31話 甘くない砂糖の話をしよう

 トタタタタ、と小さな足音が迷宮を駆け抜けた。

 それはあまりにも小さくて、誰も注意を払ってはいなかった。おそらく聞こえたのは足音の主だけだろう。

 足音の主は狭い通路で魔物をやり過ごすと、ふう、と息を吐いた。


「はあーあ、やれやれってんだ」


 壁に背をつき、足音の主であるゴブリンは、腰に下げた水入れを手に取った。


「まったく、最近はピリピリしてていけねぇや」


 迷宮の主が倒されて以来、次の主を狙った闘争はそこかしこで行われていた。


「しかしねえ。あのお人らは無事に封印までたどり着けたのか」


 ゴブリンは基本的に魔物であり、数多くの近親種がいる。基本的に単体ではなく群体で行動するが、彼のようなはぐれ個体が「亜人」として冒険者相手に商売をしていることがある。たとえば道案内や、冒険で必要になる道具の売買などだ。

 これはひとえにゴブリンの宝をため込む性質ゆえのもので、彼らはそうした見返りに対価をもらう。ボッタクリも多いのでよく見極めなければならないが、重宝される存在には違いない。

 もっとも、元から亜人をよく思わない冒険者もいるし、聖騎士に関してはそれ以上だ。

 勇者に関わった聖騎士くらいだろう。


 そして彼もまた――かつて勇者と関わった。


「……ん? ありゃ?」


 口につけた水入れの中身は、まったく入っていなかった。


「あらら……水が無くなっちまった。こりゃ一旦上にあがるしかねーなあ」


 水入れを逆さにして、ポタポタと落ちる水を最後の一滴まで舌で受け取る。喉を潤すにはまったく足りない。やれやれとばかりに腰に戻したその途端、しゅるりとその体に影が巻き付いた。


「へっ?」


 何かを考えるその前に、ゴブリンの視界が意志とは無関係に高くなった。

 体を締め付けられる感覚と、浮遊感。


「あっ!? ひえええっ、ああああー!?」


 小さなゴブリンの体は、黒い蛇に絡まれたまま宙を舞った。





「ブラッドくーん?」


 迷宮への扉を覗いた瑠璃は、そこにいたブラッドガルドに声をかけた。


「ちょっと、急いでこっちきて!」


 雑誌に目を通していたブラッドガルドが振り返る間もなく、一も二もなくそれだけ言って立ち去る瑠璃。

 あまりのことに、ブラッドガルドは無表情で瑠璃の背を見送ると、再び目線を落としてページをめくった。

 しばらくした後に、再び瑠璃は自分の部屋へと戻ってきた。


「ちょっとブラッドく……」


 瑠璃がもう一度覗いたのと同時、その至近距離から骨ばった手が現れ、頭を掴んだ。それは少しずつ瑠璃の頭を押していき、圧力をかけていく。


「……用件を言え、用件を」

「ちょっと! 縮む! 縮むって言ってんでしょ!」

「それでなんだ」

「さ、砂糖が届いたから回収して……さすがに十二キロとか私一人じゃ持てない!」


 ブラッドガルドは瞬きをしたあと、やや面倒臭そうに眉間に皺を寄せた。

 しかしひとつため息をつくと、瑠璃の頭からようやく手を離した。


 それから段ボールが『茶会部屋』に持ち込まれた。

 届け先の住所の紙を破りとると、カッターナイフを使ってガムテープを切る。

 箱を開けると、中身は一キロ単位に詰められた大量の白い物質――もとい砂糖が詰められていた。


「でも一ガロが大体一キロくらいで良かったよ。正確にはもう少し多めだけど」


 瑠璃がその中のひとつを手にとって、ブラッドガルドに渡した。

 受け取ったその手は、まるで紙の束でも持つかのように軽々としている。


 一ガロは現代の一キロと少し。

 さすがに「少し」の部分はやや複雑な数字になったものの、わかりやすい数字をとって二百グラム程度と考えることにした。

 最初はヤード・ポンド法の「ガロン」に音が似ていたせいで混乱したが、一キロちょいというのがわかればあとは細かい部分をすりあわせるだけだった。

 元は何が基準なのかまではさすがにわからなかったが、この偶然には感謝するしかない。


「しかし貴様、執拗に一キロだと言い張ったな」

「……さあ?」


 白々しく言い放った瑠璃をじろりと睨む。


「だってさ、ただでさえ砂糖十キロも買い込んだら目立つに決まってるじゃん! 今は通販があるからいいけど、私みたいな一般人が一気にそんな買い込むことなんてそうそう無いよ」

「そうなのか?」

「一キロ……五百グラムでもしばらくもつと思うよ。料理で使うかどうかにもかかってくるし……。まあでもそれより、払える金額で良かったってのがあるけど」

「そんなものか」

「その代わり、ちょっとお菓子が……お菓子が低価格になるけど……」

「……」


 瑠璃が微妙な視線からそっと目をそらす。


「……まあ良い。貴様でも払えそうなものを要求したのだからな」

「あっ、一応そこ考えてくれてたんだね!?」

「金貨のほうが良かったか?」

「それは無理」


 真顔で言う瑠璃。


「でも砂糖ってこっちじゃ高いんでしょ。一ガロでだいたいどれくらいなの?」

「詳しくはわからんが……銀貨五、六枚くらいか」

「銀貨五、六枚っていくらだっけ? えーと、六万円か七万前後くらい……錬金術じゃん!?」


 現代での砂糖は物にもよるが、一キロで三百円から四百円程度だ。

 それを考えると持ってきただけでかなりの儲けになる。

 しかしこちらで銀貨を手に入れたとして、現代で使えるのか――という問いを、ブラッドガルドはあえてしなかった。

 面倒臭かったからだ。


「……一応聞いておくが、貴様が支払った額は実質どの程度なんだ?」

「ちょっといい服が買えたり、家族で外食するくらいかな」

「わからん。我にもわかるように言え」

「ええ……。うーん、前に一緒にパフェ食べに行ったことあったでしょ? あそこで売ってた超でっかい金魚鉢に入ってたパフェと同じくらい」


 ブラッドガルドが小さく舌打ちをしたので、瑠璃はそれ以上何も突っ込まないことにした。


 ひとまず二袋くらい開けろというので、適当に返事をして用意された袋にぶちまけた。


「そういえば貴様のところでは――砂糖は何で作っているんだ」

「えー? えっと……主原料はサトウキビかな。他にも砂糖を生産できる植物はいくつかあるみたいなんだけど、世界規模での生産が可能ってなると、やっぱりサトウキビしかないみたい。あと最近はビーツっていうのもあるけど」


 瑠璃がそれだけ言うと、無言が続いた。

 どうした、早く続きを話せ――とでも言いたげな無言に、瑠璃はしばらくしてから意図に気付く。

 ポケットからスマホを取り出してテーブルの上に載せた。


「ブラッド君ほんとそういうとこあるよね……」

「何の話だ」


 ぶちぶちと文句を言いつつスマホを操作する瑠璃に、ブラッドガルドはしれっとかわした。


「サトウキビを絞って砂糖を精製するのは二千年以上前にインドで作られたってのが研究者の一般見解だね。

 今では飴を意味する『キャンディ』も、数千年前のインドで派生した言葉だって言われてるらしいよ。

 砂糖はそれからイスラム教徒の手によって、コーランと一緒にヨーロッパに持ち込まれた。イスラム教徒から聖地を取り戻す十字軍が組織された頃には、ヨーロッパが精製方法を獲得したんだ。

 ヨーロッパではもともと、こういう甘味はハチミツが使われてたのね。だけど十字軍の時期に、ミツバチを経由しない甘い粉の存在が明らかになったんだ。そこからヨーロッパに持ち込まれる形になった。やっぱり最初は上流階級で薬として……」

「……そして更に広がったわけか」

「うん」


 瑠璃は頷く。


「当時はみんな栄養不良の状態だったからね。手っ取り早くカロリーの採れる砂糖は、もうそれこそ万能薬みたいな感じだったんだと思うよ。

 十二世紀の医者が、解熱剤として薔薇の砂糖漬けを薦めてるって話もあるみたいだし。

 あとは……えーと……、紅茶も当時は高価で薬みたいな感じだったんだけど。そこに砂糖を入れて飲むのが流行したのが、砂糖の拡大のひとつで……」


 そこまで読んで、瑠璃は急に黙り込んだ。


「……どうした」

「砂糖入りの紅茶って薬なの……?」

「我に聞くな。……だが、そう書いてあるのならそうなのではないか。こちらでもまだ高価なようだから、似たようなものかもしれん」

「そ、そう」


 微妙に目をそらす瑠璃を見て、ブラッドガルドはひとつの結論にたどり着く。面白そうにやや目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。


 瑠璃は気を取り直し、スマホをスクロールした。


「そもそもヨーロッパ……特に白人社会では、今でも白人至上主義が残ってるんだよ。それが昔となるともっと顕著だったと思う。そんな中で白くて甘い不思議な《砂糖》って物体がどう映ったかはまあ、大体想像がつくよね」

「ふん?」

「砂糖を求めて生産拡大を目指したんだけど、それは奴隷制度や植民地の拡大にも繋がったわけで、一概にいいとも悪いともいえない……かな。……エジプトでも本来、農閑期にあたる季節にも仕事が増えたりして、それまでの生活が一変した要因になったみたいだね」


 黒人の歴史家エリック・ウィリアムズは、「砂糖のあるところ、奴隷有り」という言葉を残している。


「今でこそ、外来生物や外来動物をできるだけシャットアウトして、土地固有の植物や動物みたいな環境を保護しようって動きが活発だけど、当時はそういう感覚なんてほぼ無いだろうからね。サトウキビを手に入れるためにどんどん場所を移した」

「場所を? どういうことだ」

「サトウキビは土地の生産力を食っちゃうから、生産地をつぎつぎに変えないといけないんだよ。だから上の人の命令が行き届いて、奴隷になる人たちがいて、かつまだ大丈夫な土地ってなるとかなり大変なんだけど、それでも砂糖を求めたんだよね」

「……なるほど」


 それだけ世界の人々を魅了した植物もないだろう。


「日本でも最初に入ってきたのは遣唐使の時代だっていうけど、本格的に入ってきたのはやっぱりポルトガル人が種子島に上陸してからかな。カステラとかと一緒に入ってきて、かなり人気になったよ。

 前に何かで見たんだけど、当時はこぼしてしまった砂糖はそのまま貰えるからわざとこぼして砂糖をガメてたって話もあるくらいだし、それ以上に馬鹿みたいな高値で買ってて尋常じゃないって書かれる始末だったんだけど」

「貴様がどんどん真顔になっていくのがわかるな」

「うるさいなー……。でも、日本には潤沢な銀があったからね。

 ただ、あまりに大盤振る舞いしすぎて、とれる銀が少なくなってしまった。

 前に桜餅の話で徳川吉宗って人の話をしたと思うけど、この人は砂糖の国産化にも貢献したみたい。サトウキビの生産を奨励して、一七九八年には和三盆っていう国産砂糖がはじめて市場に登場したんだ」


 和三盆のお菓子はそのうち持ってくるとして――と締めたので、ブラッドガルドはそれでだいぶ納得してくれたようだった。


「ただ最近は、何にでも砂糖が入るようになった分、ダイエットが砂糖の敵になった……みたいだね。砂糖の代替品として登場したもののほうが、カロリーが低いからって求められるようになったり。

 節制して自分の体型を健康的に維持することも、ちゃんとした人間だってみなされる要素みたいだし……」


 瑠璃は言ってから、ちらっとブラッドガルドを見た。


「ブラッド君の体型はどうなってんの……?」

「貴様らの基準で言うなら、砂糖を食っても問題は無いな」


 冗談なのか本気なのかよくわからない。

 ただどうにも肉の無い骨ばった手を見ると、瑠璃は神妙な顔をして黙り込んだ。

 しんとした沈黙が満ちる。


 ブラッドガルドは机から手を離し、頬杖をついた。


「……。……そういえば貴様、キャンディと言ったな。前にも話したような、あれか」

「ん? うん。有平糖。砂糖を使ったお菓子は色々あるけど、一番基本的なのはロックキャンディだね」


 瑠璃は質問に反応することで気を取り直し、頷いた。

 日本では氷砂糖とも呼ばれる、結晶化したキャンディだ。

 砂糖を溶かしたシロップの入った容器に、砂糖を種付けした糸や棒を入れて何日かすると、大きな結晶ができるものだ。

 これは砂糖漬けなどでも同様に起きている現象である。


「最近だと棒の先で結晶化させて、色つきの宝石みたいにしたお菓子にして楽しむとか、あとは、紅茶や珈琲にマドラー代わりにして入れて甘みをつけるとかだね。一週間くらいでできるみたいだからロックキャンディ作ろうよ! 可愛いし美味しそう」

「……貴様、これは我への対価だろうが」

「えっ、いっぱいあるんだしいいじゃん一袋くらい」


 ちなみに一週間後――瑠璃が再び何も考えずカインに手渡し、卒倒させそうになったのは別の話だ。





 迷宮に蠢く黒い蛇は、ゴブリンを威嚇するように睨み付けた。

 影のような蛇だった。その瞳がゆらゆらとゴブリンを縛り付けている。


「なっ、なっ、なんだおまえはあ!? あ、あ、あっしなんぞたたた食べても、おおお美味しくなんか……!」

「……喚くな、うるさい」


 ゴブリンのわめき声をぴたりと止めたのは、闇の向こうから聞こえた声だった。

 ゴブリンの夜目でも捉えきれぬ迷宮の底から響いてきた声は、紛れもなくゴブリンに恐怖を叩き込んだ。


「お、お、おまえ……い、いや、あなた様は……」


 震える声のゴブリンに、闇の向こうからひたりと足音が近づいてきた。一歩、また一歩とその視界へと侵入してくる。それは最初は妙に光る目で、やがて形を成した。その名がゴブリンの喉から出ることはなかった。それを口にするのはひどく畏れ多く、そしてまたそれ以上の恐怖に塗れていたからだ。

 姿を現わしたのはブラッドガルド――迷宮の主。

 その姿は以前よりもずいぶんと痩せ細り、衣服はボロボロになっていたが、確かに同じ魔物だった。

 ゴブリンの視界がにじみ、がたがたと震えるのを蛇がなお巻き付けた。


「……貴様、商人だな?」

「はッ、は、はいッ、はいッ! そうです、そうでございますうッ!」


 何度も頷くゴブリン。


「こ、こ、このような小物を、どっどど……」

「なに。貴様らは我の姿を見た途端に隠れてしまうだろう。こうして先に手を打っておかねば、……逃げられてしまうのでな?」

「そ、そ、それは大変っ、大変申し訳……」

「理屈はいい。我は取引をしに来たのだ」


 震えながらも、相手にひとまずは害意が無いことを知ると、ゴブリンは自分の不幸のみを恨んだ。


「と、取引と申しますと……」

「わからんか。買い物がしたい――と言っているんだ」

「そ、そんな。め、迷宮の主ともあろう方が、か、か、買い物などと。めめ、滅相も……」


 まだ何か言いかけるゴブリンの前に、ずい、と別の蛇が頭をもたげた。


「ひいっ!?」

「……飲め」


 蛇の頭に乗せられていたのは、奇妙な器だった。

 木杯でもなく陶器でもなく、紙でできたようにぺらぺらだ。そのくせ厚みがあるし、紙だとしたらずいぶんと勿体ない代物だろう。

 ゴブリンの喉はずいぶんと渇いていたし、ここまで睨まれては選択肢は無かった。このまま飲んでも飲まなくても、もはや自分の命が握られていると確信していた。

 一も二もなく、目の前にある茶らしき何かを飲むしかなかった。

 意を決して、紙の器に口をつける。

 だが、液体を口に含んだ瞬間、ゴブリンは目を見開いた。


「な、こ、……これは……!?」

「……どうだ。我は現状金銭を持たぬのでな、こんなものでしか対価は払えぬ。しかし価値は知っている……もちろん、みな粒の状態で用意してある」

「い、いえ、これは……これは、充分です。充分でございます! いったいどこでこのようなものを……」


 ゴブリンは問いかけ、そして口を噤んだ。

 もちろん今までやりとりしてきたこともある。だがそれは決して多くないし、数少ない幸運に恵まれたときだけだ。

 砂糖を含んだ甘い紅茶は、ゴブリンの喉を優しく潤した。そして蕩けるように虜にした。


「ふん。命を一人分見逃してやった対価よ。このままではどうしようもないのでな」


 ゴブリンはごくりと唾を飲んだ。これ以上聞いてはいけない、と何かがストップをかけた。

 それよりももしブラッドガルドの求めるものを差し出せば、それ以上のものが手に入るかもしれないのだ。

 砂糖、という甘い対価が。


 ブラッドガルドの口元がニタリと笑った。


「……まずは黒曜石。そして水晶……」

「お、お、お待ちください。今すぐにし、品物と対価を……い、いえ、ここ、この命に賭けてもご用意致しますので、どうか、どうか、命だけは……!」


 だが取引は成立した。

 ブラッドガルドが蛇を下げて商人を手放してやると、ゴブリンは一目散に真っ青な顔で駆けだした。面白がるような笑い声を後ろに、やがて暗がりに消えた。

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