59話 チョコの食べ比べをしよう(3)ワイン編

 短い豊作の季節は終わりを告げた。

 ブラッドガルドが倒されたあとのほんの少しの、長いようで短い期間。三ヶ月にも満たない間の出来事。

 朝に植えた種は面白いように伸び、夕方には実をつけた。摘み取った実は、朝になれば再び実をつけている。人手はどこも足りず、嬉しい悲鳴がどこからでもあがった。中にはその成長についていけず、時間を決めてやりくりする者もいた。そんな者を嘲笑い、ひたすら収穫に勤しむ者もいた。

 そんな忙しなくも喜びに満ちた収穫祭だったが、今度は当然保存の問題に直面する。実りは早いが、いつまでも保つはずがない。特に果物はすぐに保存用に加工された。ジャムやドライフルーツはもちろんのこと、中でも果実酒が多く作られた。


 実りのあとは、すべてが元通りになった。

 ブラッドガルドでさえも。

 闇の中から再びその双眸が地上を睨み付けようと、人々はまだ酔いの中にあり、暗闇を見ないで済んだ。







「というわけで、今日のボンボンはワインのやつ!」

「ほう」


 ブラッドガルドは取り出された箱をまじまじと見ていた。


「今日のは三種類入ったやつだから、箱のままにしとくよ。包んであるやつだし」

「中身はなんだ。違うのか」

「えーっと、包装の色が赤いのが赤、ピンクがロゼ。それでこっちの白いのが貴腐ワインだね」


 綺麗に並べられたチョコレートは、ワインの瓶のような形をしている。ひとつひとつ包装した銀紙にも、ワインらしい印刷がされているものだ。

 要はバレンタインの時期にしか出ないようなボンボンである。といっても、瑠璃はバレンタインからホワイトデーに移行する直前の催事場の片隅で、値段が下がっているのを買い込んできただけなのだが。


「貴腐? なんだそれは」


 相変わらず食いつきが凄い。

 既に腕は伸ばされ、赤ワインと言われたチョコレートをひとつ、かっ攫っていった。


「これもたぶん中身が液体のやつだから気をつけてね」


 先んじて言っておいて良かった。なにしろ瑠璃が言い終えたときには、ブラッドガルドは銀紙を外して中身をちょうど口の中に放り込むところだったからだ。

 ブラッドガルドはやや目を伏せ、チョコレートを割るようなコッ、と音がしたきり、口の動きが緩慢になった。おそらく口の中で広がったであろう赤ワインの味を噛みしめているのだろう。


「赤とロゼはまあ、わかるよね。白も含めて基本的には見た目の色の違いだけど、ロゼは赤ワインと同じように作られたり、白ワインと同じように作られたりするから、製法によって色の濃淡もあるよ。国によっては二つを混ぜて作ることもあるし。どっちにしろ両方の要素を持ってるから、使い方にもあんまり迷わないっていうよ」


 瑠璃がそう続けたあとにも、静かな時が流れていた。

 まるで、はじめて試食でもしてもらっているような緊張感だ。

 この赤ワインのチョコレートボンボンを作ったのは瑠璃ではないけれども。


「えーと……。それでね?」


 瑠璃は聞こえるように前置きし、スマホに視線を落とす。


「貴腐ワインは結構甘口なワインでね。これは貴腐ブドウっていうかなり糖度の高いブドウを使って作ったワインだね。貴腐菌、とも呼ばれるカビの一種に感染したブドウを使うんだよ。

 でも感染すればいいってわけじゃなくて、本来は灰色カビ病の原因になる菌だから。菌にとって都合のいい条件がありつつ、日中は晴れて乾燥してブドウの水分が蒸発すること。この条件で一ヶ月以上必要なんだって。それで収穫時には糖分が凝縮した貴腐ブドウになるらしいよ」


 瑠璃はもう一度ブラッドガルドを見た。もうひとつ赤ワインを手に取り、口の中に入れている。そこまでしてまだ何も言わないブラッドガルドに対して、さすがに気になってくる。


「……どう? 味とか。甘いとか苦すぎるとか、ない?」


 瑠璃は同じく赤ワインのボンボンをひとつ手にとって、銀紙から取り出しながら尋ねた。ブラッドガルドはしばらく舌の上でチョコレートを転がしていたようだが、不意に瑠璃に視線を向けた。おもむろに口を開く。


「……チョコレートが、……苦味が強い」

「苦味?」


 ぱくりと口の中に入れると、ビター特有のカカオの風味がした。


「あ、ビターなんだこれ」


 味の真意に気が付く。

 いわゆるダークチョコレートというやつだ。そういえばいままではほとんどミルクチョコレートだったな、ということを思い出す。ホワイトチョコレートもあまり持ってきたことはない。

 瓶型のチョコレートの首のあたりに歯を立て、カコンと音を立てるように割ると、中から液体がじゅわりと飛び出してきた。


「ダメだった?」

「いや。苦味の……いや、ビターか。確かに口にした直後は甘みが足りんと思ったが……。このワインの風味が広がることで苦さをカバーし、まるでカカオの風味が加わったようだ……」

「……」


 ――いやめっちゃ機嫌がいいな!?


 相変わらず美味いだの不味いだのは言ってくれないが、まさかブラッドガルドの口から総評が聞けるとは思わなかった。チョコレートと酒のコンボが続いているからか、日に日に機嫌が良くなっているように思える。

 相変わらず視線は睨むようで、纏ったオーラは邪悪そのものだが、ひとめで機嫌がいいとわかる。ただ機嫌がいいとわかるのは瑠璃とせいぜい一部の人間だけである。恐ろしいことにその事実に瑠璃は気が付いていないため、機嫌がいいとわかる者は少ないだろう。

 とはいえ気に入ったことは確かなようで、次はロゼに手を伸ばして銀紙を取り外しはじめた。


「というか、ここまで来てすごい今更なんだけど……そっちのお酒事情ってどうなってんの?」

「知らん。人間どもの領分でもあるからな」

「じゃあ聞き方変えるけど、ブラッド君が皮だか火だか剥ぎ取られたときに飲んだやつは何なの」


 ブラッドガルドの眉間に一瞬にして皺が寄った。

 さすがに機嫌を損ねたようだが、チョコレートボンボンのおかげか、眉間に皺が寄るだけで終わった。


「……まあ、果実酒であったことは間違いがないな」

「ってことは、やっぱりワイン?」


 現代においても同じだ。

 果物が発酵してできるワインは、おそらく最初に発見された果実酒といってもいいだろう。古代文明――中国やギリシャにおいても、製造の跡が見つかっている。世界最古の文献である『ギルガメシュ叙事詩』でも、既にワインを与えたというような記述が発見されており、本来の発見はそれ以前ということになる。少なくとも新石器時代には醸造がはじまったと考えられている。

 なにしろ、保存しておいた果物が腐るだけでワインになるのだから。ブドウは人類以前より存在していたので、そこかしこで普通にワインが出来ていた、ということになる。人類も発見しやすいだろう。


 さらに、ワインは古代ギリシャや古代ローマに伝わったことでヨーロッパを席巻した。中世に入れば当然、キリスト教においても重要な位置を占めることになる。

 キリストの肉がパンであるなら、血はワインだ。

 神聖で貴重なワインを作るために教会の人々はブドウ畑を作った。大航海時代にもなればその技術は新大陸にまで持ち込まれ、そこでブドウ畑が広まったのだ。そしてそれは、後のブランデー作りの素となっていく。


 こうしていろいろな場所で作られていたワインだが、日本においては米から作られる日本酒のほうが先んじて作られていたらしい。そのためにブドウはあってもワインが作られることはなかったという話だ。

 日本にワインが知られるまでには、まずスペインやポルトガルの来航を待たねばならない。さらに日本でのワイン醸造となると、一九○○年代になるまで進まなくてはならなかった。


 こうして各地で作られているワインは――当初なんと呼ばれていたかはともかく、その語源はラテン語にある。ラテン語のぶどう酒を示す『ヴィヌム』という言葉がそれにあたるのだという。言語の違いはあっても、ほとんどの言葉がラテン語のそれに行き着くらしい。そこからさらに言語を遡ることもできるようだが、なぜぶどう酒と呼ばれるようになったのかまではよくわかっていないようだ。

 ともあれ、ワインはそれほど歴史が古いのだ。


「……だが、当時の『ワイン』は単体ではなかったからな」

「どゆこと?」

「貴様の言うところの――そうだな、添加物が多い、というべきか」

「……てんかぶつ? ってなに?」


 唐突に出てきた言葉に、瑠璃は首を傾げる。


「それって、ええっと……亜硫酸塩のこと?」


 亜硫酸塩はワインの酸化防止のために添加されるものだ。古代から樽の洗浄にも使われるものでもあり、ブドウが発酵する際の副産物として自然生成もされる。名前からどうしても連想されるような、わけのわからない危ない人工物、というようなものではない。


「……そのなんとかエンサンは知らんが、とにかく違う」

「塩酸じゃないってば」

「どちらかいうとハーブや蜂蜜がそうだ」

「へぇ、ハーブ? サングリアとかなら知ってるけど……」


 サングリアは赤ワインにフルーツとスパイスを加えたものだ。ワインベースにスパイスやハーブ、蒸留酒や果汁などを加えて香り付けをしたものをフレーバードワインというが、サングリアはその代表的なひとつと言える。

 日本ではホットワインとして有名なグリューワインもそのひとつで、ドイツなどではクリスマスの時期に人気だ。


「……ふむ。そのサングリアというものに似ているが……、こちらでは好みや高貴さの象徴でもあるな」

「あ、そっか。スパイスってそっちだと高いもんね?」

「果物もそうだ。保管できるのは貴族か王族だけだからな」


 ブラッドガルドはそう言ってから、わずかに憎々しげに顔を歪めた。


「……あの女も、世界に溶けなければこんなわけのわからん魔法を使われることもなかっただろうに」

「『あの女』?」


 誰のことだろう、と尋ね返す。


「……そうだ。水の魚、と言えばわかるか」

「そんな知ってて当然みたいな聞き方されてもわからないんだけど……なに? バカでかい魚の魔物かなんか?」


 瑠璃がそう言うと、ブラッドガルドはその目だけを丸くした。それから片手で顔を隠すと、肩を揺らしだす。


「……く……、くくくくっ……そう、そうか、そうだったな、貴様は知らなかったな……」

「いやホントに機嫌いいよね!? というかなんだよ!?」


 乱降下が激しすぎて風邪を引きそうだ。


「我が、火の龍と呼ばれていたのは知っているだろう?」

「それは知ってるけど。……って、あー! あの、世界作った神様! の一人!」


 ようやく瑠璃は思い出した。

 風の鳥は女神セラフ、火の龍はブラッドガルドとなったものの、それ以前に世界に溶けたという土の巨人と水の魚がいた、という話だ。そもそもその四人だか四大精霊だかが世界の基礎を作ったという話だった。


「水の魚のひとって女の人なの?」


 そもそも神様に性別の概念があるのか――と思ったが、目の前の男を見て考えるのをやめた。そもそも女神も『女』とわざわざついているのだ。ただ、顔よりも真っ先に思い出したのが、インパクトの強い豊満な胸だったが。


「……あったね、性別」

「我が言う前に理解したようで何よりだ。大地の巨人も男だしな」

「ほへー」

「奴が世界に溶けたことで……おそらく、水と氷の魔術が人間の手に渡ったようなものだからな」

「氷? あ、そっか。冷蔵庫か! 保管するのはそういうが必要だもんね?」

「まあそうだな。魔術は一時期ドゥーラが独占していたようだが――細々と存在はしていた。特に水と氷を扱える奴は、貴重だ」


 瑠璃は納得したように何度も頷いた。


「確かに便利だよねえ。どこにいても水とか氷が手に入るんでしょ!? どこでも綺麗な水が手に入るならそれはそれで……」

「……貴重だ、と言ったのが聞こえなかったのか。それとも、使えればの話――というのを言い忘れていたか」


 あ、と瑠璃は気付いた。

 魔法はあるものの、使える者は限られている。誰でも大技が使えるというわけではないらしい。


「……とはいえ、原初の村では水を出せる魔法使いは特に地位が高かったようだがな。特に、ワインに魔力で作り出した水を混ぜて飲む、というのは、最高の贅沢品だ」

「そんな古代ギリシャの水割りの高級版みたいなことしてたんだ……」


 古代ギリシャやローマにおいては、ワイン1に対して水3の割合で飲むのが普通だった。生で飲むのは野蛮とされたというのだが、当時はワインが貴重だったからではないか――という説もある。


「ブラッド君的にはどっちがいいわけ? 生と魔力水入りと」

「貴様が持ってこない限りはなんとも言えん」

「それはあと三年くらい待ってて」


 瑠璃は真顔で答えた。


「……とはいえ、貴様がそれを言うのもな」


 蛇口を捻ればすぐに水の出てくる現代日本の技術は、ブラッドガルドにとっても興味の対象らしい。


「これで蛇口を捻れば酒が出てこれば文句は無い」

「それたぶんイベントの時にしか出てこないやつじゃん」

「……」

「……」

「蛇口を捻れば、か……」

「絶対やめてね」


 ヴァルカニアを魔改造されるのだけは避けなければならない。


「だいたい、そんなんだから皮だか火だか取られるんだよ」

「ふん」


 ブラッドガルドは面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「……まあ良い。今日の我は機嫌がいいからな」

「それは見ればわかる」


 ちらっと箱の中を見ると、すべてのチョコレートが消え去っていた。

 銀紙の九割はブラッドガルドの前に置いてある。

 瑠璃は無言のまま、横に置いたままにしておいた紙袋の中に手を突っ込んだ。ブラッドガルドの視線が瑠璃の指先に向くのと同時に、瑠璃はいまのと同じ箱を出した。ラッピングを剥がして箱を開く。たったいま――あるいは少し前に無くなったばかりのチョコレートが、最初と同じ並びで顔を出した。

 その箱をずいっとテーブルの中央へと向ける。

 そこに、ブラッドガルドの手が伸びるのは同時だった。

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