56-1話 季節外れの春
影蛇はおずおずと瑠璃の姿を見上げ、じっと寄り添っていた。瑠璃はいまだ膝を抱えたまま俯いて、その表情をうかがい知ることすらできなかった。影蛇は発するべき言葉を知らず、知っていたとしてもどう言葉にするべきかわからなかった。ときおりその舌をちろちろと出し、指先を舐める。
それでも一向に顔をあげない瑠璃を、困ったように見上げていた。
だが、不意にハッとして瑠璃から視線を逸らす。
小さな姿のまま、あたりを警戒するように視線を巡らす。小さな姿のまま瑠璃を守るように威嚇した。何かの気配がする。自らの主でもないものだ。だが正体がつかめない。ただ、魔力としかいえないものだ。どこから来るのかと待ち構える。
しかしそれは無駄だった。
唐突に、部屋中のあらゆる方向から魔力が伸び、溢れた。魔力はあっという間にヨナルごと瑠璃を呑み込み、深い迷宮の奥底へと落ちていった。
*
風が吹いていた。
城のバルコニーで、アンジェリカは気配を探っていた。閉じていた目をゆっくりと開ける。
「……この世界に……ブラッドガルドの気配は、もうどこにも無いのね」
アンジェリカがちいさく言った。
冷たい風がさらっていく髪をおさえて、耳の後ろへとやる。
『ええ。魔力が残っていたとしても、感知できないほど微量になっていると思います。このまま少しずつ、世界に溶けていくでしょう』
部屋の中を見ると、ベッドの側で座り込んだセラフがアンジェリカを見ていた。
バルコニーから戻りながら尋ねる。
「セラフは……これから消えてしまうの?」
『もう少し。リクが目を覚ますまで……』
セラフは視線をベッドに向けた。
寝かされたリクが、寝息を立てていた。アンジェリカも少しだけ微笑む。だが、セラフは少しだけ表情を曇らせる。
『それに、倒すことはできたけれど……その影響は計り知れません』
ブラッドガルドが悍ましい姿で地上に現れたとき、覆われた大地は呪詛にまみれた。それはブラッドガルドが生まれた元凶となった、原初の呪詛、神からの呪いそのものだ。地面は腐り、焦土と化し、もはや草一本生えないほどのものとなった。
『あれだけ呪詛が広がったのです。大地が回復するのにどれほどかかるか……」
しかし、それを効いてもアンジェリカはそれほど深刻な顔はしなかった。
むしろキョトンとした顔で瞬きをする。
「……って、セラフ。気付いてないの?」
『え?』
「その呪詛だけれど、もうすでに浄化されつつあるのよ?」
『……えっ?』
セラフは思わず聞き返した。
その日はよく晴れていた。
既に冬の気配があった世界に、暖かな日差しが差し込んでいた。
ブラッドガルドが死んだことは今度こそ誰の目にも明らかで、あれほどの「奇蹟」を見せられては納得するしかなかった。
だがなによりも「奇蹟」と言えたのは、それだけではなかった。
直後こそ、だれも気が付かなかった。
何しろ戻ってきた勇者も気を失うほどだったし、国中が混乱状態だった。ブラッドガルド討伐の喜びも束の間、あたりは惨憺たる有様で、戦争というにも酷い状態だった。
ブラッドガルドの死体ともいえる腐り落ちた汚泥がいまだ残り、地面は触れただけで障りを受けた。水をかけても、火をかけても、少しは落とすことができたものの、先に水や火のほうが負けてしまった。街中はともかくとして、あたりの畑や鉱山、森といった必要不可欠な場所まで汚泥に侵されていたのだ。
いくら死んだとはいえ、これほどのものを残していく存在。その大きさに改めて恐怖を覚えるほどだった。
「まったく、どうするんだよこれ……」
それでも、倒したという事実には変わりない。きっとこれからいい方法が見つかるだろうと、打倒直後の興奮状態で人々は僅かに思うだけだった。
そんななか、始めに誰かが気が付いた。
「なあ、おい。あれ……」
人々は潰された地面に咲く小さな花を見た。枯れかけていた草が伸び、倒された木々には新芽が芽吹いた。それは奇蹟なんてものではなかった。奇蹟を越えたなにかだ。
すべての汚泥がキラキラとした灰となって、風にさらわれた頃には、あらゆる花が咲き乱れ、秋に刈り取ったばかりの麦穂が再び芽を出し、植物はあちこちで実をつけたのだ。
その季節外れの実りに、人々は歓喜の声をあげた。
バッセンブルグだけでなく、周辺の国々でもそれは起こっていた。
特に迷宮にも近いヴァルカニアでは、農夫も兵士も関係無く目を丸くし、頬をほころばせていた。
「か、カイン。これは……」
元村人が思わず敬称をつけ忘れるほどだ。
カインはしばらくその様子を観察する。まだこれからだという畑にも緑が芽吹き、破壊された柵をも越えて伸びようとしていた。というより、植物の動きにヒトのほうがまったく追いつけていない。
つけられた実はみずみずしく、水の流れは泥を浄化しながら元の輝きを取り戻していた。まるで大地がみずから浄化したようだった。
カインは沸き起こる何かをおさえて、つとめて冷静に号令を出した。
「この好機を逃してはいけません。作付けは予定通り! もし収穫後に枯れるようであれば、畑ごとに計画通りに進めてください!」
「お……おうっ!」
「畑ごとに経過観察と作付けの順序を記録して! 農業担当者は報告も忘れず! もしうまくいかなければ実験も行っても構いません!」
「はいっ!」
農夫担当の人々はあちこちに散り、急いで種を植えたり、収穫に勤しんだりした。少しくらい寒い風が吹こうが関係なく、一年早く訪れた収穫期に踊った。
ぽかんと口を開けていたグレックが、カインの隣で呟く。
「参ったな。これが……女神の奇蹟ってやつか」
目の前でこんなものを見せられては、傾倒せずにはいられないだろう。ブラッドガルド側につかない反面、女神側への対応も慎重になるべきだというのが国としての総意だ。だが、グレックですらその決心が揺らぎそうになった。
とはいえ、ちらりと見たカインは農地の様子を興味深そうに観察していた。
自分を取り戻すかのように、グレックは深く呼吸する。
「ですが、観察は滞りなくしたほうが良さそうですね」
「はいよ。仰せの通りに」
グレックは振り返り、農夫たちに声を張り上げる。
「じゃあ、後は任せたぞおっ!」
「あいよお!」
カインは少しだけ、笑顔に溢れる農民たちを見守ってから踵を返した。
嬉しさの反面、複雑な表情を一瞬だけ見せる。だがすぐに思い直したように、前を向いて歩き出した。
他の国々でも歓声があがり、その予想外の収穫にめまぐるしく動き始めていた。
冒険者までもがその収穫に駆り出され、間に合わせのギルド掲示板が各地の収穫依頼で埋まるほどだった。
セラフはリクの看病をアンジェリカに任せ、空からその様子を眺めていた。
――確かに……そうね。
あれほど呪詛に侵された大地が、すっかり元通りだ。それどころか、季節外れの豊作といっていい。自浄作用と言えばそれまでだろうが、思っていたよりもずっと速い。何かの魔力が作用しているのは確かだ。というより、そもそも魔力が大地を浄化し続けている。
――良いことといえば、良いこと……よね。
何かがおかしい。何か妙なことが起こっていそうな気さえする。
だが浄化されている以上に何か起きているわけでもない。
――迷宮を中心に浄化されてるのは確かね。
当初はブラッドガルドの迷宮には、あちこちに死骸がそのまま詰まっていたという。入り口も破壊されて汚泥が堆積していたはずだが、既にそこに汚泥は存在しなかった。本来なら大地が先で瘴気の濃い迷宮は後になりそうなものだが、これではまるで逆だ。迷宮から浄化が進められているようにさえ見える。
その迷宮はといえば、誰かが無断で入らないよう兵士が警護していた。それでもおっかなびっくりだ。たまに覗きにきた冒険者や一般人を追い返してはいるものの、兵士たちもそわそわしていた。
きょろきょろとあたりを見回すと、そんな迷宮の側で冒険者たちが何人か集っているのに気が付いた。
――……なにかしら?
なにごとか興奮していた。見ると、迷宮の側に開いた大穴からこそこそと小さな影が抜け出してきた。慌てたようにばたばたと迷宮から離れると、冒険者たちへと近づいていく。どうやらパーティの斥候がひとり、迷宮にまで降りたようだ。
「た、た、大変だ。大変だよ」
大変といいながら、男は顔を輝かせていた。
「おっ、どうだった?」
「ブラッドガルドの死体は金になりそうか?」
「ち、ちがう。死体なんて無くて……そんなもの目じゃねぇよ!」
斥候の男は興奮で震えていた。ナップサックを下ろし、震える手で開けようとする。
「すごいぞ。もうすでに魔石があちこちから顔を出してて!」
「魔石だあ? お前、どこの階層まで行ったつもりなんだよ」
「いいからよく見ろって!」
斥候の男は、ようやくナップサックを開けた。そこから出てきたものに、みな声をあげるほどだった。なにしろそこから出てきたのは、十センチのクリスタル状の魔石だったのだ。大きさとしては普通だが、透き通るように透明だ。質は最高と言っても過言ではない。
「嘘だろ、こんな綺麗な魔石……!?」
「第一階層でこんなものがもううじゃうじゃ生えてるんだぞ!? 土地があれほど豊作になってるんだ、迷宮はそれ以上……!」
「おいやめろ、声がでかい!」
さすがに声が大きすぎたのか、冒険者に気付いた兵士がずかずかと近寄ってくる。
「お前ら、そこで何してる!?」
「うおっ! やばい!」
「そ、それ絶対に落とすなよ!」
「おうっ!!」
蜘蛛の子を散らすように、冒険者はばたばたと走り去っていった。
――なるほど、魔石がもう採れるほど浄化されてるのね。
うんうんと頷いたあと。
『いやさすがに速くない!!?!?』
誰にも聞こえないツッコミが虚空に響いた。
なにしろ魔石とは、純粋な魔力が凝固したもの。確かに魔力も多く、入り込める者の少ないブラッドガルドの迷宮では、良質な魔石が手に入りやすかった。それでも成長するまでに少なくとも数年はかかる。しかもそれは、他の魔力の干渉を受けないとか、他の生物に荒らされない状態でだ。不純物を含まない良質で高品質なもの、となると、普通は十年単位でかかってもおかしくない。そんなものがもうすでに、ただでさえ魔力が散りやすい第一階層に存在しているとは――。
――いくらなんでも迷宮の浄化が速すぎるでしょお!?
しかしどれほど見回しても、浄化しているという事実以上のものはなかった。
*
目を開ける。
そこには、驚きに目を見開くオルギスと、泣きそうなアンジェリカが覗き込んでいた。
「……うお」
思わず驚きで声が出てしまう。
ぐっとアンジェリカの顔が近づく。
「リク!」
「良かった……目を覚まされたようですね」
オルギスは二人を見てから踵を返す。
「皆を呼んできましょう。……どこにいるか、わからないのですけどね」
そう言うと、近くで感極まったように震えているメイドをエスコートして部屋から出て行った。普段の歩調よりもずっとゆっくりと、他の仲間を探しに行った。
当のリクはまさに寝起きといった風で、ゆっくりと起き上がった。
「……く、ああ……。おはよう」
上半身を起こそうとして、動きにくいのに気が付く。
「やべえ、体がバキバキだ」
「多分ずっと寝てたからね。もう大変だったんだから!」
アンジェリカの指摘通りだった。何度か腕を回すと、ようやく血が通って少しずつ体が動くようになってきた。
「おお、どこにも怪我とかなさそうだな」
「そりゃそうよ。なんたってセラフがずっと回復魔法をゆーーーっくりかけてたんだから!」
「マジか……。で、そのセラフはどこだ? 姿が見えないけど、まさか……」
「まだ居るわよ。いま、外の様子を見に行ってるだけ」
アンジェリカは開けっぱなしのバルコニーを指さす。
「外か……いま、どうなってんだ?」
リクが尋ねると、アンジェリカは少しだけ笑った。
ブラッドガルドの死体ともいえる汚泥で、一気に周辺の大地が汚染されたこと。しかし、そう間をおかずにそれらが浄化され、季節外れの豊作になったこと。
それらをかいつまんで伝える。
「……なるほど。迷宮を中心に豊穣の土地に……か。ブラッドガルドが討伐されたことで、まさかこんな効果が出るとはなぁ」
一時的かもしれないが、これほど豊作になったことは、この十年……いや、いま生きている者たちは経験したことが無いという。
しかも迷宮の真上に位置するヴァルカニアだけでなく、近隣の国にまで及んでいるというのだから驚きだ。一旦政治的なあれこれをストップしてまで、収穫や作業に追われる始末だった。秋の収穫祭は終わったというのに、それを上回るお祭り騒ぎらしい。
「しかし俺が寝てたのは何日だ? その間にみんなあの……バカでかい図体が片付いたのか?」
『……リク!』
そこへ、窓から声が響いた。
振り向くと、白い羽根とともに降り立つ姿が見えた。
「セラフ!」
『良かった……』
起きたことにホッと胸をなで下ろすと、窓からふわりと中へ入る。
「お、そうだ。聞いたぞ、ブラッドガルドの死体も浄化されてるって」
『え? ええ。そうね。そのことで少し話が……』
「しっかし駄女神だと思ってたのに、こういうことが出来るとはな。見直したぜ」
褒めるリクに、ひくりと口の端が引きつる。
『いや……あの……』
「あんだけでかい図体になってたもんな。倒したはいいけど、起きた時にまだ転がってたらどうしようかと思ったけど」
笑うリクに対し、セラフは完全に真っ青な顔で止めようとする。
『あ、あのね、リク』
「どうしたんだ? さっきから」
『ち、違うの、あれ……』
「だから、何だよ?」
『あれは違うの』
「違うって、なにが?」
よくわからない会話が繰り広げられたあと、セラフは青い顔のまま言う。
『ま、魔力が暴走してるかもしれない……』
「……は?」
『もしこのまま止まらなかったら……あと百年……いえ、十年足らずで……この世界そのものが枯れてしまう!』
「…………はぁああ!?」
女神と勇者のその会話は、三人以外には誰の耳にも入っていなかった。
外では皆、突如訪れた豊作と迷宮内に溢れた資源に喜び、女神と勇者を讃えていた。
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