56-14話 姫君の決意
はじめて魔導機関車なるものを見たとき、震えが走った。
いや、震えなんてものじゃない。これは戦慄だ。
この技術が広まれば、恐ろしいことになると思った。
もはや魔術は秘匿されたものではない。
ドゥーラという国は、かつて魔術師の島だった。魔法の見込みのある者たちを弟子や学生として各地からスカウトして成り立った隠れ里。その歴史の中では、ついてこられなかった者を破門にしたり、簡単に追い出したり、はたまた弟子を使い潰すような魔術師もいた。
実際には、見逃された少数民族の中にも魔法を扱える人間は存在したし、女神聖教の人々が扱う回復魔術も、魔術の一種だ。
いまでは破門されたり、自ら国を出た魔術師が冒険者になり、他人に簡単な術を教えることもある。
海を渡るための技術も向上した。
恐れられた海の呪い――リク曰く「壊血病」というらしい――も、近年では呪い避けの薬が柑橘系を足されて飲みやすくなった。
もはやドゥーラは隔絶された孤島ではない。
魔法を扱えるのは魔術国家の人間だけではない。
けれどドゥーラを支えている老魔術師たちは、魔法も魔術も、魔法大国ドゥーラの独占であると、いまだに思い込んでいる。
そう信じている。
王たる父でさえ、そんな現状を憂うだけでどうにもならなかった。
だから、魔導機関車を見たとき、アンジェリカは戦慄したのだ。
――こんなものが、世に放たれたら。
敷地や運営の問題もあるだろうし、広まるのにもきっと時間がかかる。
けれど重要なのは、魔術を扱えない者でさえ、魔術を扱える者と同等の結果がついてくる技術そのものだ。
ブラッドガルドを倒しても、魔導機関は残る。魔導機関を壊しても、技術が存在した痕跡は残る。ヴァルカニアの人たちがどれほど研究を進めたか知れない。これを便利だと思う国もきっとある。
いま生きている人々が、この新たな技術に対してなんらかの反応を強いられるときが来る。それは、魔法王国も同じことだ。
そのとき、ドゥーラの姫である自分はどうするのか。
答えを見つけ出さないといけなかった。
ブラッドガルドにこれを作らせた宵闇の魔女とは何者なのか、見極めねばならなかった。少なくともヒントを与えた理由を知りたかった。
そしてどうして、人間にとって有利なものであるのか、知りたかった。
*
「……ブラッドガルド……!?」
水晶板に現れた魔人を見て、誰もが慄いた。
軋んだ、赤みがかった長い黒髪から覗くのは、山羊のようにねじくれた二本の角だった。片方だけは途中で折れているものの、いまだその威厳を保っているようにすら見える。擦り切れた衣服を纏ってはいるが、豪奢な椅子に足を組んで座っていた。その衣服の隙間から出るやや痩せて骨張った指先が、僅かに動いていた。闇色に染まった長い爪が、肘掛けをゆっくりと叩いて音をさせていた。
無表情に、赤黒い瞳が水晶板を通して地上を見ていた。
たとえブラッドガルドを見たことがなくても、その圧倒的な存在感がそう言っている。水晶板を通してなお顕在するのだから。その突然の出現は、冒険者や兵士の何人かを黙らせ、意識を剥ぎ取り、恐怖で震えさせるのに充分だった。
あまりのことに誰も何も言えないでいる中で、リクだけが前に出た。
『残念だったな、勇者……』
ブラッドガルドが口を開いた。
静かな声だった。
だがその声が、びりびりと耳を劈いていく。耳から脳へと直接恐怖を伝え、いやがおうでもその存在を伝えてくる。たったそれだけで、何人かが膝をつき、茫然として、自分の意識を手放した。
『結局、最後には同じことになったようだ』
「ホントにしつこいよな、お前……。宵闇の魔女はどうした?」
『気になるか……?』
その返答に、リクが一瞬だけ顔を顰める。
「……まあ、いっときでもここの迷宮の主だったんだからな」
『貴様に言う必要は無い』
ブラッドガルドは口の端をあげて言った。
勇者パーティでさえ緊張感を漂わせている状況に、周囲はもはや呑み込まれそうだった。
「……アンタは、どうして戻ってきたの?」
アンジェリカが横で尋ねた。
視線だけがぎろりとアンジェリカを向く。
『呼ばれたからだ。それ以上でも以下でもない』
答えは素っ気ないものだった。
リクの隣で、ふわりと白い布が舞った。
『……それだけで戻ってきたわけではないでしょう。あなたが戻るには代償が必要です。そしてなにより、あなたが戻ってくるだけの意味が……。もっと言えば、戻っても良いと思わせるだけのメリットが、あなたにはあったはずです』
まだ問答は続いていた。
アンジェリカはその返答を聞きながら、その言葉がどういう意味を持つのかをじっくりと反芻した。
つうっと汗が伝う。
『……そんなものは無い』
『無いわけ、ありませんよね。……いったい何を企んでいるのです?』
――戻ってくる、意味……。
ブラッドガルドにはずっと違和感があった。
きっとそれは誰もが感じていたことだ。でもその正体がわからない。意図的に意識が逸らされているのか、それとも直視しても信じられないかのどちらかだ。あるいは、ブラッドガルドから受ける恐怖にすべて覆われ、違和感の正体までたどり着けないか。
アンジェリカはじっとブラッドガルドを見つめた。僅かな違和感でも見逃さないように、余計な本能に邪魔されないように。
その違和感は、リクが瑠璃にぶん殴られた時にもあった。
あのとき、ブラッドガルドはアンジェリカを見ていなかった。それはたぶん余裕であったのと、正直アンジェリカなど見ちゃいなかったのだろう。それは、理解できる。
けれども、放っておいてもリクは来ただろう。むしろ、知り合いであったのなら、瑠璃を殺してしまったほうがリクを挑発できたはず。それでも、その場の主役を瑠璃に譲り渡した理由は何だろう。アンジェリカを差し置いてまで、リクのほうを注視していたのは何だろう。時間の取引を見せつけたくせに、スマホとかいう石版はあっさり返したのは何故だろう。
――……ああ、そうか。こいつ。
――…………楽しそうだったんだ、ずっと。
いまにも死ぬような顔をして、虚無に堕ちて、何もかもつまらないと断じて彷徨っていたシバルバーの王にして迷宮の主。
もう一度アンジェリカはブラッドガルドを見た。その僅かに歪んだ口の端を。
そして、確信する。
――なんてことをしてくれたのかしらね。まさに宵闇の魔女に相応しい。
羨ましいと思った。
運命は、物語として勇者を帰還させてしまった。そしてアンジェリカ自身もそれを受け入れた。
だが瑠璃はその物語を許さなかったのだ。
そしてその通りになった。
「……ブラッドガルド」
アンジェリカは一歩前に出た。
「アンタがそうするのなら、アタシにだって考えがあるわ」
もう一歩前に出る。
リクやセラフさえも通り越して、水晶板を見上げながら仁王立ちする。
「私は」
はっきりと声にする。
顔をあげたアンジェリカは、決意に満ちた爽やかな笑みを浮かべていた。
「私、魔法大国ドゥーラ第一王女、アンジェリカ・フォン・ハイド・ドゥーラは、勇者リクと婚約いたします」
よく通る声が、迷宮の前に響いた。
誰もがその宣言を聞いていて、恐怖に震えながら耳にした。
一瞬、静寂がその場を支配した。
『……えっ?』
「え?」
「……はっ?」
全員が呆気にとられた。
誰もがその意味をすぐには理解できず、咀嚼するのに時間を要した。
ブラッドガルドでさえ、完全に「いま我は何を聞かされているんだ」と言いたげに目を細める。
今の流れでどうしてそうなったのか、誰にも読めなかった。
だが今の発言で、一番慌てたのがセラフだ。
『ちょ……ちょ、ちょっと待ってください!!』
わたわたとアンジェリカのほうへ詰め寄る。
「なんです? 女神セラフ」
『そ、それはどういう意味です!? リクはこの役目が終わったら、リクの故郷に帰るのが条件で……!』
「知ってますわ。勇者の役目はブラッドガルドを倒すこと。それと――」
召喚した以上、帰還させること。
それが勇者の最後の役目だ。
自分の世界に還ることが、リクにとっての幸せで、勇者の役目の最後の「終わり方」なのかもしれない。
けれども、アンジェリカにとってはそうではない。一度は受け入れた運命だが、そんなものはモンスターにでも食べさせてしまえばいい。
「セラフ様。私はこの状況を顧みて決めたのです」
わたわたと喚くセラフを落ち着かせるように、アンジェリカはゆっくりと言った。
「それに私、リクのことが好き」
「い……いま言うことかよ!?」
あまりに予想外だったのか、リクでさえややパニックになっていた。その顔は、やや赤い。ふふん、とアンジェリカは笑った。
困惑気味の動揺と、更に困惑気味の祝福の空気が漂う。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください……」
茫然としつつ、声をあげたのは意外にもシャルロットだった。
「そ、その、リクは、め、女神様から選ばれたひとですから!」
「だからなに?」
「え、えっと、そのう――」
シャルロットは顔を赤くしながら、わたわたと周囲を見回した。
「待てシャル。……女神から選ばれたからといっても、決めるのはリクだ。リカも、勝手に決めるな」
ナンシーが眉を顰めながら言った。
「あらナンシー、わかってるじゃない。その通りよ。決めるのはリクなの」
アンジェリカは大きく頷く。ナンシーの眉間にできた皺がますます深くなるのが見えた。
なんだか覚えのある光景だな、とアンジェリカは思い始めた。
「それに、女神様とは結婚できないわよ。女神様だし」
『ど……どうしてそういう話になるんですか!!!』
「ち、違います! セラフ様ではなくて!」
完全にパニック状態になった仲間達を見ながら、オルギスはどう収拾をつけるべきか、どう状況を戻すか頭痛を抱えた。ハンスが空気を変えるべく、その手を叩くタイミングを見計らう。
その様子を見ながらアンジェリカが水晶板を見上げると、ブラッドガルドは息を吐き出したところだった。その手がゆっくりと動く。ナビが通信を切る前に、いつもやっていた動作だ。
だがブラッドガルドは通信を切る前に、不意に手を止めた。
『……ああそうだ、勇者。これは純粋な親切心だが、ひとつだけ警告しておく』
「えっ!? な、なんだよ!? 警告?」
『……一本……と思ったが、二本くらいは覚悟しておけ』
ブラッドガルドは無意識か意識的にか、顎をさすりながら言った。
リクはその意味を探るのに時間がかかっていたようだったが、アンジェリカは吹き出しそうになったのをなんとか止めた。
「アンタもやられたの?」
『場所が悪かっただけだ』
「そう……。お大事に」
再び慌ただしくなる仲間たちの声で、その声はかき消されてしまっていた。
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