56-1話 季節外れの春

 影蛇はおずおずと瑠璃の姿を見上げ、じっと寄り添っていた。瑠璃はいまだ膝を抱えたまま俯いて、その表情をうかがい知ることすらできなかった。影蛇は発するべき言葉を知らず、知っていたとしてもどう言葉にするべきかわからなかった。ときおりその舌をちろちろと出し、指先を舐める。

 それでも一向に顔をあげない瑠璃を、困ったように見上げていた。


 だが、不意にハッとして瑠璃から視線を逸らす。

 小さな姿のまま、あたりを警戒するように視線を巡らす。小さな姿のまま瑠璃を守るように威嚇した。何かの気配がする。自らの主でもないものだ。だが正体がつかめない。ただ、魔力としかいえないものだ。どこから来るのかと待ち構える。

 しかしそれは無駄だった。

 唐突に、部屋中のあらゆる方向から魔力が伸び、溢れた。魔力はあっという間にヨナルごと瑠璃を呑み込み、深い迷宮の奥底へと落ちていった。







 風が吹いていた。

 城のバルコニーで、アンジェリカは気配を探っていた。閉じていた目をゆっくりと開ける。


「……この世界に……ブラッドガルドの気配は、もうどこにも無いのね」


 アンジェリカがちいさく言った。

 冷たい風がさらっていく髪をおさえて、耳の後ろへとやる。


『ええ。魔力が残っていたとしても、感知できないほど微量になっていると思います。このまま少しずつ、世界に溶けていくでしょう』


 部屋の中を見ると、ベッドの側で座り込んだセラフがアンジェリカを見ていた。

 バルコニーから戻りながら尋ねる。


「セラフは……これから消えてしまうの?」

『もう少し。リクが目を覚ますまで……』


 セラフは視線をベッドに向けた。

 寝かされたリクが、寝息を立てていた。アンジェリカも少しだけ微笑む。だが、セラフは少しだけ表情を曇らせる。


『それに、倒すことはできたけれど……その影響は計り知れません』


 ブラッドガルドが悍ましい姿で地上に現れたとき、覆われた大地は呪詛にまみれた。それはブラッドガルドが生まれた元凶となった、原初の呪詛、神からの呪いそのものだ。地面は腐り、焦土と化し、もはや草一本生えないほどのものとなった。


『あれだけ呪詛が広がったのです。大地が回復するのにどれほどかかるか……」


 しかし、それを効いてもアンジェリカはそれほど深刻な顔はしなかった。

 むしろキョトンとした顔で瞬きをする。


「……って、セラフ。気付いてないの?」

『え?』

「その呪詛だけれど、もうすでに浄化されつつあるのよ?」

『……えっ?』


 セラフは思わず聞き返した。


 その日はよく晴れていた。

 既に冬の気配があった世界に、暖かな日差しが差し込んでいた。

 ブラッドガルドが死んだことは今度こそ誰の目にも明らかで、あれほどの「奇蹟」を見せられては納得するしかなかった。


 だがなによりも「奇蹟」と言えたのは、それだけではなかった。


 直後こそ、だれも気が付かなかった。

 何しろ戻ってきた勇者も気を失うほどだったし、国中が混乱状態だった。ブラッドガルド討伐の喜びも束の間、あたりは惨憺たる有様で、戦争というにも酷い状態だった。

 ブラッドガルドの死体ともいえる腐り落ちた汚泥がいまだ残り、地面は触れただけで障りを受けた。水をかけても、火をかけても、少しは落とすことができたものの、先に水や火のほうが負けてしまった。街中はともかくとして、あたりの畑や鉱山、森といった必要不可欠な場所まで汚泥に侵されていたのだ。

 いくら死んだとはいえ、これほどのものを残していく存在。その大きさに改めて恐怖を覚えるほどだった。


「まったく、どうするんだよこれ……」


 それでも、倒したという事実には変わりない。きっとこれからいい方法が見つかるだろうと、打倒直後の興奮状態で人々は僅かに思うだけだった。

 そんななか、始めに誰かが気が付いた。


「なあ、おい。あれ……」


 人々は潰された地面に咲く小さな花を見た。枯れかけていた草が伸び、倒された木々には新芽が芽吹いた。それは奇蹟なんてものではなかった。奇蹟を越えたなにかだ。

 すべての汚泥がキラキラとした灰となって、風にさらわれた頃には、あらゆる花が咲き乱れ、秋に刈り取ったばかりの麦穂が再び芽を出し、植物はあちこちで実をつけたのだ。

 その季節外れの実りに、人々は歓喜の声をあげた。


 バッセンブルグだけでなく、周辺の国々でもそれは起こっていた。

 特に迷宮にも近いヴァルカニアでは、農夫も兵士も関係無く目を丸くし、頬をほころばせていた。


「か、カイン。これは……」


 元村人が思わず敬称をつけ忘れるほどだ。

 カインはしばらくその様子を観察する。まだこれからだという畑にも緑が芽吹き、破壊された柵をも越えて伸びようとしていた。というより、植物の動きにヒトのほうがまったく追いつけていない。

 つけられた実はみずみずしく、水の流れは泥を浄化しながら元の輝きを取り戻していた。まるで大地がみずから浄化したようだった。

 カインは沸き起こる何かをおさえて、つとめて冷静に号令を出した。


「この好機を逃してはいけません。作付けは予定通り! もし収穫後に枯れるようであれば、畑ごとに計画通りに進めてください!」

「お……おうっ!」

「畑ごとに経過観察と作付けの順序を記録して! 農業担当者は報告も忘れず! もしうまくいかなければ実験も行っても構いません!」

「はいっ!」


 農夫担当の人々はあちこちに散り、急いで種を植えたり、収穫に勤しんだりした。少しくらい寒い風が吹こうが関係なく、一年早く訪れた収穫期に踊った。


 ぽかんと口を開けていたグレックが、カインの隣で呟く。


「参ったな。これが……女神の奇蹟ってやつか」


 目の前でこんなものを見せられては、傾倒せずにはいられないだろう。ブラッドガルド側につかない反面、女神側への対応も慎重になるべきだというのが国としての総意だ。だが、グレックですらその決心が揺らぎそうになった。

 とはいえ、ちらりと見たカインは農地の様子を興味深そうに観察していた。

 自分を取り戻すかのように、グレックは深く呼吸する。


「ですが、観察は滞りなくしたほうが良さそうですね」

「はいよ。仰せの通りに」


 グレックは振り返り、農夫たちに声を張り上げる。


「じゃあ、後は任せたぞおっ!」

「あいよお!」


 カインは少しだけ、笑顔に溢れる農民たちを見守ってから踵を返した。

 嬉しさの反面、複雑な表情を一瞬だけ見せる。だがすぐに思い直したように、前を向いて歩き出した。


 他の国々でも歓声があがり、その予想外の収穫にめまぐるしく動き始めていた。

 冒険者までもがその収穫に駆り出され、間に合わせのギルド掲示板が各地の収穫依頼で埋まるほどだった。


 セラフはリクの看病をアンジェリカに任せ、空からその様子を眺めていた。


 ――確かに……そうね。


 あれほど呪詛に侵された大地が、すっかり元通りだ。それどころか、季節外れの豊作といっていい。自浄作用と言えばそれまでだろうが、思っていたよりもずっと速い。何かの魔力が作用しているのは確かだ。というより、そもそも魔力が大地を浄化し続けている。


 ――良いことといえば、良いこと……よね。


 何かがおかしい。何か妙なことが起こっていそうな気さえする。

 だが浄化されている以上に何か起きているわけでもない。


 ――迷宮を中心に浄化されてるのは確かね。


 当初はブラッドガルドの迷宮には、あちこちに死骸がそのまま詰まっていたという。入り口も破壊されて汚泥が堆積していたはずだが、既にそこに汚泥は存在しなかった。本来なら大地が先で瘴気の濃い迷宮は後になりそうなものだが、これではまるで逆だ。迷宮から浄化が進められているようにさえ見える。

 その迷宮はといえば、誰かが無断で入らないよう兵士が警護していた。それでもおっかなびっくりだ。たまに覗きにきた冒険者や一般人を追い返してはいるものの、兵士たちもそわそわしていた。


 きょろきょろとあたりを見回すと、そんな迷宮の側で冒険者たちが何人か集っているのに気が付いた。


 ――……なにかしら?


 なにごとか興奮していた。見ると、迷宮の側に開いた大穴からこそこそと小さな影が抜け出してきた。慌てたようにばたばたと迷宮から離れると、冒険者たちへと近づいていく。どうやらパーティの斥候がひとり、迷宮にまで降りたようだ。


「た、た、大変だ。大変だよ」


 大変といいながら、男は顔を輝かせていた。


「おっ、どうだった?」

「ブラッドガルドの死体は金になりそうか?」

「ち、ちがう。死体なんて無くて……そんなもの目じゃねぇよ!」


 斥候の男は興奮で震えていた。ナップサックを下ろし、震える手で開けようとする。


「すごいぞ。もうすでに魔石があちこちから顔を出してて!」

「魔石だあ? お前、どこの階層まで行ったつもりなんだよ」

「いいからよく見ろって!」


 斥候の男は、ようやくナップサックを開けた。そこから出てきたものに、みな声をあげるほどだった。なにしろそこから出てきたのは、十センチのクリスタル状の魔石だったのだ。大きさとしては普通だが、透き通るように透明だ。質は最高と言っても過言ではない。


「嘘だろ、こんな綺麗な魔石……!?」

「第一階層でこんなものがもううじゃうじゃ生えてるんだぞ!? 土地があれほど豊作になってるんだ、迷宮はそれ以上……!」

「おいやめろ、声がでかい!」


 さすがに声が大きすぎたのか、冒険者に気付いた兵士がずかずかと近寄ってくる。


「お前ら、そこで何してる!?」

「うおっ! やばい!」

「そ、それ絶対に落とすなよ!」

「おうっ!!」


 蜘蛛の子を散らすように、冒険者はばたばたと走り去っていった。


 ――なるほど、魔石がもう採れるほど浄化されてるのね。


 うんうんと頷いたあと。


『いやさすがに速くない!!?!?』


 誰にも聞こえないツッコミが虚空に響いた。


 なにしろ魔石とは、純粋な魔力が凝固したもの。確かに魔力も多く、入り込める者の少ないブラッドガルドの迷宮では、良質な魔石が手に入りやすかった。それでも成長するまでに少なくとも数年はかかる。しかもそれは、他の魔力の干渉を受けないとか、他の生物に荒らされない状態でだ。不純物を含まない良質で高品質なもの、となると、普通は十年単位でかかってもおかしくない。そんなものがもうすでに、ただでさえ魔力が散りやすい第一階層に存在しているとは――。


 ――いくらなんでも迷宮の浄化が速すぎるでしょお!?


 しかしどれほど見回しても、浄化しているという事実以上のものはなかった。







 目を開ける。

 そこには、驚きに目を見開くオルギスと、泣きそうなアンジェリカが覗き込んでいた。


「……うお」


 思わず驚きで声が出てしまう。

 ぐっとアンジェリカの顔が近づく。


「リク!」

「良かった……目を覚まされたようですね」


 オルギスは二人を見てから踵を返す。


「皆を呼んできましょう。……どこにいるか、わからないのですけどね」


 そう言うと、近くで感極まったように震えているメイドをエスコートして部屋から出て行った。普段の歩調よりもずっとゆっくりと、他の仲間を探しに行った。

 当のリクはまさに寝起きといった風で、ゆっくりと起き上がった。


「……く、ああ……。おはよう」


 上半身を起こそうとして、動きにくいのに気が付く。


「やべえ、体がバキバキだ」

「多分ずっと寝てたからね。もう大変だったんだから!」


 アンジェリカの指摘通りだった。何度か腕を回すと、ようやく血が通って少しずつ体が動くようになってきた。


「おお、どこにも怪我とかなさそうだな」

「そりゃそうよ。なんたってセラフがずっと回復魔法をゆーーーっくりかけてたんだから!」

「マジか……。で、そのセラフはどこだ? 姿が見えないけど、まさか……」

「まだ居るわよ。いま、外の様子を見に行ってるだけ」


 アンジェリカは開けっぱなしのバルコニーを指さす。


「外か……いま、どうなってんだ?」


 リクが尋ねると、アンジェリカは少しだけ笑った。

 ブラッドガルドの死体ともいえる汚泥で、一気に周辺の大地が汚染されたこと。しかし、そう間をおかずにそれらが浄化され、季節外れの豊作になったこと。

 それらをかいつまんで伝える。


「……なるほど。迷宮を中心に豊穣の土地に……か。ブラッドガルドが討伐されたことで、まさかこんな効果が出るとはなぁ」


 一時的かもしれないが、これほど豊作になったことは、この十年……いや、いま生きている者たちは経験したことが無いという。

 しかも迷宮の真上に位置するヴァルカニアだけでなく、近隣の国にまで及んでいるというのだから驚きだ。一旦政治的なあれこれをストップしてまで、収穫や作業に追われる始末だった。秋の収穫祭は終わったというのに、それを上回るお祭り騒ぎらしい。


「しかし俺が寝てたのは何日だ? その間にみんなあの……バカでかい図体が片付いたのか?」

『……リク!』


 そこへ、窓から声が響いた。

 振り向くと、白い羽根とともに降り立つ姿が見えた。


「セラフ!」

『良かった……』


 起きたことにホッと胸をなで下ろすと、窓からふわりと中へ入る。


「お、そうだ。聞いたぞ、ブラッドガルドの死体も浄化されてるって」

『え? ええ。そうね。そのことで少し話が……』

「しっかし駄女神だと思ってたのに、こういうことが出来るとはな。見直したぜ」


 褒めるリクに、ひくりと口の端が引きつる。


『いや……あの……』

「あんだけでかい図体になってたもんな。倒したはいいけど、起きた時にまだ転がってたらどうしようかと思ったけど」


 笑うリクに対し、セラフは完全に真っ青な顔で止めようとする。


『あ、あのね、リク』

「どうしたんだ? さっきから」

『ち、違うの、あれ……』

「だから、何だよ?」

『あれは違うの』

「違うって、なにが?」


 よくわからない会話が繰り広げられたあと、セラフは青い顔のまま言う。


『ま、魔力が暴走してるかもしれない……』

「……は?」

『もしこのまま止まらなかったら……あと百年……いえ、十年足らずで……この世界そのものが枯れてしまう!』

「…………はぁああ!?」


 女神と勇者のその会話は、三人以外には誰の耳にも入っていなかった。

 外では皆、突如訪れた豊作と迷宮内に溢れた資源に喜び、女神と勇者を讃えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る