳥のさえずりがどこかで響いた。静かで平和な時間だった。世界樹の葉は明るすぎる日差しを隠し、柔らかな木漏れ日となって二人へと降り注ぐ。


「……それでは、『錆びた大顎の主』とは誰の事なのでしょう」


 女王がそれを口にすると、長老はふむ、とだけ呻いた。


「世界樹様のお言葉ですな。『原初の星の向こう、錆びた大顎の主が帰還する』……」

「帰還、というからには……闇の神として君臨したブラッドガルドの事だったのでしょうか」


 そう尋ねるようには言ったものの、その声色には不安定なものがあった。確証が無いのだ。


「しかし、それならば『錆びた』――などとは世界樹様は告げられぬでしょう」


 女王は黙って頷く。


「新たに生まれ変わられたお方です。少々、言葉としては不自然な気が致しますな」

「そうですね。……どちらかというならば、何か……。本当に、つかみ所がない……」

「……我々が知らぬ事実があるのやもしれません」


 四柱の神であり、四体の精霊は、世界を作る前のことはあまり伝わっていない。どこからやってきて、どうしてこの世界を作ったのか。土と水の精霊は早々に口を閉ざして大地と海となり、火と風の精霊はよく知られた通りの有様になっていた。

 だからもしも――四人しか知らないような何かがあったとして、それはこの世界に住む者たちが知るところにはない。


「せっかく、すべてが良い方向へと向かったのです。これ以上――」


 そこまで言った長老の瞳が、一瞬だけ宙を向いた。

 時が止まったように停止すると、体がぐらりと横に揺れる。切り株の椅子には、長老の体を支えるだけの背もたれも受け止めるだけの肘掛けもなかった。だから長老の体はそのまま地面へと叩きつけられ、女王はその光景をスローモーションのように息を止めて見ているしかできなかった。


「……長老」


 女王は木杯を置いて立ち上がり、すぐさま布を翻して老エルフの隣へと膝をつく。


「どうされました。長老?」


 近くに転がった木杯をどかし、小さく呻く老エルフに声をかける。既に意識は回復しているようだが、体を打ち付けたことのほうがダメージは大きそうだった。


「だれか――」


 若いエルフたちが手助けするだろうと、視線をぐるりと木々の向こうへ回した女王は、その目を大きく見開くことになった。

 何しろ、木々の向こうからでてきたエルフたちは皆、頭に手をやったり、膝をついたり、明らかな不調をきたしていたからだ。


「う……」

「……ああ」

「なんだ、いまのは……」

「ちょ、長老……大丈夫でしたか」


 女王は口元に手をやった。

 光のような精霊たちが、奇妙な飛び方をしている。異変を敏感に感じ取っているらしい。


「これは……一体どういう……」


 これが、長老ひとりだけであったならばまだ理解できる。

 既に老体になったエルフのことだ、不調だって起きる。事実、以前も自分の肩を叩いていたり、腰の痛みを憂いていた事ぐらいある。だがこれはなんだ。はかったかのように、エルフたちが一斉に同じタイミングで不調をきたすなどありえない。まるで、何か得体の知れないものにあてられたようだ。

 心の底からぞっとした。

 エルフたちは世界樹とともにあるもの。数を減らし、次第にその加護から抜け出す者が多くいてもなお、その影響はある。そんな彼らが一斉に何らかの影響を受けたということは。


 女王ははっとして長老へと視線を向け、老いた体をなんとか上半身だけ起こさせた。目眩は一瞬であったらしく、老いたエルフは頭に手をやりながらなんとか座り込もうとしていた。


「……おお……女王……。これは、面目ない……」

「そんなことはいいのです。すぐに状況の報告をしなさい。さもないと――」


 言いかけた女王の口は、上からのばきりという凄まじい音で閉じた。


「……せ、世界樹……様が……」


 老エルフが手を伸ばした先へ、女王も視線を向けた。世界樹の枝の先が、一本だけまっすぐに落ちてきているところだった。言葉など通じなくとも、何かが起きたのはすぐにわかった。

 何の気配も無かった。ひとりでに落ちてきたに違いなかった。だが老エルフの手におさまった枝は、枝の先も葉も、得体の知れないものに噛みちぎられたようにずたずたになっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る