荒れ地に行こう(11)
誰もがその魔物をブラッドガルドと信じて疑わなかった。
疑念の余地すらなかった。
彼の発する魔力が、纏う空気が、高貴さと邪悪さとがない交ぜになった色が、なにもかもが証明していた。
戦いの凄まじさを象徴するようなすり切れた衣服。
周囲を取り巻く闇と混じり合い、境目のわからぬシルエット。
人間の相貌と酷似してはいるものの、溶け込むように広がる赤みがかった黒い長髪。その隙間から、片方だけが折れてもなお顕在を示す、山羊のようにねじくれた角。
一度倒されてなお錆びることのない瞳の炎だけが、その生命力を物語っている。
「まったくもって酷い所だ。だが、あの牢獄よりはマシだな」
足先がすり切れた布の向こうから床を踏み、近づく。そのたびに、影は巨大になるようだった。戦慄が闇とともに床を這い、足先から染め上げていく。
誰も彼も、指先ひとつ動かせなかった。
だが――その中で、動く影がひとつ。
「どっから出てきてんだ!?」
声は静寂の中に思い切り響いた。
完全に空気を無視したツッコミを、瑠璃はせずにはいられなかった。
突然ブラッドガルドが自分の影から出てきたら、ツッコミを入れるのは当然である。
気付いてなかったのかとカインは思ったが、それ以上何も言わずにおいた。カインはブラッドガルドから――というより、瑠璃の反応から気を取り直して前を向いた。
「……お久しぶりです、ブラッドガルド公」
右手を胸にあて、姿勢を正す。
ブラッドガルドの視線が、どことも知れぬ場所からカインへと向く。
「公はますますご清栄のことと――」
「能書きはいい」
ブラッドガルドの口元が歪み、悪辣な笑みを浮かべる。
腕を伸ばすと、指先を瑠璃へと向けた。その頭へと、まるで肘起きのように腕を軽く乗せる。
「……どうせ聞こえていたからな」
「いやちょっと待ってくれる?」
上からの圧を喰らいながら、さすがに真顔で言う瑠璃。
「私の頭は単品の肘起きか!? 普通に話を進めようとしないで!」
「では、本題へと参りましょう」
「なんでカイン君まで普通に話を進めるの!?」
そのうえ真顔で進めるのに衝撃すら受ける。
「では、単刀直入に。……我々にこの土地を返して頂きたい」
「むぎぎぎ」
ぴくりとも表情を動かさないブラッドガルドの腕の下。瑠璃は両手でその腕を掴み、何とかはねのけようともがく。
だが、ブラッドガルドもぴくりとも動かないままだ。
どう考えても力の差は歴然。
「……ほう?」
ブラッドガルドの目がカインを射抜く。
その視線だけで、並の精神ではやられてしまっただろう。だがカインは毅然として受け流す。しかし、その前に言うべきことがある。
「……瑠璃さん。しゃがめばいいんですよ」
さすがに気になってきたので助け船を出すと、瑠璃はハッとした顔で思い切りしゃがんで抜け出した。
ブラッドガルドは若干眉を動かしたが、突然無くなった土台に引っ張られることも焦ることもなく、ただ腕を元に戻しただけだった。
「縮むかと思った」
「それで、なんだ一体」
特に薬にも毒にもならない会話が繰り広げられたあと、瑠璃はパッとブラッドガルドを振り返った。
「一週間後、キミにチェス勝負を申し込む!」
「ふん」
ブラッドガルドにこれといった反応は無かった。
横でカインが続ける。
「もちろん、こちらに来ていただくからには我々はあなたを歓迎しますよ。珍しい菓子をご用意してお待ちしております」
今度は口元が歪んだ。
「まあいい、では聞こう。何を賭ける?」
「当然、この土地です。今現在、魔力嵐によって封鎖されている地域全般をいただきたい」
「負けた方は……うーん、ブラッド君が土地の譲渡だから……どうしよう?」
「こちらは隷属などいかがでしょう。命まで含めて、どうするかは自由です」
背後でギクリとした気配がしたが、みな金縛りにかかったように動けなかった。
家の外にいるというのに、立ったまま気絶している者までいる。
「……足りんな」
「じゃあ休戦協定結んでる国全部とか……」
「豪快ですね」
そんな取り決めを勝手にすれば、どんな報復を受けるかわからない。だがそれを言うならお互い様だ。
ブラッドガルドの目が、瑠璃のほうを向いた。
「……そうだな、それに加えて貴様の国を貰おうか」
「えっ。うち!?」
貴様の国、とは当然、現代日本のことだ。
「貴様の国を中心に我が力で満たす。迷宮と魔術が支配する地へと作り替えてみせよう」
「えっ……それは……ちょっと待って……」
瑠璃の戸惑いはどちらかというと口が笑いかけている。
「なんでそんなこと言うの……」
「なんでちょっと嬉しそうなんですか!?」
さすがにそれはカインも言わずにはいられない。
「ちょっと心揺らぎそう」
「これほどの改変ができる勝負など、もはや無いかもしれんな」
「んああああ!!」
現代日本に魔術が氾濫する未来を何とか頭の片隅へと追いやり、瑠璃はブラッドガルドを指さした。
「うっさい! それでいいんだな!?」
ブラッドガルドの口元が上がり、満足そうに頷く。
「それでは、一週間後――お待ちしております」
「貴様らこそ約束を違えるなよ。――我が蛇はどこからでも見ているからな」
そう言うと、ブラッドガルドは黒いローブのマントであったものを翻した。
「あっ、ちょっと待っ……」
瑠璃が報復の一撃を加える前に、ブラッドガルドの姿は一瞬にして影に溶け、床に吸い込まれていった。そこにはもう魔物の姿はなく、瑠璃の影だけが彼女の動きに合わせて動くだけだった。
「あー!! 帰った!!」
「嵐のような方だ……」
その言葉は、使い方としては間違っているが、彼を示すのに適切な言葉だった。あらゆる場所から不穏な空気が霧散し、暗く沈みこんだものが姿を消し、日の光が救いとして差し込んできたころ、後ろでばたばたと音がした。
ようやく二人は振り返る。
そこには気を失ったり、緊張感が途切れて膝をついたりした者たちで溢れていた。
「うあーっ!? どしたの!?」
瑠璃が慌てて駆け寄る背中を見て、カインは呆れた。
「いや、そりゃこうなりますよ……」
カインはツッコミを入れながらも、自分の足元が小さく震えているのに気が付いた。もう少しで声まで震えてしまうところだったと気付いて、深呼吸をして息を整えるのに数秒。それから急いで介抱に追われた。
悪夢のような時間からようやく解放されたものの、あたりに訪れた戦慄の欠片はいまだあちこちに散らばっていた。
戦慄から立ち直れなかった何人かは近くの家のベッドにまで運ばれ、寝かされている。さすがのティキもめまいがしばらく治らないようで、ごく普通にぶっ倒れたココと一緒にコチルの家のベッドに運んだ。
影響は広く、家の近くにいなかった者たちまで、奇妙な恐怖感に襲われてそわそわと不安げにしていた。
幸運だったのは、旧都に向かったメンバーだけだろう。そこまでしてようやく彼の影響から離れられたのだ。
無事だったのは瑠璃とカイン、そして意志の強い何人かだけだった。
ペックやグレックですら、何度か気付けに果実酒をあおってようやくというくらいだったのだ。ペックはなんとか立ち直ったあと、カインの肩を軽く叩いてから手伝いへと歩いていった。小さく頭を下げてそれを見送ると、部屋にはカインと瑠璃、グレックが残った。
それからコチルが戻ってくると、介抱を終えた数人の村の男女も戻ってきた。コチル以外の村の数人も、普段は魔物と戦うのを中心にしているメンバーばかりだった。
「……あれは無理だな」
グレックはため息をついた。
「昔、仲間の剣闘士とな、どれだけ強い奴をどう倒すかって話をしたんだ。ブラッドガルドに会ったらどう対処するかって。しかし……あれは……」
それっきり呻いてしまう。
「……でしょうね。僕でも最初は震えました」
「お前でも?」
カインの様子はあまりに冷静に見えたらしい。
「でも、そのときは勇者と旅をともにした人が団長としていてくれたから動けたんです。まあ……それでもいまだに目の前にすると緊張します」
ほう、とあたりからため息がこぼれた。
「緊張どころじゃないぞ、あれは。……だが、まあ……それより……」
グレックの視線が戸惑い気味に瑠璃を向く。
その後ろには、影のような蛇がゆらゆらと場を見ていた。見ている――という言葉どおり、監視するようにねめつけている。
瑠璃は引き気味の周囲の反応と蛇を見比べると、その黒い体に手を伸ばした。
「お、おい。大丈夫なのか、それは」
「大丈夫、ひんやりしてる」
違う、そうじゃない――その場にいる全員の意見が一致する。
「あと、ちょっともちもちしてる感じがする」
「……蛇ですね、本当に……」
若干、蛇が迷惑そうな顔をした気がした。影の蛇の胴体が瑠璃の手からやや離れようとすると、グレックはようやく脱力した。
「なんかこのままだと怖そうだし名前でもつけとこう。なんかそれっぽい古い言葉無い?」
「えっ」
「黒いからクロ、とかだとセンスが安直かなって思って」
「う、うーん……蛇は執着の象徴でもありますが、詳しくはちょっと……。あと古い言葉というなら、夜なるものとか、夜に潜む斧とかそういう意味の言葉になったはずです」
「じゃあヨナル君で」
「……」
さっきのセンスの話はどうした、と誰も言わなかった。
だが、今の流れでだいぶ落ち着いたらしく、家に集った村人は口々に声をあげはじめた。
「しかし、いったいどうするんだ?」と誰かが言う。
「約束はとりつけたが……ここからだな」
「チェスってなんだ?」
「知ってるぞ、昔、俺を雇ってた貴族がよくやってた競技だ」
それが小さなざわめきになってきたころ、コチルが口を開いた。
「誰がやるんだ」
そう言ったコチルに、カインが片手をあげる。
「チェスは一応、僕がわかりますよ。……というより、まあ……僕が勝負すべきですから」
「カインにルールがわかるなら、どうにかなるだろ。あとは必要な物を集めるだけだ。それよりも問題なのが……」
「えっ、なんかあったっけ?」
「……菓子だ」
グレックは眉を潜めた。
「……菓子だな」
「菓子か……」
「菓子ですね……」
「同じ意見なの!?」
思わず瑠璃が叫ぶ。
「この村の、食糧事情。わかるだろ」
コチルの言い分もよくわかる。
「ここは、小麦、無い」
「……そうですね。確か以前は作っていたと……?」
「今も多少は。でも、時期も違うし、足りない」
菓子といえば、ケーキ。
小麦粉に果実などを入れた果実ケーキのようなものが主流だが、他のどんな形であれ、小麦粉は絶対に必要だ。
それでも菓子など食べたことが無い者がほとんどで、わずかな楽しみといえば蜂蜜くらいだ。最近になって瑠璃の手袋を渡したことで効率化はできたが、それでも増えた量は微々たるものだ。
蜂蜜じたいが高価ではあるものの、無いよりはいい。
だが、甘みのもとはあるのに、肝心の小麦が無くてはどうしようもなかった。
「べつにだいじょぶじゃない?」
言ったのは瑠璃だった。
「ここって氷室ってあるでしょ?」
「ああ、あるが……何か必要なのか?」
「それなら大丈夫! ここにあるものでじゅーぶん!」
瑠璃が笑顔で親指を立てると、全員がお互いを見つめ合った。しかし、もはや疑うものはいなかった。
「……信じるぞ、ルリ」
「おっけー!」
瑠璃はコチルにも親指をもう一度立てた。
「それじゃあ、僕は駒を作るほうにまわります。チェスの勉強もしなければいけませんし――」
「ああ、待ってカイン君」
「はい?」
「それについてもちょっと思ったことがあるんだけど――」
それから何人か人が入れ替わり立ち替わり、全員が準備に入った頃には、もう話は村人全員へと知れ渡っていた。
それからの一週間は大変だった。
村人たちは準備に追われ、まるで祭りの準備のようだった。
ヨナルに関しては引き気味に見ていたり、監視されるのを嫌がる村人もいたが、二、三日もすれば皆慣れていった。というのも、憑かれている瑠璃が普段通りだったからに他ならない。特に、ヨナルという名前をつけたのも大きかったようだ。
その瑠璃は、カインとともに毎日走り回っては家に戻ってベッドに倒れる暇もなく、今度はチェスの練習に精を出した。瑠璃のスマホに入っているオフラインタイプのチェスゲームが存分にその存在意義を発揮することになった。
使っていなくとも、容量が空いてるからという理由でアンインストールしなかったことを感謝する。自分のズボラさもたまには役に立つものだ。最初はとうぜん初級からはじめて、だんだんと中級のAIに勝てればいいほう、できれば上級に、という計画だった。ブラッドガルドのチェスの腕前がどこまで進化しているかわからない分、とにかく強くなったほうがいい、という判断だ。
「対戦としては、互角を演出しつつ最後にカイン君が勝つっていうのが理想だけど」
「それは理想ですけど……今言いますかね?」
寝そべったヨナルの巨体をクッション代わりにした瑠璃に、カインは真顔で言った。だが、それだけだった。カインはそもそも瑠璃が取りだした石版――スマホのことである――にも驚いてはいたのだが、それを問いただす時間も惜しかった。
対戦においてはさすがに疑問を投げかけたが、瑠璃の言い分としては――。
「大丈夫、最近の将棋もAI対戦世代が台頭してる!」
というものだった。カインにはまったく通じなかった。だが瑠璃の言うところの「初級」にも苦戦するありさまだったので、すぐに頭の片隅へと追いやることになる。
そして、その日はすぐにやってきた。
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