閑話9
瑠璃が扉を通って帰っていったあと、突然のように静かになった。
一人いなくなっただけで、異質な部屋は静まりかえるばかりだ。それでなくとも瑠璃一人が主に喋って喚いてときおり奇声を発している。当然といえば当然だ。
残されたブラッドガルドは、視線を落とし、掌を開いたり閉じたりを繰り返したあと、ぐっと閉じた。それを合図に、いましがた摂取したばかりのエネルギーを一気に魔力に返還する。相変わらずかつて誇った魔力量に比べれば雀の涙だが、無いよりマシだ。とはいえ味がいいという点においては及第点どころかそれ以上だ。
炎が燃料と酸素を必要とするように、ブラッドガルドはかつて火の龍だった頃から燃料を必要とした。といっても簡単にいえば物を喰らう、ということだ。その性質は邪神に堕ちてもなお引き継がれ、現状に至っても同じだ。
とはいえ、迷宮を取り戻しただけでは無理だった。腹を満たすにも、魔力を満たすにも圧倒的に足りない。瑠璃がブラッドガルドを呼び戻す代わりに迷宮を滅茶苦茶にしてくれたおかげである。この責任は必ず取らせなければならない。
その責任とは。
――……菓子ではない。知識と技術だ……。
決して菓子ではない。と、自分に言い聞かせる。
まだ瑠璃の持ってくる菓子を必要としている現状において言い訳がましいと自覚はしている。菓子でも間違いはないのだ。
だが、それによってずいぶんと刺激を受けた。
――やはり向こうの世界は興味深い。
こちらの世界には無い――あるいは『まだ』無いものが多々ある。文化や文明が先を行っていると言えばそうだが、魔力が衰退し、魔人や魔物の類がいない代わりに発展したとも言えよう。
たとえば電気なんかは最たるものだ。電気をエネルギーとするのはいい案だろうが、これほど苦労して電気を作り出さなければ日常生活もままならぬとは。
技術だけではない。物の考え方や発想自体も、ブラッドガルドからすれば奇妙なものまであった。
これが政に関わる人間だったのであればもっと食いつくのだろうが、いまのところ簡単にそれらの人間の目の前に垂らす気は無い。せいぜいカインの小僧のところで暇を潰させる程度が関の山だ。あそこはもともと返したとはいえブラッドガルドの庭のようなもの。実験にはちょうどいい。そのうえ、瑠璃が自ら語る知識は限られているのだから。
対して、勇者――も同じ所から来たようだが、それらの知識が活用されていると感じるのはほんの一部だ。おそらくそれは女神の口止めか、あるいは勇者自身がこちらの世界の常識をあまり壊さぬようにしているのだろう。
やってきて、そして帰る者。それが異世界から召喚された勇者だ。ほんの僅かに世界を変えることはあっても、それは劇的ではない。勇者はそれに忠実で、だからこそ勇者であるとも言える。
――……まあ、それを考えると小娘は阿呆なんだろうな……。
こちらから尋ねたことに答える、というのはまあいい。インターネットなる知識源を使ってでも答えようとするのもいいだろう。
だがその問答は、自分とブラッドガルドの間だけで完結していると考えている節がある。さすがに考え無しと言っていい。とはいえ、その考え無しの性質はブラッドガルドにとって都合がいい。
そもそもが菓子の由来という多大な暇潰しから始まった問答の中に、どうしても言わねば理解されないことが混ざり始めたのが要因だ。
関わった偉人、文化に根ざしたもの、文明の発達による変化。
話している内容はどうでもよくとも、そこには計り知れない情報が眠っている。
視線をちらりと向けると、閉められた扉が見えた。
――あの世界を乗っ取るのも悪くない……、が……。
――……そのために、我が現状……、あの鏡を直す気が無い、ということだけは悟られずにおればいいが。
そうなれば、二度と瑠璃は扉を開けないだろう。自分が鍵だと知ってしまえば、その可能性は高まる。ブラッドガルドはそう確信していた。それに、下手に勇者に助けを求められても困るのだ。勇者を人質にしておくにも、忌々しい女神がいる。
それに、もしも扉が開いたままであったとしても、閉められてしまってはそれ以上どうすることもできない。この扉は、他人が閉めることはできても、開けることができない。それはあの女神も同様だ。
瑠璃は『鍵』だ。他人がどれほど扉を閉めようが、瑠璃は開けてしまうのだ。それもただの鍵ではない。この扉に限っていうならマスターキーにも等しく、他人がどんな鍵を取り付けたとしても開けてしまう。
他の誰も開けることができないということは。
たとえ、扉がもう二度と元に戻らないとしても。
――あの小娘はここに来る理由が無ければ、来んだろう。
だからこそ下僕という形で首輪を繋いでおいた。
「奴の世界の知識を吸収し尽くすまで、簡単に手放してたまるものか……」
なにより。
――……勇者なんぞに、くれてやるものか。
そんなものは面白くない。
ぐ、と握った拳をもう一度強く握る。
摂取したエネルギーが空になりかけていたが、構わなかった。だがこれ以上は体のほうが悲鳴をあげてしまう。空腹と目眩が襲ってくる前に、口惜しいが魔力への返還はこの程度にしておいたほうがいい、と判断した。握った掌の中へ黒い光が渦巻くように収束し、消えていく。衝撃がおさまると、はたはたと揺れていた襤褸の衣服がゆっくりと動きをとめた。
ふ、と口元だけで不敵に笑う。
「……」
無言のまま、ふと感じた気配へと睨みを効かせる。
振り返ると、影蛇が数匹、物言いたげな顔でブラッドガルドを見下ろしていた。
「……なんだ貴様ら」
眉を顰めて言い放つと、影蛇たちは全員があちこちへ視線を逸らした。
「……文句でもあるのか。戻れ」
ブラッドガルドが苛ついたように言うと、影蛇たちはすごすごと影の中に戻っていった。
――……意味がわからん。
しかしそんな影蛇たちも、所詮はブラッドガルドの一部。
『瑠璃は特に用が無くても来るんじゃないか』ということを本能レベルで感じてはいても、確証は無く、自信も無かった。しかも、主であるブラッドガルド自身が、瑠璃が扉についていまどう思っているのか聞くことすらしていない。
「……ふん。まあいい……」
そしてブラッドガルドは、自己分析に絶対の自信を持っていた。
「せいぜい、我に仕えるがいい……小娘」
この期に及んで、瑠璃のことを曲解しながら理解したつもりでいたのである。
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