56-15話 仮初めのエピローグ

 それは、地上が混乱に包まれる少し前のこと。


 どこまでも広がる暗い闇の中に、異様な気配が満ち満ちていた。

 闇が広がる地面はゆっくりと波打ち、泡立っていた。その泡はときに触手のように引き上がっては、蛇のような形をとって消えていく。

 そんな異様な大地に、人影がひとつ。

 その足先は裾野となって、地に広がる泥沼とひとつになったように見える。やがて波をかき分けながら、その影は大地の中心に向かっていた。顔らしき場所がゆっくりとあがると、赤みがかった黒い長髪の向こうから、赤黒い瞳がぎょろりとした目で大地の中心を見下ろした。


 大地の中心には、玉座がひとつ。

 ワインレッドの布が張られた、『玉座』と言われて誰もが思い浮かべるようなものだった。高い背もたれの、装飾された肘掛けのついた玉座。

 そこに、少女が――瑠璃が一人腰掛けて眠っている。


 瑠璃の目は閉じられたまま。

 しかし、その衣服の影には不自然な場所があった。

 その影がひとつになるようにぬるりと持ち上がると、蛇の形をとって姿を現した。


「……大義である」


 掠れた声がそう言った。

 影のような蛇が――ヨナルがその言葉に静かに頭を垂れ、隷従の意を示す。するっと瑠璃の影の中から出てくると、不自然な影はすべて無くなった。場所を明け渡すようにヨナルは横に逸れると、ぼちゃんと下に広がる闇の中に身を隠した。

 だが、瑠璃の目が開くことはなかった。

 まだ眠っているらしい。


「……起きろ……」


 掠れてはいるが、深い闇の中から響くような声だった。

 いまだ反応は無く、その口の端が僅かにあがる。


「宵闇の魔女……」


 起きない。


「……迷宮主……」


 起きない。


「…………小娘…………」


 起きない。


「…………」


 限界まで近づいた指先が、瑠璃の額を撃ち抜いた。


「あだぁっ!?」


 デコピンを受けた瑠璃は、額をおさえながら喚く。


「はあああ!? なに!? なに!!?」

「起きろ」


 その声に我に返った瑠璃の瞳が、目の前の影を下から上まで見た。


「は……?」


 無言の間があった。

 その途端。

 間髪入れずに、瑠璃の渾身の右ストレートが油断しきったブラッドガルドの顎を打ち抜いた。

 その敵意も害意も無いまっすぐな攻撃に、対処が遅れた。予想外に拳が入り、口元をおさえて目を見開く。血の味がした。


「……な……っ」


 さらに無防備によろめいたところに、瑠璃が勢いよく飛びかかった。


「この野郎!!!」


 ばねのようにブラッドガルドに飛びつき、勢いのまま押し倒す。どことなく粘着質な鈍い水音とともに、ゴッ、と頭を打った音が響き渡った。いくら不意を突かれたとはいえ、ブラッドガルドでなければ酷い事になっていたに違いない。

 一方、胸ぐら目がけて飛びついたはずの瑠璃はバランスを崩し、そのまま抱きついたように倒れ込んでいた。すべてのダメージをブラッドガルドが請け負うことになったのだから、これほどの屈辱は無い。


「……っ、ぐ……。な、んの、真似だっ……」


 すぐさまはね除けようとしたが、今度は耳元で罵倒がした。


「うるさいこの命捨て太郎がっ!!」

「……」


 それは罵倒なのか、と一瞬考える。


「このっ……このっ! ブラッド君のくせに! 燃えかす!! クソザコ焦げ肉!!!」


 もはや罵倒なのかどうかさえわからず、何を言っているのか理解不能だった。

 たぶん瑠璃自身も何を言っているのかわかっていない、と解釈する。


「というか生きてるううぅぅ……!」

「残念だったな、生きていて。……いいからどけ」

「うううう」


 そのうえ、一通り罵倒すると再びしがみついて呻く始末。

 敵意も害意も無い、感知しにくい攻撃が出来るくせに、この無力さと、菓子のような甘さが惜しいところだ。これが無ければ優秀な勇者でもあっただろうに、と微かに思う。


「……貴様ら、こいつをどけろ」


 ブラッドガルドが言うと、粘着質な水の中から何匹か蛇が立ち上がった。

 影蛇たちはすすっと瑠璃に近寄った。だが、影蛇がぱくっとくわえたのはブラッドガルドの腕だった。右手も、左手も、それぞれ瑠璃の背中に回すように配置する。そうすると、影蛇たちはやることはやったとばかりにずるずると向こうのほうへとするすると立ち去っていった。


「……」


 その姿を目で追いながら、無表情のまま、無言で疑問符を大量に浮かべるブラッドガルド。


「ヨナル」


 名前があるため、唯一、自立している個体を呼び出す。

 粘着質な水の中から出てきたヨナルは、一瞬ブラッドガルドの腕を確認してから、なにごとか頷いてから仲間の影蛇のほうへと這いずっていった。


「……何故だ」


 純粋な疑問が口に出る。

 少なくとも自分の思考を分け与えているはずの使い魔が、そんなことをする意味が本当にわからなかった。使い魔が何を考えているのか、半分は自分であるというのに理解できない。何らかの異常があるとしか思えなかった。おそらく復活直後であるがゆえに、うまく命令が伝わっていないのかもしれない。そうあたりをつける。


「……まあいい」


 喚く小娘一人、どうとでもなる。


「小娘……。貴様には代償を支払ってもらうぞ……。楽に死ねると思うな。その命ある限り我に隷従し、我が命に従い――」

「うるせぇ!!! この期に及んでわけのわかんないコトを言うな!!!」

「……」


 静かになったかと思ったら普通にうるさかった。

 真面目に話を聞く気があるのか、と言いたくなる。


「ずいぶんと舐めた口を――」

「っていうか食べたいものがあるならはっきり言えよ! たぶんそういう意味でしょ!?」

「……貴様は我をなんだと思っているのだ?」


 もはやため息しか出ない。


「なにって、えー……あー……。と、友達!?」

「馬鹿な事を言うな。殺すぞ」

「バカってなんだよ!? 私、ブラッド君のこと好きだよ!?」


 今度こそ心の底から呆気にとられた。

 なんだ、それは――とばかりに言葉を失う。

 他ならぬ自分を捕まえて友達だの好きだの、イカレているとしか思えない。頭のねじを数本どこかに落としてきた以外に考えられないし、頭ごと落としてきたのかもしれない。


「……友達って意味でだからね!!!?」


 瑠璃のほうは完全に告白のような状況に、慌てて付け足した。

 だがどちらでも同じことだった。


「……」


 フリーズした状況から戻るのに少しかかったが、問題はない。

 ブラッドガルドは気を取り直すと、ふん、と鼻で笑った。


「必ず、その言葉を後悔させてやる」


 そう言って目を閉じた。奥底から沸き起こってくる、何か得体の知れないものから逃げるように。ただ満たされたとしか形容のできない、わけのわからないものがこみ上げてくる前に。背中にまわした――もとい、使い魔によって無理矢理背中にまわされた手に少しだけ力をこめた。


「……うん。おかえり」


 それは、雑に引き剥がされるまでのほんの数秒の出来事に過ぎなかったが、瑠璃にとっては充分だった。

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