挿話32 世界樹の言葉
さわさわと世界樹の葉が揺れている。
真昼の日差しに照らされてきらきらと煌めく葉を、エルフの長はただ見上げていた。まだ冬も過ぎ去っていないというのに、どこか春めいた日差しは、なにかを歓迎しているようだ。
高い鳥の声が飛び去ると、後ろからサクリと草を踏む音がした。
「最近はよくおいでになられますな」
視線を落としてから、背後の人物を振り向く。
「ようこそ、女王陛下。ご機嫌麗しゅう」
「挨拶は結構よ、長老。世界樹様は、なにかおっしゃって?」
麗しき女王陛下は普段と変わらないように尋ねた。
だが、これはだいぶ苛ついているな、とエルフの長老は見抜く。あくまでも優雅たれとあらん女王陛下にしては、こうも飾らぬのは珍しかった。
特になにも言わずに、平静を装う。
「世界樹様は逃げも隠れもしませんよ」
長はそう言うと、そばにあった小さな焚き火と、かけられたヤカンを見る。こぽこぽと水が沸騰していた。
「お茶を淹れましょう。喉元を湿らせたほうが話しやすいでしょう」
「ええ、そうですわね」
女王は中央にある小さな切り株を使った椅子に座ると、テーブルでもある大きな切り株に両手を乗せた。
長老はヤカンの中に乾燥茶葉を入れると、ふわりと鼻をくすぐる香りが広がった。ヤカンを火からあげると、少し冷ましてから木製のカップの中へ注ぎ込む。二人分のカップができあがると、長老は女王の前へとそのひとつを置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
カップを手に取り、その香りを味わっているあいだに、長老は向かいの切り株椅子に腰掛けた。
「あなたはずいぶんと機嫌が良さそうに見えますわ、長老」
「世界樹様がこの日和でお元気なようですからな。わしらも嬉しいのです」
「そうですか」
ほんの少しだけ口をつける。
唇を湿らせる程度の紅茶を飲んでから、暖かな息を吐いた。
「……外は、どうなりましたかな?」
長老はあえて自分から話を振った。
「復活したブラッドガルドは、一度は再び召喚されたリク様によって倒されましたわ。でも……」
残された迷宮が、宵闇の魔女によって乗っ取られたまではいい。
しかしその構造や、魔女が自ら冒険者を招いたことなど、前例にないことばかり起こった。冒険者はともかく、バッセンブルグをはじめ、多くの国々が混乱した。それどころか迷宮を中心に作物の育ちがやたらと速くなり、季節外れの豊作でそれどころではなくなっていた。
だがその混乱は、次第に力の象徴たる『神の実』と、叡智の結晶たる魔導機関にかき消されることになる。
農夫たちが豊作に慣れてきた頃には、貴族たちは実態すらわからぬ神の実に目がくらみ、多くの金を投入した。不死すら手に入るかもしれない実を求め、宵闇の迷宮はかつてないほどに賑わった。しかし国の重鎮たちは、それよりも現実的なほうに注目した。
魔導機関で出来たという万能地図が手に入れば、確実に他国を牽制できただろう。構造を理解すれば、量産も可能だったかもしれない。
「あんなものが他国に渡れば……おお、恐ろしい」
「ずいぶんといろいろなことが御座いましたな」
「ええ。ですが本当に恐ろしいのは、魔女の存在でしょう。ブラッドガルドは、神の実を魔女から渡されたようですが……」
女王はちらりと長老の後ろにある世界樹を見る。
「いや。はじめて聞きました。神とは、特定の神ですかな。それとも……」
「そうですか。おそらく強力な回復薬の原料ではないか……と言う者もいましたね。そのほうが現実的でしょう」
「……それにしても、はじめて聞く名ですな。魔女殿が名付けたのでは?」
「あなたが知らぬ、というのであれば……そうかもしれませんねえ……」
しかし結局のところ、宵闇の魔女の正体もわからなかった。
男も女もなく魔術師たちの出所をあきらかにし、魔術師の総本山たるドゥーラにも睨みをきかせ、弱小民族にも目を配ったというのに。結局、それらしい噂も人物もあがってこなかった。
もちろんこの国の出身ではない可能性もある。調査が間違っていたわけではないだろう。それでも実際、すべての国の手から逃れ、包囲網を欺くように、迷宮は宵闇の魔女によって乗っ取られた。もはやこれだけでも完敗だ。
世界樹を擁しておきながら、このていたらく。
女王は緩やかに紅茶を飲みながらも、心の奥底では何かが煮えたぎっていた。それを落ち着かせるように、熱い紅茶を流し込む。
「ひとつわからないのが……、……宵闇の魔女は、いったいなにを考えているのでしょう?」
「と、申しますと?」
「魔女は封印されたブラッドガルドに叡智と力を与え……。迷宮を乗っ取ったかと思えば、冒険者を呼び……。利用しただけかと思えば、再びブラッドガルドを呼び戻し……。いったいこれからなにをするつもりなのでしょう……。おそろしい。本当に恐ろしいのは、やはり魔女……」
「我々にはわからぬものがあるのでしょう。……一見、やっていることがわからなくても、当人には一貫したものがあるのかもしれませぬ」
そう言うと、長は謎めいた言葉をひとつ、呟いた。
女王がなにひとつ聞き逃すまいと耳をそばだてる。
世界樹からの言葉だった。
「『原初の星の向こう、錆びた大顎の主が帰還する』――? どういうことなのでしょう、これは……?」
「もはや事態は次に進んだ……ということなのかもしれませんな」
女王は唇を噛んだ。
預言の民を抱えてなお、なにが起こっているのかに追いつけない。勇者の時でさえある程度は予測できたというのに、いまではさっぱりだ。
やはり魔女がイレギュラーすぎるのだ。
ただの魔人の類と侮った結果がこれだ。これほどまでに読めない相手とは思わなかった。
女王は一度紅茶を飲んだあと、立ち上がった。頭を冷やさねばならなかった。エルフの長に見送られながら、彼女は小さく挨拶を告げて、踵を返した。
その背が見えなくなっても、あたりに仲間たちの気配はまだなかった。女王の雰囲気に圧され、どうにも出てこれなくなったのだろう。戻ってきたのは小さな鳥たちだけだった。
長は再び世界樹を見上げると、息を吐いた。
「……ああ……」
さわさわと、世界樹が揺れている。
世界樹は四つの精霊の力がぶつかる地点で出来た、希有な存在だ。
その世界樹が、喜んでいるような、歓迎しているような、ようやく真の意味でバランスを取り戻したような――そんな輝きに満ちている。
火、風、水、土。
土だけでは乾いてしまう。
水だけでは腐ってしまう。
風だけでは朽ちてしまう。
火だけでは焼けてしまう。
だからそれらは互いに均衡を取り合い、バランスをとり、この世界の礎となった。この世界の秩序となったのだ。……なった、はずだった。
傲慢により邪悪に堕ちたがゆえに、火を奪われ、虚無に堕ちた神の成れ果て。
それがブラッドガルドの正体ではないかと、古いエルフたちは薄々勘付いていた。迷宮のことなどエルフたちには感知できなかったが、迷宮が地上に向けて拡大し、シバルバーの魔力ごと外にでてきたというのなら、それだけで察することができた。ただそれ以上の確証がなかっただけだ。
最大のアイデンティティを失ったブラッドガルドは、手足をもがれるように地下を這い回る蛇となった。大気を司る風の鳥が、太陽とともに真昼の光となったのと引き換えに、火を失った龍は永遠に遮断され、影となったのだ。
だがブラッドガルドはそれを認めなかったにちがいない。
……しかしいまはどうだ。
世界樹の影は、強すぎる光から優しく守るようではないか。
影の象徴たるブラッドガルドがまだ生きているというのなら――誰かが、ブラッドガルドに巣食った古い執着という名の病を取り払ったに違いない。失われた炎を取り戻すという古い執着を。
ブラッドガルドごと消滅させるしか方法はないといわれたものを、見事に切除してしまった。
いかなる手を使えば、そんな奇蹟のようなことがなせるのだろう。ブラッドガルドの執着を諦めさせるなど。
おそらくその誰かこそ――落ちた夜の欠片、宵闇の魔女。
火を運んできた鳥が真昼の空となり、光の女神が大地の子を供としたように。
宵闇の、夜の名を冠した魔女が、地を這い回る蛇を愛したのか。
少なくとも、蛇はそれになんらかの形で応えたに違いない。
――……それが希望であってほしいものだ。
それはエルフにとってもひとつの救いだからだ。世界樹に均衡が戻ったいま、もしかすると、新たな時代のエルフが生まれ落ちるかもしれない。
魔女がいったいなにを考え、その終着点はどこにあるのか、誰にもわからない。
しかしそんなことはどうでもよかった。
エルフの長は、いまは宵闇の魔女に感謝していた。
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