35話 杏仁豆腐を食べよう

 シバルバー、それは荒れ果てた薄暗がりの世界。

 多くの人間は単に地下世界という認識を持っているが、その実体は世界の裏側と言ってもいい。

 朝と夜という概念が忘れ去られた、どこまでも続く荒野。

 女神から見捨てられ、永遠に閉ざされた場所。

 ヴァルカニアの地が呑み込まれた「荒れ地」よりも尚、無の広がる土地。冷たい風が吹き抜ける、茫漠とした死の大地。

 世界に無数に存在するダンジョンも、七つ存在する迷宮も、そこに到達するものは無い――ただひとつを除いて。

 世界にただひとつきり――ブラッドガルドの迷宮。





「あ~づ~い~~……」


 イントネーションと言い方の違いを除いて、ここ数日の瑠璃の第一声はほぼ同じだった。

 季節はもう夏。サマー。テロス。リエータ。エスターテ。


 その点、ブラッドガルドがいるこの迷宮は違った。

 冷たい。涼しい。過ごしやすい。

 「迷宮が地味」というただ一点を除いて、すべてが快適だった。


 しかも実質無料である。


 そういうわけで、瑠璃はだらだらとここで大半を過ごしていた。

 そして当の迷宮の主であるブラッドガルドは、そんな瑠璃にもはや突っ込むこともなかった。先日から何らかの魔術に没頭しており、大学ノートに目を走らせていた。つまるところ、ほぼ放置だったのも事実だ。


「ぬえー」


 ほぼ溶けかけながらテーブルにだらだらと頭を乗せていた瑠璃。

 しかししばらく冷気に当たって気力が回復したのか、不意に頭をあげた。


「……よし。おやつにしよう、おやつに」


 そう言い放つと、テーブルに手をついて立ち上がる。

 その動きにブラッドガルドの目が動いた。


「……貴様はいま、何の為に今ここにいたんだ……?」

「英気を養ってたんだよ」

「そうか」


 至極どうでもいい口調で言うブラッドガルド。


「も~、早く夏休みになんないかなあ」

「何か変わるのか?」

「休みだからね! あと何より制服から解放される!」


 そう言い放つと、瑠璃は慣れた様子で古びた扉へと足を向けた。

 その向こうは瑠璃の部屋なのだが。


「あっづ!」


 むわりとした湿気が籠もった部屋に、瑠璃は悲鳴をあげた。

 クーラーつけとけば良かったという泣き言を響かせ、瑠璃はキッチンへと向かった。途中で部屋と居間のクーラーを作動させ、その途中で一気に噴き出してきた汗から逃げるようにキッチンの冷蔵庫を開ける。

 その中に入れられたパックを手に取り、ついでにサイダーを手にした。


 それからしばらくしてブラッドガルドの部屋に戻ると、相変わらずそこは天国のように涼しかった。


「そういうわけでえ、今日のおやつは杏仁豆腐、ってかフルーツポンチだよ!」


 瑠璃はテーブルにトレイを置いた。

 大きな硝子の器には、規則正しくダイヤ型にカットされた白い欠片がいくつも浮かび、その中のオレンジ色の果物が色を添えていた。

 ブラッドガルドは視線を向けたあとに、ひとつ瞬きをした。


 瑠璃が座ってとりわけはじめると、ブラッドガルドはノートを閉じて横に除けた。


「……その……アンニン? なのかフルーツポンチなのかはっきりしろ」

「この白いのが杏仁豆腐で、食べ方はフルーツポンチ、みたいな……」

「は?」


 瑠璃は二人分の透明なグラスを一旦置くと、サイダーのペットボトルを開けた。ぽん、という心地良い音がする。

 それからグラスの中にサイダーを入れると、しゅわしゅわとした涼しげな音が響いた。

 グラスのひとつをブラッドガルドの前へ滑らす。


「また炭酸か」

「うん。一気に飲むなよ?」

「馬鹿め。我に二度は効かぬ」

「その台詞はフルーツポンチ前にして言う台詞じゃないからね」


 さすがに真顔でツッコミを入れる瑠璃。

 そういう台詞は再戦した勇者とやっててほしい。


 ぽこぽこと泡が浮かぶグラスの中へスプーンを入れると、しゅわりと小さな音がした。スプーンにあっという間に泡が貼り付く。

 杏仁豆腐を一つすくって口の中に入れる。

 僅かな炭酸が舌をつつき、その合間にぷちりと寒天に似た食感が広がる。ほんの少し固めの杏仁豆腐は、冷たくて心地いい。

 同様にオレンジをすくって口の中に入れると、ほどよい酸味が彩りを加えた。


「まず、フルーツポンチっていうのはね。意味としてはフルーツとポンチ。桃とかオレンジとかの果物をカットしたものに、シロップとかワインとかを加えて浸したものだよ」

「ああ、まあ……見ればわかる」


 具材のほとんどが杏仁豆腐だということを除けば、目の前にあるものは確かにフルーツポンチだ。

 しかも杏仁豆腐のフルーツポンチ風、ということだから、それに対して何も言うことはない。


「フルーツはそのまま果物。ポンチのほうはパンチともいうんだけど、それはもともとはカクテルの一種。蒸留酒に柑橘系果汁を混ぜて作るカクテルだよ」

「命名としてはシンプルだな」

「うん。このポンチは江戸時代にオランダから入ってきて、当時は『ポンス』って呼ばれてた。これは『ポン酢』の語源にもなってるよ。『ポン酢』も柑橘系の果汁を使って酢酸を入れるものなんだけど、こっちはカクテルとは全然関係ない調味料になってる」

「……フルーツポンチはどうした」

「それなんだけどね」


 瑠璃はスマホの画面をスクロールさせる。


「フルーツポンチも元々はカクテル主体で果実の欠片を浮かべるくらいのものだったんだけどね。日本に入ってきてから果実のほうが主体になったみたい。

 高級フルーツ専門店として有名な『銀座千疋屋』ってお店があるんだけど。そのお店がフルーツパーラー……果物屋を兼ねたカフェを作ったときに、フルーツポンチを考案したって話があるよ。

 だから、私が今フルーツポンチって言われて想像するのは果実を楽しむほうかな。ポンチ、のほうも今はお酒じゃなくて、こういうサイダーを使ってるほうを想像するけど」

「では、酒が主体のものはもう無いのか」

「う~ん……そういうのってむしろサングリアとか?」


 サングリアは、赤ワインにカットした果物と甘味料、風味付けにブランデーやスパイスなどを入れて作るものだ。

 フルーツ入りの甘いワインで、炭酸水を入れることもある。

 スペインなどでよく飲まれるもので、日本でも夏のイメージだ。おまけに「サン」グリアなんて名前なのだから。明るくカラッとしたラテン系を想像するのに難くない。


「ふふん。でもブラッド君に似合うかもねえ」


 瑠璃がにやにやと笑うと、ブラッドガルドはやや眉を寄せた。

 スペイン語のサングリアは、別に太陽(サン)でもグリアでもなんでもない。語源が「血」を意味するサングレから来ているのだ。


「……まあ、なんでも良い。似合うといいつつ貴様はまだ用意できんのだろう」

「残念でしたー。ここに繋がったのが大人だったらねえ」


 実際に繋がったのはまだ未成年であった瑠璃なのだから仕方ない。

 それも理由はまったくもって不明。

 扉が今も存在する理由はわかったが、肝心のどうして繋がったのかはまったくわからない。それに関してはブラッドガルドも同じだった。


「それで、この白いのが杏仁豆腐なんだけど」


 瑠璃が言うと、ブラッドガルドの目が瑠璃に向き直った。


「これは中国発祥のデザートだよ。アンニンドウフって言うけど、本来はキョウニンドウフって読むみたい。羊羹の羹で、キョウニンカンともいうらしいよ」

「……ということは、これは……」

「ちょい待ち。元々は薬膳――栄養から色から味からみんな揃った薬の料理、みたいな意味なんだけど――その一種だよ。

 『杏仁』っていうのは、『杏』つまりアンズの種の中にあるジン、果実の核って言えばいいかな。それを使うんだよ。ほら、アーモンドみたいな」

「……ああ」


 アーモンドでぴんときてくれたらしい。


「杏仁(キョウニン)は『肺と腸を潤す』って言われて、咳止めや便秘に良い薬として今も使われてるよ。ただ、それを服用するには、杏の種は苦すぎた。

 そこで、粉末状にした杏仁に砂糖や牛乳を加えたのが杏仁豆腐のはじまり。そしたら美味しい薬膳デザートになって、最終的に宮廷にまで行ったんだ」


「このタイプのは寒天で固めたタイプだね。たいていはこんな感じの菱形に切って、甘いシロップに浮かべるタイプだよ。たいてい果物を一緒に入れてフルーツポンチ風にしてあるね。

 ただ、二○○○年代に入ってからは、ゼラチンで作った……柔らかめでプリンみたいな食感のものも出回るようになったみたい。だから杏仁豆腐といえば華やかなフルーツポンチ風のものも多いけど、最近だと柔らかタイプで単品で売ってる場合も多いかな」

「……そこは別の名にならんのだな」

「桜餅みたいな」

「……」


 ブラッドガルドは、それはちょっと違うだろう、という目をした。


「うーん。でも私は安いのが寒天で、高いのがプリンタイプだと思ってたなあ」

「どういう意味だ?」

「前に連れて行ってもらった結構本格的な中華料理屋で、プリンタイプが出てきたから」

「貴様の認識はその程度なのか……」

「子供の頃の話だから!」


 瑠璃は言い訳をする。


「そうか」


 ブラッドガルドはグラスに残ったサイダー・シロップを飲み干すと、そのグラスを瑠璃に押しつけた。

 そして微妙な目をする。


「……ところで貴様……さも当然のように使っているが、我はプリンを知らんからな」

「おう……」


 ぐうの音も出なかった。

 押しつけられたグラスを置き、中身を追加する。


「ま、まあ。それはおいおい持ってくるとして。でもいいでしょ、口の中はサッパリするし、冷たいし、暑さも吹っ飛ぶ!」


 サイダーを注ぐ。

 一度開けた後とはいえ、まだ炭酸は衰えていない。


「……ここは熱など関係ないが」

「気分だよ、気分! ほら」


 瑠璃はしゅわしゅわと音を立てるグラスをブラッドガルドに返す。

 にいっと笑う瑠璃からグラスを受け取ると、ブラッドガルドは妙に物言いたげな視線で見返す。

 だがそれ以上何も言うことはなく、スプーンで杏仁豆腐をすくって口の中に放り込んだ。

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