挿話14 商人ゴブリン

 小さな足音は、妙に耳についた。

 迷宮はしんと静まりかえっていて、この間までの喧噪が嘘のようだった。

 誰もいないから、ということに加えて、魔物たちも妙に静かなのだ。


「まったく、なんだってんだあ?」


 ゴブリンは小さくぼやいたが、その声には明らかな戸惑いが含まれていた。荷物を背負ってえっちらおっちらと歩くゴブリンは、憂鬱な気分だった。

 とはいえ少し前までよりはましだ。そのころは住み着いた魔物たちは別の緊張感が走っていたのだ。特に魔人たちが最奥の座を狙って積極的に敵対しあい、その熱に浮かされた魔物たちが更に争いを繰り広げるという――そんな地獄絵図があった。

 それでもまだ、自分の知っている迷宮の範囲内だった。


 だが今はなんだ。

 別の意味でぞわぞわとする。

 みな、何かが起こりかけていることを本能的に察知しているに違いない。

 ゴブリンはぶるると体を震わせた。


「あーあ、金ヅルどもはまだ入ってこれねえみてえだし」


 気分を変えるように、ゴブリンは再びぼやいた。

 何しろ冒険者用の入り口はまだ閉鎖されているのだ。


 おかしなことだらけだ。


 ――おかしなことといえば……。


 最奥に向かっている自分だって、おかしなことなのだろう。





 少し前のこと。

 ゴブリンはバッセンブルグのとある商店の中にいた。


「ほらよ。依頼の品だ」


 男の手がテーブルの上に、袋をひとつ乗せる。

 テーブルを挟んだ向かいには、小汚いフードを深くかぶった小さな影が座っていた。深い緑色の手がいそいそと袋を開く。中に入っているものを見ると、黄色がかった歯がニタッと笑った。


「へへえーっ、恩にきますぜ旦那ぁ!」


 フードの下から覗いていたのはゴブリンの顔だった。

 こうして人間である男とゴブリンが向かい合っているのは、おかしな話だ。だがゴブリンは、亜人の商人なのである。

 亜人とのほとんどは隠れ住んでいる者たちが多いが、稀にゴブリンなど、本来群れで生活する中からはぐれ亜人が出ることもある。特にゴブリンは迷宮商人として重宝がられているので、こうしてときおり仕入れに来るのだ。

 バッセンブルグは冒険者の街として発展したため、顔さえ隠せば侵入しやすい。冒険者たちの入り口はいまだ閉鎖されているが、ゴブリンのように自分専用の入り口を確保している者だけは通れるのだ。


「その代わり! 手に入るっていうとっておきの商品、俺にも回してもらうからな」

「へ、へいへい。わかってますよ」


 ゴブリンはややギクリとしたように言ってから、商品を検品し始める。

 その様子を手持ち無沙汰に眺めながら、男はぼやく。


「しっかしなあお前。いったいどこの魔術師と取引したんだ?」


 テーブルの上に載せられた商品は全て、黒曜石や水晶をはじめとした、魔石や魔力を通しやすいものばかりだった。

 最近では魔法武具専門の技師も増えてきて、魔術を籠めた剣の作成や、装飾用具の護符として使われる。高価で魔力さえあれば魔術師以外にも使えるとあって、需要は増えてきているのだ。

 それぞれの石で籠めやすい力が違っているので、特定の石だけ大量に仕入れるということはある。

 しかし、複数の魔石をここまで仕入れることは珍しい。


「へへへ、まあ、あっしみてぇなエリート商人ともなりゃあ、魔術師のひとりやふたり、さんにんやよにん……」

「へえ、ほう、なるほどなあ」


 男はにやにやとゴブリンの様子を眺める。


「しかし、それにしたってな。こりゃあ、あの噂は本物か」

「ウワサ? なんですかい?」

「お前のシマの話だよ……ブラッドガルドの迷宮」


 声を潜めた男に、ゴブリンは震え上がった。鼻っ柱がぽきりと折られたように青ざめる。


「おいおい、そんな顔すんなよ。ブラッドガルドが倒されてから、まだ冒険者用の入り口は封鎖されてるだろ?」

「へ、へえ……」


 その声は同意とも相づちとも取れるようなものだったので、男は気が付かなかった。

 冒険者たちは足止めを余儀なくされたが、ゴブリンのような商人はちょいちょいと自分たち専用のほら穴から出入りしていた。

 もっともそれは裏口といっても小さすぎて、人が入れるようなところではないが。


「それが、あそこから調査が入ることになって……でも、それが少人数のくせにずいぶん物騒だったって話だぜ」

「ぶ、物騒……とは?」

「ああ。聖堂の騎士様たちが入っていったんだがな」


 あれか、とゴブリンは思い出す。

 勇者の仲間。

 自分のような亜人を案内人にしようという聖騎士なんてただ一人きりだ。なんの目的でいまさら最奥に踏み込んだのかは知らなかったが、あとでいやというほど思い知った。


「それに、勇者の仲間だったっていう女を目撃したって話もあるんだ。こりゃあ本格的に、近いうちに何か起こるかもしれねぇな」


 ゴブリンは上の空で、あの日のことを思い出した。


 ほとんど感じたことのない恐怖だった。

 睨み付けられただけで動けなくなってしまうほど。


 ブラッドガルドに対峙したときに感じる、言い様のない恐怖。それはこの地に生きるすべての者が感じると言われている。どれほど屈強な戦士であろうと、冷静な魔術師であろうと、例外なく。ただひとりを除いて。

 ただしそれはウワサだけで、まさか生きている間に自分がそんな目に遭うとは思ってもみなかった。

 よくよく考えると、買い物を求められたという突拍子の無さも手伝って、現実だったのかすら危うい。

 だが、あの日飲んだ甘い紅茶はゴブリンの舌を優雅に指先で撫でていき、惜しげもなく喉を通り、あっという間に胃の中へと行ってしまった。あの甘さだけは現実だ。あの一杯だけで、すっかり虜にされてしまった。


「おい、聞いてるのか?」

「へえっ!? き、聞いてる聞いてる!」

「まったく。でもひょっとすると、また迷宮が上に向かって伸びるかもしれねぇな。あの魔力嵐も更にでかくなるかもしれねえ」


 迷宮は地上を浸食しているだの、そもそも迷宮は天を目指していただの、そんな話が説得力を持つほどに、魔力嵐は上へのぼっていた。それこそ不気味な世界樹のようだと。迷宮側からも入れず、もはやそこに国があったかどうか、懐疑的になっている者さえいるくらいだ。それどころか、逃亡奴隷や罪人をそこへ放り込んでいる始末。

 女神の顕現で現実味を帯びたわけだが。

 とはいえ何があったにしろ、迷宮そのものが騒がしくなることには違いない。


「いずれにしろ、おかしなことにならなきゃいいがな」





 ――ふうん。ちょいとばかし信憑性があるってもんだ。


 ゴブリンは奥へ向かいながら感じ取っていた。


 迷宮の変化が起こりやすいのは主が変化したときだ。

 だが、迷宮の主が変わっていないのにこれほど奇妙な気配が漂っている。


「……んん!?」


 ゴブリンは突然にあたりを見回した。

 じろじろと上下左右の影の中を見つめ、恐る恐るというように下がっていく。そこに何もいないことを確認すると、再び前を向いて歩き出した。

 なんだよ気のせいかよ、とぐちぐちと言うものの。

 しばらく歩いたところで、ばっ、と後ろを振り向いた。

 その瞬間、闇の中からざわざわと何か小さなものが湧き出してきたのだ。


「あああああ!!?」


 思わず口から絶叫があがる。

 「それ」は急に慌てたようにわたわたとちりぢりになった。


「め、め……目玉ぁ!?」


 出てきたのは大量の目玉だけの魔物だった。

 というより、丸い球体を覆うように肉があるだけ。蜘蛛のような細い足がそれを支え、お世辞にもセンスがいいとは言えない。見ることしか能の無い魔物など――だが、ゴブリンに悲鳴をあげさせるには充分だった。


「な、な、ななななな……」


 だが目玉の魔物のほうは、ゴブリンの悲鳴に驚いてわらわらと再び闇の中へと引き返していく。それどころか出てきた時とは逆に、お互いぶつかりあって転んだり無駄にあちこち走り回ったり、もはや人間ならば踏むだけで倒せてしまいそうなほどだ。

 相手が思ったより――というより思った以上に弱いと悟ると、ゴブリンは慌てて気を取り直した。


「ふ、ふん! まったく。弱っちい奴らめ。百年早いってんだあ!」


 ぱたぱたとボロ服の埃を払い、前を向く。


「お、お前らみたいなのに構ってる暇なんざないんだよお。あっしはこれから……」


 これから、深部に行くのだ――その悪態はどうしても口から出なかった。

 あの恐ろしい魔人にもう一度会いに行かねばならないと思うと、気は重いし足は重い。今すぐバジリスクの前に突っ立って石になっちまいたい気分だ。

 ぞくぞくと背中に鳥肌が立つ。

 影に背を突き刺されたようだった。


 どんなに恐ろしいことになるか知れない――。この迷宮の中、影の中こそが自分の居場所だというのに、それが今はずいぶんと恐ろしいものに思えた。

 進むたびに重くなる足を動かし、ゴブリンは進む。

 自分の命とお宝を天秤にかけた、迷宮の最奥へと――。


 ……。


 だが、それからしばらくしたあと。

 迷宮には涙目のゴブリンの悲鳴と足音が響いていた。


「あああああああー!! なななっなんでついてくるんだこの目ン玉どもおおお!!?」


 迷宮に大声など禁物だが、もはやなりふり構っていられなかった。


「ひいいっ、砂糖はっ、砂糖はやらっ、やらねえからなあ!! ひええ!! しっ! しっ!」


 どういうわけかそれこそ目を輝かせてついてくるカメラアイに、ゴブリンはしばらく悩まされたのであった。

 その理由をゴブリンは知らない。

 加えてブラッドガルドに開口一番、「なんだそれは」と冷静なツッコミを喰らったのは別の話である――。

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