32話 チーズケーキを食べよう

 トン、と本棚に雑誌を置くと、瑠璃はにやにやと笑い出した。


「いいよね、置くところがあるって!」


 瑠璃は踊るように後ろを振り向き、笑いかける。

 ところが部屋の主である当人は、目だけが動いて見上げただけだった。


「貴様はどこまで物を置く気だ」


 本のことを言っているのではなかった。

 こちら側の部屋には、瑠璃が買ってきたツルハシだの安全帽だのがそのまま置かれているのである。

 ベッドの下に放り込まれていたはずのそれを、「見つかると説明が面倒」という理由で移したのだ。


「いいじゃん別に。なんか殺風景だし。これでちゃんと壁とか床とかもお屋敷みたいだったらいいんだけど!」

「……。……今とそう変わらんだろう」

「変わらないって思うなら変えてもいいじゃんー」


 ブラッドガルドは何かを言おうとしたのだろうが、無駄だと悟ったのか目線を雑誌に戻した。


「せめて石造りならそれなりに……」


 瑠璃も言いながら隣に座り込んだが、その目がブラッドガルドの横顔から、その視線の先へと向かうと、広げられている雑誌のページがあった。

 爽やかな緑色が占めるページは、陰鬱なこの空間に似つかわしくない。


「あ、高原特集」


 夏といえば山か海だ。

 今回の地域情報紙「ウォーカー」は、そのうちの山の特集だった。山といっても高原の牧場などが中心で、牛乳だのソフトクリームだのが並んでいる。動物とふれあえるという触れ込みのコーナーでは、カメラに向かって鼻を突き出している山羊が映っていた。


「いいよね、高原のチーズとか食べたい!」

「……」


 たまたま開いていただけだ、という言葉は遮られ、喉の奥に呑み込まれた。


「普通に食うだけか?」

「普通ってなに? というかチーズ食べたじゃん、ピザ食べたときに」

「そうか」

「あ、お菓子って意味で? おかきとかスナックとか……チーズケーキ?」


 ふうん、と流れかけた会話は、ブラッドガルドが瑠璃を見たことで止まった。


「……ケーキ?」と尋ねるブラッドガルド。

「……チーズケーキ」と頷く瑠璃。


 しばし二人は真顔で、お互いの真意に気が付かないまま見つめ合った。





「と、いうわけで今日のおやつはチーズケーキになったわけだけど――」


 スーパーのスイーツ売り場で、二個で二百円程度で売っている安いものだ。できればケーキ屋に陳列されてた、てらてらと光るチーズケーキのほうが「サマになる」と思ったものの、今月は対価で砂糖を大量購入したので仕方が無い。ついでに工具も買っているので金欠なのである。

 とはいえ、そんなお菓子でもちょっといいお皿に盛ってしまえば輝いてみえるのだ。


 しかし問題はそこではない。


「外はもうダメだよ。暑い!」

「だろうな」

「ここはむしろ寒いくらいだけどね!?」


 クーラー要らずなのはいいことだ。

 こうしてケーキなんて代物も、暑さにうだらないまま食べられる。


 ただ途中から上着が必要になるし、持ってこないと温度差で風邪を引きそうだ。


「一年中こんな感じ?」

「あまり変わらんな」

「そっか」


 言っている間にセロテープを剥がし、透明なプラスチックの蓋を取る。お互い向かい合うようにおさめられているケーキを、それぞれの皿に取り分けていく。


「……チーズというから、チーズの塊がそのまま出てきたらどうしてやろうかと思ったが」

「それチーズケーキじゃなくてホールチーズだからね」


 淡い色にフォークを突き刺すと、ややしっとりとした感触が手に伝わってきた。

 既製品とはいえ上品に尖った箇所が、そうっと断ち切ったフォークによって切り分けられる。


 口に運ぶ。

 舌の上にそっと乗せられると、クリーミーな味わいが途端に広がった。

 チーズの淡い酸味が花を添えている。


 ケーキの上に垂らされ、てらてらと光るカラメルからはとろりとした甘い味がした。チーズケーキと合ってはいるけれど、それがいかにも作り物めいた安物のような気がする。

 しかし、いかにも自分こそがケーキと言わんばかりに鎮座するよりも、どこか友達めいた気安さがあった。


 口の中でほろほろととろけてばらばらになっていくチーズケーキは、そのまま溶けるように消えていった。


「チーズは遊牧民の保存食から生まれた話はしたっけ?」


 瑠璃がスマホに手を伸ばしながら言うと、ブラッドガルドはやや記憶を探るように考え込んだ。


「……ああ、遊牧民……、ヨーグルトを作った後に作る、というような話だったか」


 ブラッドガルドが答える間に、瑠璃はそれらしい情報をネットで探し出してくる。


「相変わらずチーズが起源がどのあたりかは判明してないけど、『旅をしている間に動物の胃袋に乳を入れて移動していたら、温められて固まった乳が揺らされて透明な液体と白い固体に分かれた』……みたいな民話も伝わってるくらいで。一応、偶然からできたんじゃないかって言われてるね」

「貴様らはいつも偶然頼りか」

「大体そんなもんじゃない?」


 瑠璃はしれっとかわす。


「で、チーズケーキなんだけど」

「……ふむ」


 続きを促すブラッドガルド。


「チーズケーキのルーツも結構古いみたいだよ。中近東のチーズと蜂蜜を使ったお菓子説もあるみたいだけど、古代ギリシャの『トリヨン』説のほうが有名みたいだね」

「トリヨン?」

「うん。今もレシピが残ってるみたいなんだけど……」


 ラードやミルクに加えて仔牛の脳味噌まで混ぜていちじくの葉でくるみ、これまた羊肉のスープで煮込んで、取り出した物に蜂蜜をかけるという代物だ。


「あえて『新しいチーズ』って断りを入れてるくらい、ちょっと柔らかめのものを使ったお菓子みたいだね」

「貴様らが仔牛の脳味噌を食うことはわかった」

「私は食べたことないからね……?」


 そういう文化圏のことを考え、せめてそう言っておく。


「今のチーズケーキに直接繋がってるのは、『セルニク』っていうお菓子だったって説もあるみたいだね。ポーランドの地方菓子で、これが後にアメリカに伝わった。それからアメリカの業者さんが『ヌシャテル』っていうチーズを作ろうとしてできあがったのがクリームチーズ。そこから色んなチーズケーキの種類が出来たみたい」

「……それは……、チーズの種類ごとに菓子があるのか?」


 瑠璃は頷いた。

 スマホの画面をスクロールさせながら、続きを口にする。


「チーズを使ったお菓子やら料理っていうのは、世界各地にあってね。アメリカなんかはやっぱりとにかくチーズを使ったケーキならチーズケーキ、ってスタンス。逆にヨーロッパのほうは、フランスやドイツはケーキだったりタルトだったりでそれぞれ名前が違うタイプだね」

「名前を統一しろ……いや、しない方がいいな」


 瑠璃はその真意からそっと目をそらす。

 名前が違うほうが違うものを要求しやすいとか、そういうことだ。


「ともかく、使っているチーズの種類が変わるだけで名前が変わったり、っていうのはブラッド君の想像通り」


 ティラミスなんかもマスカルポーネチーズを使っているから、そういう意味ではチーズケーキの一種と言えるだろう。

 でも、日本から見ればティラミスはティラミスだ。


 ――あ、ティラミスもいいかも。


 今度のお茶会用菓子の候補として入れておく。


 日本もまた「チーズを使っていればチーズケーキ」という類の国だが、各国の菓子はその土地でつけられた名前で呼ぶというそういうやり方になっているらしい。

 では、そんな日本でのチーズケーキはどうして広まったかというと。


「日本だとねえ……、まず、出てきては立ち消えっていうのが長いこと続いてたみたいだね」


 『酥(そ)』と呼ばれたチーズの類がはじめて出現したのは、奈良時代のこと。

 後の時代に八代将軍吉宗が興味を持って作らせたという逸話は有名なようだが、その間も思い出したように出現してはぱったりと途絶えるというサイクルを繰り返している。

 しかし明治に入ると人々はむしろ積極的に取り入れるようになったらしく、スフレタイプのチーズケーキやパイ包みなどが資料に残っているらしい。


「昭和に入ったら入ったで、世界恐慌や戦争なんかもあるし……。ただやっぱり、戦後って言われた時代が終わって冷蔵庫が普及しはじめたころからかな。自分のところで日持ちするようになったのが一番の理由みたいだね。

 そこからカッテージチーズなんかの生タイプ、それからクリームチーズみたいなレアタイプが紹介されて、どんどんチーズってものの幅が広がっていったんだよ」

「……では、それまではチーズケーキは……」

「うん。それまでもドイツ系のお菓子屋さん……、ほら、バームクーヘンの時にも話した『ユーハイム』とかでも売られてた。だけど本格的に人気が爆発したのは一九七五年。この年に、チーズケーキブームが起きたんだよ」

「ほう? 理由は」

「当時の女性雑誌『ノンノ』が特集したんだよ。『ノンノ』は十代から二十代向けで、主にファッションを中心にした雑誌なんだけど、お菓子や旅行とか、女性の好きそうなものも特集を組むことをあるんだよ。当時は主にレアチーズケーキに注目してたみたいなんだけど、『モロゾフ』のチーズケーキが特集されて一気に人気に火がついた感じかな」


 その『モロゾフ』のチーズケーキは、ベルリンで出会ったチーズケーキが元になっている。

 一九六九年、まだベルリンの壁が残るドイツに出張していた、当時の二代目社長葛野友太郎氏。彼がベルリンの喫茶店(動物園という説もある)で何気なく注文したチーズケーキに感銘を受け、これをヒントに作られたという。


「ここからチーズケーキが広まったことで定番化して、チーズケーキ専門店が登場するようになったんだ。

 一九八九年には第二次チーズケーキブームが起きたし、九二年頃になると『焼きたてチーズケーキ』っていう、あつあつのスフレタイプのチーズケーキが爆発的な人気になった。日本はバブルが崩壊した直後で景気が下がってたみたいだから、大衆向けのお手頃価格もウケたんじゃないかって話だね」

「いくらだ」

「五百円」

「そうか。安いのか高いのかわからん」

「……今日のケーキに比べたらね!?」


 言いながらも、思わず目をそらす瑠璃。

 話題を変えるように


「……そ、そういえば、あの砂糖はどうしたの? 何かに使ったの?」

「貴様に勝手に飴にされた分を除けば、まあ上々というところだな」

「ふうん……? 何をしてるのかまでは教えてくれない感じ?」


 瑠璃は首を傾いだ。


「そうだ――と言ったら?」

「えっ、いや……そうなんだ、って話だけど」

「……」


 自分に対してたったそれだけで済ませるとは。

 瑠璃のこの警戒心の無さが一体どこからきているのか、ブラッドガルドはいまだに掴み切れていない。


「えっ、なんで!? だめ!?」


 冒険者でない一般人だからなのか、それとも何か起きても所詮は異世界での出来事と高をくくっているからなのか。

 ブラッドガルドはあえて口の端だけを上げ、意味ありげに笑ってみせる。


「……そうだな、出来たら見せてやろう」

「おっ。ホントに? じゃあ期待してる!」


 そのためにも魔力を回復させねばならない。

 牢獄から出てもなお、傾いた自分の体力と魔力の回復に注力しなければならないのは予想外だった。

 とはいえ目の前の小娘がそれだけの力は無いのだから仕方が無い。


「あとさー」


 付け加えるように言った瑠璃に、目線を流す。


「壁が変わらないならせめてそこの本棚飾り付けない?」

「それはやめろ」


 あきらかに心躍らせている瑠璃に、ブラッドガルドは即座に断じた。

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