73話 甘夏ゼリーを食べよう
「うあ~~~」
中間テストを終えた瑠璃は、外に出ると呻いた。
テスト帰りの他の学生たちも、試験終わりの緊張感の抜けた表情と、少し熱のある外の気温で疲れたような顔を見せている者で、半々だ。
初夏。
夏の気配。
もうすぐ夏がやってくる。
傘を手に続いてきた友人たちも口々に言う。
「うわー。もう暑いじゃん。なにこれ、湿気?」
「も~~、せっかく雨があがったと思ったらこれだよ」
「傘は必要なくなったのにねえ」
朝持ってきた傘は不要になった。その代わりに雲の隙間から覗く日差しは、既に夏の気配。やや湿気を含んだ空気は、ただでさえ疲れ切った学生たちをうんざりさせるのに充分だった。
「瑠璃はどうする? これからなんかあんの?」
「んああー。とりあえず買い物頼まれたから、行ってこないと」
「ああそっか。ミキはー?」
「あたしはコンビニ寄って帰る。今日、午後から歯医者なんだよ」
だらだらとした帰り道。
横目で運動場を見ると、既に野球部の生徒たちが着替えを終えて出てきたところだった。
最後の夏、という言葉がよく似合う。
「もうすぐ夏だねー」
「うん」
その言葉には、受験の夏を控えた高校三年としての僅かな重みがあった。
*
「……で、夏と言えばそろそろ甘夏の季節だったなと思ってさ~~」
「わけのわからんことを言うな」
ブラッドガルドは即座に言い捨てた。
瑠璃が持ってきたプラスチックのパックを改めて一瞥してから、ブラッドガルドはなんとも言えない目で瑠璃を見る。
テストを終えた瑠璃が帰ってきて一方的にまくしたて、たどり着いた結論は、まったくそれまでの話と脈絡がなかった。いつものことだ。
「で、なんだ。その手に持っているのが『あまなつ』か?」
「いやこれはゼリー」
「……」
思わず沈黙するブラッドガルド。
「甘夏っていう果物を使ったゼリーだよ、これは!」
「……貴様は……何故毎回もとのほうではなく菓子になったものを先に持ってくるのだ……?」
それはそれで、ツッコミ所がある。
メロンパンの時のことを思い出しながら、ついそう言うブラッドガルド。しかし瑠璃のほうはすっかり忘れていたらしい。「そうだっけ?」などといいながら首を傾げる。
「でもいいじゃん、これはちゃんと甘夏の実も入ってるやつだよ!」
「ふん。……まあ、いい。甘夏についてもしっかり聞かせてもらうからな……。この季節のものなのか?」
「出てくるのは春から夏にかけてなんだけど、どっちかっていうと初夏のイメージだね!」
「貴様の勝手なイメージではなかろうな」
「でもほら、どんな果物でもそうだけど、最初らへんに出てくるのって、ねえ?」
酸っぱかったり、水分がなかったり。高級店や果物専門店のものならいざ知らず、時期が少し早いとそういう事もあるものだ。瑠璃は同意を求めるが、ブラッドガルドは黙ったままだった。
「ゼリーって基本的に果汁で作るから、ものによっては実は入ってなかったりするけどね。ちょっと待ってて」
瑠璃はどさどさと持ってきた甘夏ゼリーをテーブルの上に置いた。それから、トレイに置かれた透明なデザートカップを同様にテーブルの上に置く。そしてそのなかに、蓋を開けたゼリーをどさっと流し込んだ。柔らかなオレンジ色がぷるん、と揺れる。中には甘夏が入っていると言っただけあって、かなりしっかりと実が詰まっていた。
カップのひとつをブラッドガルドのほうへと滑らせると、続けてスプーンを手渡した。
瑠璃がそっとスプーンでゼリーをかきわけると、透明なつやつやとした柔らかな感触を掬い上げた。ひとまずゼリーだけ口の中に入れると、シンプルな甘さが入ってきた。これはこれで美味しいが、柑橘系という感じはしない。なんとなく、肩透かしを食らったような気分になる。
だから今度は、甘夏の房をひとつ豪快にスプーンですくい取った。意外に大きい。皮はすべて取り払われているから、もうこのまま迎え入れるだけだ。
冷ややかな気配と一緒に、スプーンの上の果実を舌に乗せた。
甘いゼリーの向こう側に、果実があった。歯が小さな房を割ると、甘酸っぱさが広がった。爽やかな風を運んでくるようだ。ほんの少しの苦味は、嫌味がない。むしろこれから来る季節へのわずかな苦さを暗示しているようだ。
「あ~~いいね。初夏って感じ!」
「……」
初夏は水ようかんではなかったのか、という言葉を、ブラッドガルドは呑み込んだ。
「……それで、甘夏とはいったいなんだ」
「んっとね~~。まず、甘夏っていうのは……すごい簡単に言うと、こういうオレンジとかみかんの品種のひとつかな。夏みかんから枝変わりしたものなんだって」
「枝変わり?」
枝変わりとは、植物のうちの葉や枝、実などが突然変異などによって元の個体とは異なる性質に変化するものだ。動物とは違い、植物の場合は成長点から先が成長し続けるため、そこから先が元の個体と区別されて成長することがある。そのため、それらを挿し木にすることで、新たな品種が誕生することになるのだ。
「夏、とついているのは?」
「夏みかんって、他のみかんと一緒で秋のおわりには色付くんだって。けどその時点では酸っぱくて食べられたもんじゃない。だから冬に収穫したのを貯蔵して酸を抜くか、収穫せずにそのまま春まで完熟させると、夏に食べ頃になるから夏みかん」
「では、甘夏は」
「大分県で農園をやってた川野さんって人が、酸が減るのが早いものとして作ったんだって。それで川野夏橙って品種名になったんだよ。他にも甘夏橙とか甘夏みかんとか呼ばれて、それが略して甘夏」
一時期、輸入自由化されたグレープフルーツにおされて消費が減少してしまった。……となっているが、実際は様々な果物が輸入されたことで、柑橘類全体の消費が落ちたらしい。
しかしこうして初夏の味として生き残っているからには、まだ需要は完全に消え去ったわけではない。
「まあ、いまは缶詰の技術とかあるし。夏でもみかん缶とかあるんだけど、当時は貴重な夏の柑橘類ってことで重宝されてたみたいね。みかんも缶詰とかだと夏に食べるの美味しいんだよねー」
「……」
「そっちの世界ってこういう、オレンジとかの柑橘類ってある?」
「知らん、小僧に聞け」
「もー。最近知らないとすぐそう言うんだからー!」
しかもそれでカインに「それはなんですか?」とでも言われた日には、とんでもない事になるとわかりきっている。ブラッドガルドがニタリと笑いながら、知らないなら見せるしかないな、などとのたまいつつ、どこから取っておいたのかわからない種で勝手にそのへんに木を生やす。それが一連の流れだ。『外来種』の概念が国どころか世界を飛び越えてしまっては、もはやどうしようもない。
「まあ、無ければ無いで小僧の国に――」
「あー! ところで! ところでさあ!」
瑠璃は慌てて話をすり替えようとする。
「なんだ」
「えーと……あの……あ、そう! 古代ギリシャの伝説とかでよくある『黄金の林檎』って、オレンジのことらしいよ!」
「は?」
ひとまず興味は引いたらしい。
「ヨーロッパ圏の人って、基本的に果実のことを林檎って呼んでたっていうか。じゃがいもとかも土の林檎って呼んでた話があるくらいだし……」
「……ああ、かつては単に果実と呼ばれていたのが、次第に林檎単体を示すものになっていったと」
「トマトとかも昔は黄色いのが主流だったおかげで、黄金の果実って呼ばれてたしね……」
「つまり、神の実に引き続いて黄金の果実を食っていると言いたいのか、貴様は」
「神の実はなんか知らないけどブラッド君が広めただけだろ!!」
そこについては瑠璃はとばっちりである。しかも神の実は確かにそうとも言えるので始末に負えない。
「ヨーロッパ圏だと林檎って身近だったみたいだからさあ……。キリスト教の創世神話の『知恵の実』もそうらしいんだよね。中世にいろんな宗教画家がヨーロッパの発想で『果実といえば林檎でしょ』ってスタンスで描いたせいで知恵の林檎になっちゃったし……」
「……そっちのほうは正体はわかっているのか?」
やや呆れを含んだ声色で、ブラッドガルドは尋ねる。
「えーと。イチジクの葉で大事な所を隠したから、イチジクの実じゃないかって言われてるけど。当時はバナナのことをイチジクって呼んでたから、知恵の実はバナナ説あるよ」
「バナナ……」
ブラッドガルドの記憶の中で、昼食を終えた瑠璃がもしゃもしゃと皮をめくって食べていたのが思い出される。比較的身近で安価なイメージのバナナが知恵の実と呼ばれても、奇妙なだけだ。林檎にしたって、いまさらついたイメージを変えることはできないだろう。
「……バナナも無いかもしれんな……」
「絶対やめてね」
そこから連想される状況を想像して、瑠璃は思わず言ってしまった。気をそらすために、新しいゼリーを開けて、ブラッドガルドの空になったグラスにつっこんだ。
スプーンが入れられると、どうやら気は――いまのところは――逸れてくれたらしい。
「……しかし、貴様らはなんでも砂糖を入れるのか」
「え、どういうこと?」
「このゼリーとかいうやつだ」
「……。あー、もしかしてゼリー寄せのこと?」
瑠璃は一瞬考えてから尋ねた。
確かブラッドガルドの世界でも、ゼリー寄せは料理として存在しているらしい。
「まあ食品としては古いよね。ゼリー寄せの原型の煮こごりも、こっちじゃ古代ローマ時代から存在してるらしいから」
煮こごりは魚や肉を煮たあと、煮汁がゼリーのように固まったものだ。骨に含まれるゼラチンが出てきて煮汁を固めるもので、寒さなどの条件があれば自然に作られてしまう。更に料理として見たばあい、調理段階で使用された調味料や素材が凝縮されるため、かなりのうまみがある。
瑠璃は一度だけブラッドガルドを見た。
もしかして古くから存在しているから知ってるんじゃないだろうな、という目線だ。ブラッドガルドの詳細な年齢もわからないが、とにかく長く生きていることだけは確かだ。
「一応言っておくけど、お菓子としてのゼリーは別に日本で作ったわけじゃないからね……」
「じゃあどこだ」
「18世紀の終わりから19世紀のはじめくらいかな。アントナン・カレームが作ったんだよ」
瑠璃はスマホをスクロールする。
「18世紀からゼラチンって工業用で使われてたんだって」
「工業用?」
「具体的にはちょっとわかんないけど、古代エジプトだとニカワとして使われてたり、弦楽器の接着剤とか、写真のフィルムとかでも使ってたらしいよ。いまだと薬のカプセルにも使われてるらしいし」
「……なるほど」
ブラッドガルドの目線が一瞬細められたが、瑠璃は気が付かなかった。
「で、アントナン・カレームによってゼラチンを使った多くのデザートが作られて、定着してったんだって。当時って硬い食感のもののほうが好まれたから、いまの二倍くらいのゼラチンを使って固めてたみたい」
そこで瑠璃は一旦言葉を切る。
「ただ、今はゼラチン以外にも色々使ってるよ」
そもそもの大本となったゼラチンは、動物の骨や軟骨に含まれるコラーゲンが熱変性したものだ。ラテン語の『凍る、固まる』という意味を持つゲラーレという言葉に由来する。フランス語のジュレも語源は同じだ。ただ、近年ではジュレは水分の多いものをさすことが多い。
他にも有名どころではペクチンだ。こちらは植物の細胞壁の構成成分で、細胞同士をつなぎあわせる接着剤のようなもの。ペクチンゼリーとも呼ばれる、パート・ド・フリュイという、宝石のようなゼリーに使われるものだ。
また寒天はテングサなどから作られる凝固剤で、日本で発見されたもの。
カラギーナンはスギノリなどを原料とする凝固剤だ。
こうして様々な凝固剤が使われることにより、ひとくちにゼリーといってもかなりの幅広さを持つことになった。
「だが基本は変わらんのか。菓子としてもたいていは果物だろう?」
「ゼラチンとしてならもっといろいろ用途あるけど、ゼリーとしてはなあ……。果物じゃないっていうと、コーヒーゼリーとか?」
「……コーヒーを入れるのか」
「コーヒーゼリーって、日本発祥なんだよ。東京のミカド珈琲ってところが作ったっていう。だから海外ではそんな知られてなくて。最近だと日本の漫画とかアニメで出てきて、それで知ったって人も多いみたいだけど」
「……」
いまいち味の予想がつかないのか、ブラッドガルドは無言のまま視線を彷徨わせただけだった。
「……やる? 今度。ゼリーパーティー」
「……今からの季節なら、むしろアイスクリームだな」
「ブラッド君、好みが激しくなってきたな!?」
まさかブラッドガルドのほうから注文をつけられるとは思わなかったので、瑠璃はそれだけ言ってしまった。
「ま、いいや。コーヒーゼリーも今度食べよう!」
「……好きにしろ」
甘夏を口にしつつ、ブラッドガルドは答えた。
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