番外編:不思議な女の子の話【9万PV御礼】
ギクリとして、由紀子は体を強ばらせた。
――まただ。
と、由紀子は思った。
見た目はわかっている。四十代くらいの中年の男。いつもパリッとしたスーツを着ていて、年齢の割に細身の人。まだふさふさとした髪をカッチリと固めて、見た目だけは清潔にしている人。
そんな、とうてい痴漢なんてするようには見えない人。
だからこそなのだろうか。由紀子はターゲットにされていた。
いつの頃からかはわからない。毎日、というわけでもない。ただおそらく最初の時に気のせいだと思って我慢してしまったからだろう。それから不定期に由紀子は痴漢に遭っていた。気のせいかな、と思っていた頃より、最近は大胆になってきていた。今日は後ろからスカートの中に手を突っ込まれ、お尻を直接触られていた。なんでこんな日に限ってスカートしか無かったのだろう、と泣きたくなる。それだって短いだとか扇情的でもなんでもない、ごく普通のものだろう。だいたい自分の容姿だって、それほど自身があるほうじゃない。
いますぐに逃げ出したくなる。だけれど、満員電車では逃げることも叶わなかった。
声が出ない。
泣きたいのに泣くことすらできない。恐怖で固まってしまう。
うつむき加減に、相手が飽きるのを待つしかない。それでも大事なところを触られるのだけは嫌だった。
ただその日、普段と違ったのは、隣からスッとスマホの画面を見せられたことだった。
『ちかんですか?』
スマホの画面にはそんな文字が躍っていた。
ハッとしたように我にかえる。そうだ、自分は痴漢に遭っているのだ。現実を直視させられたようだった。
驚いた。
相手に見えないように助けを求めたり尋ねるという手は聞いたことがある。だけど、いままで誰かにそんなことをされた経験は無い。早くこの時間が過ぎ去ればいいと。下手に声をあげて殴られたり酷いことを言われたりしたら嫌だと、そんな気持ちになっていた。
なにか答えないといけない。
それこそ、いいえ、大丈夫――と答えたかった。
こんなもの自分が耐えればいいと思いたかった。震える手でスマホを動かす。
『はい』
スマホを手にした乗客を横目で見る。
隣にいた子は、帽子を深くかぶっていた。夏休みだからきっと学生だろう。その指先が再び動くと、素早く画面の上を指先がなぞる。
『なにが起きても驚かないで』
彼女のスマホには、そう書かれていた。
どうするのかわからないが、とにかくスマホに震える手で返事を書いた。
『はい』
彼女がそれを見たか見ていないかくらいの間だった。
電車の音がやけに長く聞こえる。クーラーがかかっているはずなのに、羞恥と情けなさで顔が熱くなるのがわかる。何をするかわからないが、危険なことはしないでほしかった。
「イデェエッ!?」
後ろの男から唐突に悲鳴があがった。
「おいっ、何するんだ。離せっ!」
きっと男の手か腕を捕まえているんだ、と由紀子は思った。
あきらかに誰かに向けられているとわかる声は、不快そうな色から次第に驚きへと変わっていった。
「えっ……」
だが男の反応も仕方ない。
男の腕は誰かに捕まえられているわけではなかったからだ。男がスカートの下へ突っ込んだ腕を、真っ黒な蛇がとらえていた。蛇はどこからともなく、スカートの中とか、影の中としか言い様のないところから伸びていた。だがそんなことは問題ではない。蛇はまるで人間が腕を捕まえるように、特徴的な瞳でじっと男を見据えている。
「ひいっ!?」
男は腕を引っ張ろうとするが、予想外の恐怖で腕は完全に固まってしまっていた。
その間に、なんだなんだと他の乗客が男に注目する。
「お前、痴漢か?」
そのうえ、男の手はめくられたスカートの下に入っているものだから、あっという間に多くの人間に目撃されることとなった。
「ち、違うっ! こ、この女からへびが……」
「うるさいぞ! おとなしくしろっ」
「あなた、大丈夫?」
騒ぎに気付いたスーツの女性が、由紀子に話しかけてきた。
「こ、この人ずっと触ってて……!」
思わず声が出た。
「ち、違うんだ。蛇だ。蛇がいたんだっ! か、噛まれたんだっ!」
男は腕を見せるが、そこに噛まれた形跡など無い。
――蛇?
由紀子は混乱していた。
そんなウソが通用するはずないのに。というより、男は横の彼女に手を握られたんじゃないのかと。
「本当なんだっ、信じてくれっ! これぐらいのっ、大きな蛇の頭が……わたしの腕をっ……!」
「スカートの中からそんなでかい蛇が出てくるわけないじゃん」
隣の帽子の女の子が声を発する。それもそうだ。しらっとした視線が電車中から向けられる。
どうせ反撃にあったのを勘違いしたんだろう、という空気が流れる。
「観念しろよ、オッサン!」
ぐいっと隣から若者に頭を押さえ込まれ、男は蒼白になりながら違う違うとなにか言っていた。
由紀子はちらりと帽子の女の子を見た。女の子もちらりと由紀子を見ると、スマホを持った手で目立たないようにちいさくピースをした。
その指先に、小さな黒い蛇が絡んでいるのをたしかに見た。ひ、と悲鳴が出そうになったが、なんとか抑えた。蛇はゆらゆらと頭を揺らしたあと、しゅるしゅると蛇は女の子の服の中に吸い込まれるように消えてしまった。女の子はそれに対して何も思っていないようだった。
次の駅につくと、引きずり出された男はまだ何かうわごとのように言っていた。帽子の女の子は他の乗客と一緒に、軽く一言、二言、証言をしたあとはあっという間にいなくなってしまった。
そのあとの私は警察に事情を聞かれ、それどころではなくなってしまった。
あとで聞いたところによると、どうやら男には余罪が発覚したらしい。他の被害者の相談を受けて、警察がおとり捜査を開始しようとした直前の逮捕劇となったらしい。
ただでさえ警察と関わるというだけでめまぐるしく、落ち着くまでに時間が掛かってしまった。
それから――あの女の子はなんだったのだろう、とたまに考えることがある。
ファンタジー小説や漫画は嫌いではないけれど、まさか現実に不思議な力でも使える人間がいるとでもいうのだろうか。それともあの蛇は幻覚で、たまたま男が発した言葉に自分が反応しただけなのか。それに、腕を掴まれたと錯覚できるくらいの大きさじゃなかった。蛇が服の隙間に入っていったあとも、彼女の服の中ではそれらしい膨らみや動きはなかったのだ。
だから、由紀子はその不思議な出来事に関してだけ、胸の中にそっとしまっておくことにした。
*
「……」
ブラッドガルドはその日、鼻歌をうたいながらお茶を淹れる瑠璃を見ていた。
「……なんだ貴様」
瑠璃と反比例するように、眉間に皺を寄せるブラッドガルド。
「えー? そうかなあ?」
そうかなあ、などと言うわりには機嫌良さげに、瑠璃は自分の影をつついた。
「ヨナル君」
そう呼びかけると、影が動いてそこから蛇の頭がぬっと出てきた。
呼びかけに応じるヨナルに、ますますブラッドガルドの眉間の皺が深くなった。監視対象のはずの人間に、自分の使い魔がホイホイ呼び出されてはそんな顔にもなる。
そんなブラッドガルドを無視して、瑠璃はお菓子とは別にチョコボールの箱を取り出した。開け口から何粒か取り出すと、ヨナルに向ける。
「ヨナル君にはこれをあげよう」
「何故だ」
「なぜとかじゃないよ」
ふひひ、とちいさく笑う瑠璃。
ぱくりと開けられた口の中に、チョコボールを入れる。
ヨナルは美味いとも不味いとも反応しなかったが、瑠璃の手に頭をこすりつけてから影の中に戻っていった。
ブラッドガルドはというと、やってられん、というように息を吐いた。
「……で、それは我にも寄越すんだろうな……?」
「えー? 今日のお菓子あるんだからいいじゃん」
「ではいまの一連の行動はいったいなんだ。当てつけか」
「も~、いいじゃんそんなの~」
そうして今日のお茶会も、ゆったりと始まるのであった――。
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