67話 シフォンケーキを食べよう
春。
どことなく白く暗い季節から、明るい日差しが差し込むようになった季節。
花は咲き、虫は飛び、鳥の鳴き声が響く。
雪の下から現れた地面には緑が顔を出す季節。
しかしそんな現代日本や地上と違って、シバルバーは常に渇いていて、岩と土だけの荒涼とした大地がどこまでも続く。常に変わらない景色。それは春になろうが何も変わらなかった。
ひとつだけ前と違うことは、空と思しき何もない空間に、きらきらとした星のようなものがあるだけ。これはブラッドガルド曰く「迷宮の魔力の暴走による残滓」らしく、やや忌々しい目で見ることがあった。
それでも夜の星が生まれたようで、瑠璃は嫌いではなかった。
「この部屋にさー。窓作らない?」
「……」
とはいえその提案は見事に却下されたわけだが。
ちょっともったいないしそもそも風が通らないのもどうかと思っているのだが、窓を作るのはまだ先のことになりそうだ。
「……そんな戯言を言っている暇があるなら、さっさとやれ」
ブラッドガルドは瑠璃が持ってきた箱を一瞥して言った。
「もー。ほら、せっかく花見じゃなくて星見みたいな感じになるかなと思ったのに」
「何が星だ」
気に入らないらしく、ブラッドガルドは鼻を鳴らした。
瑠璃はテーブルに置いた箱を開け、中から
「……バウムクーヘン……? いや、違うな?」
「あー。穴開いてるからね。これは、シフォンケーキ!」
瑠璃が出してきたのは、ほんのりとピンク色をしたシフォンケーキだ。円柱型で、中央には穴が開いている。その上部分には塩漬けにした桜が散っている。一緒に焼いたようで、生地にぴったりと埋め込まれていた。
「しかも桜のシフォンケーキだよ!!」
「は?」
春先には、こうして桜の季節にあわせたピンク色のスイーツが売り出される。
これもそのひとつだった。
たいていはピンク色をしていてもイチゴ味だったり、ベリーを入れて赤くしていたりするが、これは桜味そのものらしい。
「……桜餅のようなものか?」
「そうそう! これは桜の塩漬け使ってるやつ」
「土の中に、死体が……」
「なんでいまその話したの?」
なぜわざわざその都市伝説の話を始めたのか。
瑠璃はナイフを出すと、その塩漬けにした桜がひとつずつ乗るようにカットし始めた。そこそこ大きなシフォンケーキを切るのに手間取ったものの、まずはひとつカットすると、皿の上に寝かせて載せた。
それからもうひとつ、隣を切って、同じように別の皿の上に寝かせる。
すると瑠璃はナイフを置いて立ち上がり、くるっと視線を変えて自分の部屋へと足を向けた。
「あ、ちょっと待ってて。まだやることあるから」
「は?」
突然おあずけを食らったブラッドガルドは不機嫌そうに視線を向ける。
だが、開けっぱなしにされた扉の向こうへ行こうという気も無い。瑠璃が戻ってくるまで何をしでかすつもりかと視線を向けていた。
戻ってきた瑠璃は、冷蔵庫から小さな箱のようなものを持ってきていた。
「じゃーん!」
何かのパッケージのようだが、箱だけ見させられてもわかるはずない。
「……なんだそれは」
「シフォンケーキには、ホイップクリーム!!」
中から取りだしたのは、できあいのホイップクリームだ。
既にしぼり袋に入ったもので、蓋を開けて絞り出せばもう使える便利な優れものである。
「本当は生クリームなのかもしれないけど」
「どっちなんだ、貴様……」
瑠璃は蓋を開けると、皿の隅へとつけて絞り出した。
「おおお。良くない? 良くない!?」
「……まあ、発想だけはな」
邪魔だと言わないあたりに瑠璃は笑顔で返した。
「意外と使うの大変なんだけどね、こういう生クリームとかホイップって」
「全部かければいいだろうが」
「そりゃブラッド君はね?」
それに、できあいのものとはいえすぐに使ったほうがいいに決まっている。長いこと保存ができないため、日々何かに使っていく必要はあるのだ。
瑠璃はホイップクリームを載せた皿をブラッドガルドへと滑らせた。
「まあ、今回はブラッド君が全部使ってくれるとして」
「我を処理班扱いとはいい度胸だ」
「アイスのトッピングとか好きに使ってねっていうといつも全部使うじゃん……」
どうにも聞かなかったことにされたらしく、返事は返ってこなかった。
瑠璃は箱の蓋を中に入れ込むと、そこにホイップクリームを突っ込んでおいた。これで、後は使いたいほうが使えばいい。
瑠璃がフォークを入れると、ふわりとした弾力のある手応えが返ってきた。削り取った上にホイップクリームをちょいと乗っけて、フォークで差し込む。口の中へと入れると、シフォンケーキ特有のふんわりとした食感が舌の上を転がった。
それでいて、どことなくあっさりとした味わいだ。ホイップもやや控え目な甘さながら、シフォンケーキに色合いを添えてくれている。
その中を、ほんのりと桜の風味が駆け抜けていく。
「ちょっと桜味する!」
「貴様らは、桜を観賞したいのか食いたいのかどっちなんだ」
桜の塩漬けがあるところを口にすると、今度は僅かな塩分が甘さを充分に引き立ててくれた。
「……ケーキのスポンジと似たようなものかと思ったが」
「あー。使ってる材料が違うらしいよ。あと、シフォンにも意味があるっぽい」
「ほう」
瑠璃は当然のようにスマホに手を伸ばしたが、検索しながらふと尋ねる。
「ところでさあ、これいつまで続けんの。ブラッド君てもう復活してるわけだし」
「……話せ」
まるで睨み付けるようにブラッドガルドが言う。
眉間に皺の寄った表情。瑠璃は海外ドラマのように、これみよがしに肩を竦めてみせた。
「んっとねえ。シフォンケーキのシフォンは、英語で『薄い絹布』だって」
「絹布……?」
「絹織物のことだよ。そういう絹の生地みたいになめらかで、きめ細かくて、柔らかいから。あとこの形も、生地の生焼けを防ぐための、こう……、真ん中が突起になってる型で焼くんだけど、それもシフォンの特徴のひとつみたいだね」
「ほう」
「で、このシフォンケーキって、結構作られたのは最近みたいだね」
「いつなんだ?」
「一九二七年」
確かに最近だな、とブラッドガルドは思った。
しかし、瑠璃までもがそれを『最近』と明言したことに、無言のままになった。
とはいえ菓子の由来は遡ればどこまでも遡ることができるものもある。たかだか百年程度が最近になってもおかしくはなかった。
「えーと、アメリカのロサンゼルスで出来た事までわかってるみたいだね。しかも作った人までわかってる」
「また料理人か?」
「料理愛好家ではあるけど、元保険外交員のハリー・ベーカーって人」
「ほけんがいこういん……」
あまり聞き慣れない言葉に、ブラッドガルドはオウム返しをした。
「この人すごいよ。アパートの一室に秘密のキッチンを作って、そこでシフォンケーキ焼いてたっていうんだよ。それで一日に四十とか焼いてたみたい。すごくない? なんか……こう、秘密の工房っていうか……、内緒の薬というか……」
「貴様の発想は人のことを言えんぞ」
「で、色んな有名人とかも買ってて評判になったんだけど、考案してから二十年くらいずっと誰にもレシピを教えなかったんだって」
「何故だ?」
「うーん。なんでだろう。でもこの当時って、世界大恐慌と第二次世界大戦が立て続けに起こった時期だからじゃないかって言われてるね」
瑠璃は首を傾げた。
情勢が大変だったから下手に権利をぐちゃぐちゃにされたくなかったのかな、と瑠璃は付け加えた。
「一応、高齢を理由にして、一九四七年にはゼネラルミルズ社ってとこに売却されてるけどね」
「第二次世界大戦が終わったのはいつだ?」
「一九四五年」
「……ふん。情勢が落ち着くのを待ったわけか」
「そうなのかなあ。ともかくその後で、シフォンケーキの秘密があきらかになったんだよ」
「材料の話か?」
「そうそう」
瑠璃は頷き、スマホの画面をスクロールする。
「そもそも、シフォンケーキの元になったのは『エンジェルフードケーキ』っていうケーキだって言われててね。卵白だけで作る、真っ白なケーキなんだけど。これもドーナッツ状で、理由は天使のわっかみたいだからって意味だよ」
「……天使はよくわからんが、ドーナツもシフォンケーキも輪の形ではないのか……?」
「そういうのって最初に作ったやつに名付けちゃうものなんじゃない?」
そう適当に言っておく。
「で、このエンジェルフードケーキなんだけど。食感はいいんだけど、油脂を使わないからコクが足りなくて」
その説明を聞きながら、ブラッドガルドはカットされたシフォンケーキをひとつ、自分の手元へと引き寄せた。流れるようにホイップクリームのしぼり袋を手にして、ケーキの上に乗せた。それからしぼり袋を元に戻すと、指で掴んだまま口の中へと入れ込んだ。
「それなのにシフォンケーキはコクがある。秘密で作ってるし、材料はなんだろうってずっと謎だったんだけど、ここで植物油が使われてることがわかったんだって。サラダ油とかそういうやつだね」
「……まったくわからん」
「肉からとったやつじゃないやつ」
「貴様の説明が時々雑になるのは何なんだ」
「まあとにかくー。そのレシピも雑誌で紹介されて、シフォンケーキブームが起きたんだって」
そう言うと、瑠璃もホイップクリームのしぼり袋を手にした。
それから、まだ皿の上に残っているシフォンケーキの上にクリームを絞り出して蓋を閉めた。
すぐには箱に戻さず、絞り袋をテーブルに寝かせる。上のほうを指先で押さえ、中身を蓋のほうへと押しやった。
「日本に入ってきたのは、岩田有司さんって人が、カリフォルニアで食べたシフォンケーキに感動して、レシピを覚えたらしいよ。いま、日本でシフォンケーキっていうと『フレイバー』ってお店が有名なんだけど、その前身になる会社も作った人だね」
柔らかいもの好きな日本人には当然ウケて、以降は和風のバリエーションもだいぶ増えている。
この桜味のシフォンケーキもそのひとつと言えるだろう。
「どう? 抹茶とあずきのやつとか」
「あずきは甘い豆ではないか」
「いいじゃん別に。最近だとチューブ入りのつぶあんとか売ってるし」
「やめろ、せめてこしあんにしろ」
「ブラッド君のそのつぶあんに対する敵視なんなの……?」
チョコレートや塩味系のピーナッツは大丈夫なのに、いまだ「甘い豆」に対するブラッドガルドの忌避感は拭えていないようだった。
おかげでヴァルカニアではまだ変な噂がたまに横行していたが、瑠璃は知る由もなかった。「つぶあんが嫌い」という話は、単なる趣味嗜好という範疇を超えて、何故かそれがあるとブラッドガルドを倒せるというところまできていた。
カインがときおり正してはいたため中央部ではなんとかなっていたが、今度はそれを聞いた他国の人間がわけのわからない噂を更に流したのである。
なお、それを聞いたリクが更に頭を抱えたのは別の話だ。
「ところでさっきも言っていたが、天使というのはなんなんだ」
「簡単に言うと、白い羽の生えた神様の使い」
「……」
ブラッドガルドの目が睨むように細くなった。眉間に皺が寄る。
『白い羽』と『神様』のあたりがブラッドガルドの癇にさわったのだろう。
「ブラッド君てまだ女神様のこと嫌いなの?」
「は?」
何を当たり前のことを、と言いたげな視線で見られた。これは根が深いかもしれない、と瑠璃は思った。
そもそも、世界に溶けていたはずの大地や土を司る人が此処に来た理由もよくわかっていない。単純に、ブラッドガルドの様子を見に来たというのなら、それはそれでいいのだが。
――まあ、気にしてもしょうがないかな。
それに、瑠璃が入った時にはもう帰ったようだったので、ブラッドガルドが何かうまいこと説明して帰ってもらったのだろうと、瑠璃は信じ込んでいた。うまいこと説明するはずがないという現実を、瑠璃はわかっていなかった。
それに実際のところはどうあれ、帰ったもらったというのは事実である。
二人の間の認識にずれがあるだけで。
そして、そのずれが正されるのは先のことだ。今ではない。
ちなみに、エンジェルフードケーキに対して、デビルズフードケーキというものがある。真っ白な天使に対して、真っ黒だから悪魔だ。見た目としてもそうだが、「悪魔に魂を売ってでも食べたい」という由来がある。
そして、その真っ黒な色はチョコレートだ。
「……」
その符号に、思わず瑠璃は笑ってしまった。
「……何を笑っている?」
「うーん。ブラッド君は悪魔っぽいなーと思って~」
だがそのニヤニヤと笑う顔に、ブラッドガルドは呆れたようにシフォンケーキを頬張るだけだった。
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