挿話31 冬、至る日に(前)
瑠璃がお茶会部屋に入ると、ブラッドガルドがそこにいた。
テーブルの上にはチェス盤が置かれ、時間つぶしが行われていたのは明らかだ。ブラッドガルドは手にした黒駒を置くと、体を起こして瑠璃に視線を向けた。
「なんだ、意外に早かったな」
「ブラッド君……」
ブラッドガルドは瑠璃をしっかりと見据えている。
深い瞳の奥底に少しだけ、何を言うだろう、という期待が見てとれた。
「とりあえず、一個だけ言っていい?」
「なんだ」
「あの女神がめちゃくちゃムカつくんだけど」
そのあまりの言いように、ブラッドガルドは思わず目を見開いた。それから愉快そうに目を細める。だが瑠璃はといえば、何か言うこともなかった。
「……聞いてたでしょ、ブラッド君」
いつもの場所には座らなかった。ブラッドガルドの隣で膝を抱えるように座る。視線が向けられた。
「まあな」
「それで、どうなの」
「我のやることは変わらんぞ」
瑠璃の眉間に皺が寄るのと同時に、ブラッドガルドの視線がチェスに戻った。
「我が目覚めたとき、既に我は欠けていた」
手が黒駒に伸ばされる。再び動かされた黒駒が移動させられ、コトリと音を立てた。白駒のほうには誰も座っていないのに、勝手に白駒が動いた。
「欠けた何かを取り戻すという、古びた願望だけが我を動かしたのだ」
その傲慢さがゆえに。
生贄というシステムにノーを突きつけられたがゆえに、取り上げられた炎。
「それにこの迷宮は応えた。そして我は迷宮の主になった――それだけだ」
瑠璃は顔をあげる。
「で、ブラッド君の答えは?」
「何故もう一度聞いた? 我は勇者を殺す」
無言のままもう一度眉を顰める。
ブラッドガルドは別の黒駒を手にしたあと、少し制止してから元に戻した。おもむろに立ち上がる。瑠璃がその姿を目で追うと、いつもは瑠璃の座っているほうへと座り込んだ。チェス盤にばらばらに置かれた駒が勝手にふわふわと浮き、初期位置へと勝手に戻っていった。
「先攻は貴様にやろう」
「ええ……どういうことなの……」
本当にどういう事なのかわからなくなりつつも、瑠璃はしばらく盤面を見つめたあとに、白駒を動かした。
コトン、と駒を動かす音が響いた。ゲームは始まり、ブラッドガルドの指先もまた自分の駒を手にした。
「……なんでなんだろうなあ……」
駒を動かしながら、瑠璃は呟いた。
「ほんとさあ、マジでふざけるのもいい加減にしてほしいよね。なんでいつもそんな勝手なんだよ。急に出てくるし、すぐこっち来るし、ソファは占領するし、お菓子だっていつも勝手に食うし!」
「それが我だからな」
駒が移動され、白いポーンの動きを封じる。
「そんで今度はどっちかが死ぬまでやるって? バカじゃないの?」
白駒を置く音がやや強くなる。
だが、ブラッドガルドはしれりとして変わらなかった。
「だがな小娘。向こうはその覚悟で来ているなら――同じように応えてやるのが義理というものだろう?」
コツリと指先でつままれた黒駒が白駒を転がした。陣地を奪う。
「ブラッド君はそんな殊勝なこと言う奴じゃないでしょ」
しばらく盤面を見つめた瑠璃が、自分の白駒を手に取った。
「私は陸にも死んでほしくないし……、ブラッド君にも死んでほしくない……。そもそも私はもう一度死んでもらうために助けたわけじゃない……」
抗うように、瑠璃の白駒が黒駒を取る。
「なるほど。いまこの瞬間、一番イレギュラーなのは貴様というわけだ」
「殴るぞおまえ」
瑠璃があまりに真剣な顔で睨みつけたので、ブラッドガルドは面白がるように口の端をあげた。
「そうだな、ただ勇者が憎い。女神が憎い。そのほうがわかりやすくていいだろう」
「だからってそんなの……」
瑠璃はそのままどう説得すればいいのかわからなくなった。
静かに、駒を置く音だけが響く。
攻防は続き、お互いに駒を減らし、王を逃がす。カインが挑んだその時よりもブラッドガルドの腕は上がっていて、瑠璃はときおり長考に入った。だが、そのたびにブラッドガルドが時間を見るので、急かされた気分になった。とはいえ実際には切羽詰まっていたのだ。そもそもこんなところでチェスなどしている場合ではない。
しかし駒を進めていくうちに、瑠璃は言葉よりもチェスに集中していた。ブラッドガルドもそれは同じらしく、王を逃がしているのは明白だった。
それを追いかける。
置いて行かれた子供のように、必死になって食らいついた。いつからかブラッドガルドも瑠璃も無言になっていて、それでもお互い何も言わなかった。
とうとう何度目かに瑠璃が白駒を動かしたとき、ブラッドガルドの動きがぴたりと止まった。視線をあげる。
「……投了だ。我の負けだな」
シンプルな答えだった。そこに悔しさも怒りもなく、ただ純粋に負けを認めただけだった。
「……なんでだよ」
「不服そうだな、勝ったくせに」
「こういう時はねえ、ブラッド君が勝って、私が勝ち逃げなんて許さねぇからなって言うのが王道シナリオなんだよ」
「ふん。王道、というのなら勇者が魔王を倒してめでたし――というのではなかったのか」
あまりに他人事な物言いだ。
「それに、貴様が菓子を持ってこなかったのが悪い」
瑠璃は何も言わずにブラッドガルドを見上げた。
それが未練らしい未練なんだろうか、と少し思う。
「まあ、しかし――取り合うものが無い、となると……」
ブラッドガルドはしばし考えたあとに、立ち上がった。
わざわざ瑠璃の隣までやってきて、しゃがみこむ。その指先が瑠璃の額を指したあと、ゆっくりと下がっていく。その指先が胸までおりて来たとき、指先に何か闇色に光るものが現れた。
瑠璃の目が瞬きをする。
それは影でできた炎のようにちいさく揺らめいてから、瑠璃の中に吸い込まれていった。
「何これ」
「我の魔力だ。常人ならば垂涎ものだろうな」
「えっ、もしかして私使えるのこれ?」
「は? 貴様には魔力の器も魔力回路も無いから無理だが?」
「じゃあ意味ないじゃん!?」
「だが、我にはこれしかないからな」
瑠璃は黙り込んだ。
かつて自分だった――火の龍から転がり落ちた残滓。生まれてはならなかったもの。生まれてしまったもの。そんなものが命以外に持っているのはただひとつ。魔力だけだ。
「それにだ、小娘。我も奴も神の欠片より生まれたものだ。身勝手に決まっているだろう」
「……それ堂々と言うこと!?」
さすがにツッコミを入れてしまう。
「それを奴は覚悟と呼び、勇者はそれに応えた」
「……」
「ああ、ほら――なんだったか。よく言うだろう。我は好きにする。貴様も好きにするがいい」
映画のような台詞に、瑠璃はどんな顔をしたらいいのかわからなくなる。
ブラッドガルドは勝ち誇ったように口の端をあげた。
「もうすぐ時間だ。恨むなら女神を恨め――勇者にできるなら貴様にもできるだろう」
「……ブラッド君……」
瑠璃の頭が揺れたからか、ブラッドガルドは僅かに身構えた。
だがその頭がぽすんと軽くその胸に埋まると、視線が下に落ちる。
「死なないで」
その言葉に、ブラッドガルドは何も応えなかった。
ただ、軽く肩を掴んで引き離すと、何も言わぬまま立ち上がった。きびすを返し、扉を向く。
カメラアイがぴょいぴょいと瑠璃の影から出てきて、その背を見つめる。そして最後に、巨大な影蛇が出てきて、物言わぬままブラッドガルドへ視線を向けていた。
「ではな、小娘――運が良ければ殺しに来てやる。”それ”は我のものなのだからな」
ブラッドガルドはそれだけ言うと、歩き出した。
「……ブラッド君」
一瞬その歩みが緩慢になった気がしたが、すぐに戻った。
そしてそれが、最後の言葉になった。扉が閉じられ、部屋に一人瑠璃だけが残される。
「待って」
その声はもう届かない。
「ブラッドく――」
思わず立ち上がり、縋るように扉に駆け出す。だがその扉は、ぴたりと溶接されたように開かなかった。
「ちょっ……なんで!?」
扉を拳で叩きつける。何度もドアノブを回そうとしたが、ぴくりとも動かない。奥底から後悔と不安が押し寄せてきた。泣きそうになったのを堪えて、もう一度扉を拳で叩く。
「開けろこの野郎!! このっ……!!」
もはや叩くというより殴りつけるようだった拳が、赤く染まっていく。
その影の中から、ずるりとヨナルが現れる。ぴょんぴょん跳ねながら出てきたのは数匹のカメラアイだ。カメラアイはテーブルの上へ乗ると、その瞳を光らせて壁に映像を映し出した。
ヨナルは扉を叩く瑠璃の腹に巻き付き、そっと離れさせる。
「ヨナル君」
泣きそうなその声に、ヨナルは何も言わないままずるずるとテーブルへ瑠璃を運んだ。その視線の先に、カメラアイの映像があった。どういうわけかずっと黒い画面を映し出していたそれは、何度か魔力の切り替えがあったあとに、ようやく外の映像を映し出したのだった。
*
「もうすぐ一時間だ」
リクは呟いた。
リクたちは来た道を戻り、オルギスたちと合流していた。実際は余裕のあるうちに助けに来たのだが、その必要はなかった。
なんでも、少し前にすべての影蜘蛛が消え失せて、糸とともに影に溶けていったのだという。さすがにブラッドガルドを倒しているとも思えず、首を傾げていると、当のリクたちがやってきたのだった。
「……でも、本当に一時間待って良かったのでしょうか?」
「大丈夫だ、それは」
リクはうなずく。普段なら苦言を呈すだろうアンジェリカもなにも言わなかった。影蜘蛛とやりあっていた三人は少し腑に落ちないものを感じたが、リクとアンジェリカが言うなら、ということで納得していた。更に女神も何も言わないというのであれば、もはやなにも言うべきことはない。
「ところで、リク。魔女はいたのですか?」
「それは……まあ、あとで話すよ」
リクが少し笑いながら誤魔化したそのときだった。
遠くのほうで轟音が鳴り、全員がハッと耳をそばだてた。
「……なに?」
小さな揺れと音に、アンジェリカは杖を構える。
「……なにか……来ます!」
奥から、なにか巨大なものが迫ってきている。音が近づいてくるにつれ、揺れは次第に大きくなった。
「うわっ!」
「きゃああっ!?」
あたりの壁でさえ揺れに耐えきれず、腐りかけていた壁材が剥がれ落ちて地面に落下していった。もうもうと土埃があがる中、リクは全員を振り返って叫んだ。
「……まずいっ! みんな走れっ!」
『だめっ! 間に合わない! 私が皆を導きます! リク、手を貸してっ!』
リクが手を伸ばす。
女神と触れた瞬間、あっという間に影が迷宮を覆い尽くし、リクたちのいた空間をも食らいつくした。あまりに強大な闇があたりを蹂躙し、かろうじて残った迷宮の形すら破壊して、いままさに地下のシバルバーより侵略しようとしていた。
その日、大地が揺れた。
人々は混乱して逃げ惑い、子供たちは恐怖に怯え、老人はただただ祈りを捧げた。
本来は人々を誘導する立場である兵士たちも、その異様さに混乱しないものはいなかった。
やがて迷宮から光がひとつ飛び出したのを誰かが見た。
あまりの速さに人々が空を見上げたとき、唯一迷宮を見ていた誰かが悲鳴をあげた。
光を追うように、恐ろしいほどに巨大な黒い異形が飛び出したのだ。
迷宮の入り口から溢れんばかりに地上にあらわれたそれは、沼というには醜悪すぎ、スライムというには異質すぎた。黒い粘液状のものが、明確な意志のもとに迷宮から這いだし、ごぼごぼと音を立てながら地上へ広がっていく。あたりは悲鳴と怒号であふれかえり、あらゆるものを破壊しながら大地を侵していった。腐ったような醜悪な臭いがあたりを覆い、清浄な空気をことごとく奪っていく。泥から沸き立つ泡から発生した湯気のようなものは、空へのぼって夕暮れ時の空をあっという間に覆い隠した。迷宮のみならず、世界を侵食する異端の夜の到来だった。
その姿は龍でも蛇でもなかった。
ありとあらゆる生物の片鱗が飛び出してはねじれ、醜怪にのたうち、溶けるように泥状のスライムへ再び姿を変えていく。口とおぼしき穴が空へ向かって無数に吼えたて、その声は耳にした者の意識を奪い、脳をかき乱し、恐怖の音色を思い出させた。
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