挿話33 女神の言葉
「そ、それは……どういうことです?」
五人の枢機卿は、それぞれが戸惑ったように尋ねた。
本来、聖女がいるべき祈りの間。その祭壇の椅子には、聖女の代わりにセラフが座っていた。その隣には勇者であるリク。そして、護衛としてオルギスが少し下がったところで控えていた。
『私がここでできることは、もうほとんど無い、ということです』
女神は静かにそう続けた。
「し……しかし、ブラッドガルドはまだ……!」
「もはや、女神様の御力をもってしても無理な相手なのでしょうか?」
「やはり女神様の御力は……。我々の信仰では……」
五人がそれぞれ言葉を口にしても、女神はじっとその様子を見るだけだった。その視線に我に返ったのか、ハッとして口を噤む。
「も、申し訳ありません」
一人が代表して頭を垂れた。
女神は気にするなというように首を振った。
『――そう思うのも無理はありません。しかし、事態は好転しています』
「……どういう意味でしょう?」
誰かがおずおずと尋ねた。
ブラッドガルドが生きているのに好転しているとは、理解しがたいことだ。
『確かに彼はまだ私を嫌っているかもしれませんね。ですがもう、彼とあの迷宮が、太陽を目指すことはありません』
女神の言葉は確信を持っていて、核心をついていた。
五人の枢機卿は、いまだこの話を困惑とともに受け取らざるをえなかった。
本来、女神と直接通じることができるのは聖女だけ。とはいえそれは、最初に女神に祈りを捧げ、助けを求め、自由を捧げたのが少女だったというだけの慣習である。実際、勇者として選ばれたリクは男性だ。
聖女は子供の頃から感応能力の高い者が選ばれて育てられるため、女神の言葉がどれほど信じられなくても、受け入れるのにそう時間は掛からないだろう。
しかし枢機卿という地位は、聖女が行方不明に――表向きには行方不明になったあと、急遽設置されたものだ。もともとは聖女の周りの補佐であったが、聖女がいないいまは、彼らが教会のトップだった。その立場がやや利権に傾きつつあっても、それは変わらない。
ゆえに、多少信じるのに時間が掛かっても仕方のないことだった。
そんな彼らに、リクが横から口を出した。
「この際だから言うけど、宵闇の魔女が関係してる」
リクがその名前を口にした途端、五人の枢機卿たちは戦慄した。
宵闇の魔女。
姿無きブラッドガルドの協力者。他国の追跡から見事に逃げ切り、迷宮を乗っ取ってもなお人物像がはっきりしなかった謎の人物だ。自ら姿を見せることはなかったが、迷宮はとにかく規格外の動きを見せ、あちこちを翻弄した。それどころか世界が滅ぶかもしれなかったレベルで魔力を暴走させた反面、冒険者や農夫など得した者のほうが多かった。だが、巻き込まれたほうはたまったものではない。
「で、ですが、宵闇の魔女は……ブラッドガルドに手を貸したのでは?」
「それは表向き、俺たちにはそう見えてたってことだよ」
リクは言葉を選ぶように言った。
「『魔女』は少なくともブラッドガルドを……そうだな、悪いようにはしなかったんだ」
「悪いように? すり寄ったのではなく?」
「……まあ、どっちでもいいと思うけど」
頭を掻きながら言ったリクの物言いに、発言した者は口を噤んだ。
その横で、別の枢機卿が声をあげる。
「魔女は、土着の魔術師のようなものと考えても良いのでしょうか?」
「なんだ? わかるように言いたまえ!」
隣からの横やりにも何も言わず、彼は尋ねた。
「魔女にとって、ブラッドガルドは原初の精霊――なれの果てとはいえ、その一体である火龍そのもの。であれば、魔女にとっては、自らの仕える神のひとりが、弱り切った姿で出現したと。手を差し伸べるのは当然、ということでしょうか」
「まあ、そういうこと」
リクは頷いた。だいたいそういうことにしておく。
「そんな、ではその魔女はやはり邪悪なものでは……」
「そこは一旦置いといてくれ。とにかく魔女は、神に献上するために珍しいものをいろいろと持ち出したんだ。そのなかのひとつが……」
「……神の実ですか」
「ああ。そうだと思う」
それだけではないが、そういうことにしておいた。
リクとセラフは、瑠璃が物珍しいものを持ち込んだことでブラッドガルドの視線が逸れたのだろうとあたりをつけていた。つまり、興味の対象を増やしたことが功を奏したと考えた。
ブラッドガルドからすれば、虚無を抱え、それでもなお失われたアイデンティティを奥底で求めていた空洞の中に、興味の対象を次々と放り込まれたわけだ。そうすることで古びた執着が薄れ、意識が散ったのだろうと結論付けていた。とにかく意識がひとつのこと――太陽だけに向かなくなったことで、次第に自分の現状を受け入れたのではないか、と。
二人の結論はおおよそ間違ってはいなかった。
ブラッドガルド本人へもそう尋ねれば、おおむね認めることだろう。尋ねられる度胸があればの話だが。
「神の実は実際いろいろ言われてるけど、さすがに不老不死の効能はないと思う。というか、実際には優秀な回復薬の原料みたいなものかな。疲労回復の他にも、精神的にも安定しやすい」
あとは単純に美味しいということがあげられるが、じっさいチョコレートは優れた非常食でもある。小さいくせに高カロリーな性質は、普段の生活では我慢の対象になることはあっても、遭難時や災害などの非常時にはコスパを発揮する。肉体的な効果だけでなく精神面にも作用する。体力を取り戻せた以上に、少なくとも話を聞くだけの落ち着きを取り戻せたのだろう。
カカオはこちらの世界ではまだ公に発見されていないか、存在していないものだ。瑠璃が持ち込んでしまったのは観葉植物として売られている状態だったのだが、あの超豊作状態と、更に迷宮の中に適した気候の場所が作られた結果、簡単に言えば増殖した。
しかし、こちらの魔力のある土地に晒されたことで、なにか変質した可能性もある。簡単に地上に出てきてもらっては困るのだ。魔導機関もそうだが、ブラッドガルドが抱え込んでいるほうが安心できる。
「しかし、それではもう魔女は用済みだったのでは」
『自分をきちんと神として扱った魔女に、情けをかけたのかもしれませんね。気を良くしたのかもしれません』
実際のところは完全に友達扱いであって不敬極まりないのだが、それは黙っておいた。
『……』
セラフは目を閉じて思い出す。
あの日。
アンジェリカの爆弾発言によってほぼ全員が混乱状態に陥ったものの、ひとまずはそんな状態ではないとすぐに思い直した。セラフが視線をあげると、帰ろうとした直前のブラッドガルドは急に指先を止めた。ゆっくりと視線をセラフに向ける。
『……ああ、そうだ。貴様にも言うことを忘れていた』
二人の視線が交錯し、セラフが何か言おうと口を開いたそのとき。
『そんなもの、……もうくれてやる』
たった一言、ブラッドガルドがそう言った。
静かに響いたその言葉に、セラフは驚いたように目を見開いた。どういうことかと思わず尋ねてしまいそうになる。
だがすぐに、かける言葉はそれではないと気付いて、口を開く。
『それは……。本当に、それで良いのですね?』
『貴様は……。……いや、……我も貴様も、負けたのだ。あれに』
そう言ってから指先が動き、ブラッドガルドが通信(本人がそう言っていた)を切った。突っ立ったままで、しばらくしてからようやくゆっくりとその場に座り込んだ。
セラフの姿が見えていた信者たちは、それこそ天地がひっくり返ったかのような声をあげ、セラフに向かって駆けつけた。
ブラッドガルドが消えた場所へ向けて警戒と敵意を露わにする。
『……おやめなさい』
そんな人々に、セラフはゆっくりと言った。
『……大丈夫。少し、驚いただけです』
セラフは気が抜けたようにそう言った。
打ちのめされたというよりは、本当に驚いたというのと――本当の意味で、気が抜けたような、なにかから解放されたような表情だった。
『……』
記憶の底から蘇り、伏せた目を僅かに開ける。
――私は……。いえ、私達は……。
瑠璃に、宵闇の魔女に、負けたのだ。
お互いにやるかやられるかしかなかった自分とブラッドガルドの間に、第三の選択肢をぶちまけたのだから。それはもう、負けたというしかない。それはブラッドガルド自身ですら、きっと予想していなかったのかもしれない。
――でも正直、いろんなものを持ち込むのはやめてほしいですね……!!
そこはもう、胃がきりきりと痛んだ。
*
「だーかーらー!!」
ヴァルカニアの城で、瑠璃は叫んだ。
「空飛ぶ機械はまだ早いって!! というかここに勝手に作るの止めろって!!!」
「ほう。工場の移設もダメ、飛空船もダメ……となると、何なら良いのか、言ってみるがいい」
「うるせぇ!! その手には乗らないかんな!!!」
ちぎれそうなマントを引っ張り、よりいっそうボロくしながら瑠璃は叫ぶ。
その様子を眺めながら、ココが笑った。
「変わんねーナ、あいつら! いやいっそ安心できるケド!」
その横でグレックが呆れた目でカインを見る。
「俺たち、あれに慣れきってていいのか? なあカイン様よう」
「慣れないとたぶんこの国ではやってけませんよ」
カインは我関せずを貫きながら、瑠璃の言葉に耳を傾けていた。彼女の発想は必ず人間にとって有用なものになる。
そこへ、コチルとティキが足早にやってきた。
「カイン。あいつが出てくるのとかちあった使節団が、全員気絶した」
「ペックのじっちゃんたちが病院まで運んだから、会談はたぶん明日以降になると思うぜ!」
「……わかりました。ありがとうございます」
「そんなんで他国は大丈夫なのか?」
グレックが真顔のまま言ったあと、ぎゃあぎゃあと喚く魔女と、それを簡単にいなす邪神を見た。
「……今日も平和だねえ……」
その声には、あきらかに呆れが含まれていた。
この国の特殊な状況に完全に慣れきった者でしか発せられない呆れが。
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