30話 ヨーグルトを食べよう
「ごめんね、カイン君。毎食持ってこれなくて」
瑠璃は苦笑いしながらトレイを置いた。
「……いえ。こうして食糧を持ってきていただけるだけでも、ありがたいことです」
別室に移されたカインは、そう首を振った。
居心地が悪くないと言えば嘘になる。別室といえば聞こえはいいが、実際のところは捕虜なのだから。
扱いが悪くても仕方がないと思っていた。だが、迷宮内での野営よりはマシな部屋で、こうして食事を持ってこられるとは思ってもみなかった。牢屋がいまだ整っていないのかもしれないが、それでも意外だった。
加えて、カインにとっては瑠璃という存在がますます不可解になっていった。
「でも、毒の心配とかしないの?」
「……多少はしている……といえば失礼になるでしょうが……、私は一度は死んだ身です。もし毒が入っていても仕方ありません」
「ブラッド君と似たような事言うなあ。そういう文化なの?」
「えっ?」
「それより、味のほうは問題ない?」
「え、ええまあ……」
カインにとって更に不可解なのが、瑠璃の持ってきた食事だ。
瑠璃は「カンペキすぎる対怪我人用食事!」と思っていたのだが、これがカインにとってはとんでもなかった。
まず、瑠璃がロールパンと呼ぶ白パン。一般市民はせいぜい招待された者しか食べることができない。
更にコーンスープ。美味いとは感じるものの、コーンが正体不明だった。何しろカインの世界ではトウモロコシは迷宮産の魔物の餌だ。そこにたどり着くことすらできない。
バナナに至ってはこれまた珍しもの好きの王侯貴族が食べているという話しか聞いたことがなく、紅茶をつけてくるというおまけには別の意味で頭痛がしそうだった。
そういうわけで、ジャムを乗せたヨーグルトだけが心のよりどころだった。
とはいえそれも砂糖がたっぷり入った甘いジャムという事実がのしかかってきたが、知らないよりはマシだ。
思えば瑠璃は貴族や一般人の中でも一部しか持っていない苗字を名乗った。ある程度地位があるのだろうが、人間だとしてもなにゆえブラッドガルドと親密なのかが不明である。
魔女、という言葉がカインの中に去来する。
――……しかし、『宵闇の魔女』……イメージする魔女とはまったく違う。とはいえ、ブラッドガルドと親しい以上、どこまで信用していいものか。魔女のことを知っているとしても、どのタイミングで聞きだすべきか……。
「でもアレルギーとかあったら言ってね」
「えっ!? は、はいっ?」
思考に沈んでいたカインは、咄嗟に返事をしてしまった。
「ブラッド君は魔物だったからともかく、ほら、カイン君て人間だし。さすがに人間だって食べられないものはあるでしょ」
「そ……そう、ですね」
何を言ったのか半分聞いていなかったが、気付かれていないようで良かったとホッとする。
しかし食べられないものを聞いてくるあたり、瑠璃が魔物なのか人間なのかがやっぱりわからなくなったのだった。
*
瑠璃はトレイを手に、カインの部屋を後にした。
辛気くさい迷宮の中を、扉のある部屋目指して歩き出す。するといくらも行かないうちに、ずる、と近くの影が蠢いた。
黒い影は一度大きく伸び縮みしたあと、一歩踏み出した足が出現した。ひたりと石の床に足がつくと、続けざまに全身が姿を現わした。
思わず立ち止まる。
「うわ、びっくりした。居たの?」
瑠璃はその人物を――ブラッドガルドを見上げた。
「ご苦労な事だ。この我を後回しにする不届きさを除けばな」
「文句があるってこと?」
「どうとでも取るが良い。気になったものがあっただけだ」
影の中から出てくると、ブラッドガルドは先を歩き出した。相変わらずボロいマントのように翻る。瑠璃はやや足を速めて後ろを追った。
「貴様、あの白いのにジャムを乗せていただろう。あれはなんだ」
「白いのってなに……? ああ、ヨーグルトのこと?」
ブラッドガルドの少し後ろを歩きながら、思い出す。
「ってか、どっから見てたの!? いないと思ったら!」
「どうでもいいだろう。あれが何かと聞いている」
「だからヨーグルトだってば」
「そういうことではない」
ブラッドガルドの物言いがわからず、瑠璃はしばらく疑問符を浮かべる。
だが答えにはすぐたどり着いた。
「ジャムは入れろよ」
それに気付いたのか、ブラッドガルドはそれだけ言って足を速めた。
「え、ちょ……。……もーっ!」
瑠璃は慌てて後を追い、部屋へとたどり着いた。
最初と比べればずいぶんと片付けられていた。それでもやっぱり雰囲気として暗いし陰気だ。せめて壁くらいはどうにかしてほしい。
トレイの中身をすっかり変えて戻ると、ブラッドガルドがちらりと瑠璃を見た。
「……それで?」
「それでも何もないよ。ヨーグルトは牛乳からできてるわけだし」
瑠璃はブラッドガルドの前にグラスに入れたヨーグルトを差し出しながら言う。
「まさかそれで終わらせるつもりではなかろうな」
ブラッドガルドはヨーグルトにスプーンを差し込み、くるりと回した。
滑らかな反応が返ってくる。
白い渦から取り出したスプーンにヨーグルトが絡みついているのを見ながら、目線をあげた。
瑠璃はヨーグルトにイチゴジャムを乗せてくるくるとかき回していた。が、次第に視線に耐えきれなくなったのか、しぶしぶといったようにスマホに手を伸ばした。
満足そうに目を細めるブラッドガルド。
スプーンを口に含む、混ぜた時と同じような滑らかさと、少し酸味のあるまろやかな味わいが同時に口の中に入ってきた。
「ヨーグルトはミルクに乳酸菌を加えて作るものだよ。おそらく最初は、放置した生乳に環境常在菌である乳酸菌が入り込んで偶然出来た……ってところだろうけど、いつ頃から加工し始めたのかはよくわかってないよ」
「それもわからんのか」
「そのへんは加工に使われた土器から年代測定したり、有機物の分析をしてなんとか遊牧民の登場あたりまで年代を縮めてきたけど、もう少し時間はかかるかもね」
瑠璃はイチゴ味にしたヨーグルトをぱくりと口にすると、スマホをスクロールさせた。
「ただ、このヨーグルトへの加工っていうのはかなり重要だったんじゃないかな」
「何故だ」
「そもそもミルク自体が採れる時期が限られるわけだからね。まず雌牛が出産しないとお乳は出ないわけだし、一年のうちの出産時期っていうのは決まってるから。牛乳も放置しすぎるとすぐに腐っちゃうから、ヨーグルトへの加工はむしろ保存って意味で発展した感じかも。
遊牧民での使用方法の一例をあげると、まず牛の出産時期に搾乳をして牛乳を集める。それからヨーグルトを作って、次の出産時期までのヨーグルトを作る。必要最低限を上回れば、そこからバターやチーズを作る。基本的に大人になるとミルクを飲めない人もいるから、ほとんどは保存食化する部族もいるみたいだね」
「……なるほど、保存食か」
ブラッドガルドはグラスについたヨーグルトをスプーンでかき集めながら言う。
「それまでもヨーグルトはいろいろな地域で食べられてたんだけど――、一九〇八年にロシアの微生物学者でもあるイリヤ・メチニコフって人が、『ヨーグルト不老長寿説』を発表して一気に世界的に有名になったよ」
「不老長寿説だと? 事実なのか?」
「まあ、老化の原因は何か……って、人間の永遠の命題だと思うなあ……」
「……つまり違うんだな」
ハッキリ言わなかったのに気付かれてしまった。
事実ではある。
「実際のところはブルガリアって国や、砂漠に居住する人たちがヨーグルトを常食にしてる人たちに長寿が多いことを発見したのと、腸内細菌の重要性とかの話なんだけど……むしろこれは訳し方による誤解が大きいかな。
そもそも内容としてはヨーグルトの摂取と同時に、生活習慣の改善の必要性を説いたものみたいだしね。ヨーグルトさえ食べてれば不老長寿になるってわけではないよ」
「まったく健康に意味が無い、というわけではないと」
「一応ほら、ミルクから出来てるし。ただミルクに弱い人ってのもいるわけだし、ヨーグルトが必ずしも万人に健康的に効くってわけではないと思うなあ」
「乳糖がどうとかいうやつか」
「ただ、ヨーグルトにすると乳糖が減るみたいだからね、ミルクよりは食べやすいんじゃないかな」
瑠璃はそう言ってまたイチゴ味のヨーグルトを口に入れた。
再びスマホをスクロールしはじめ、ブラッドガルドはその様子をしばらく見てからジャム瓶に手を伸ばした。
「日本では牛や山羊を飼育して、乳や乳製品を作ることを『酪農』っていうんだけど。その『酪』って字で仏教伝来の時にヨーグルトが入ってきたんだよ。ただしそのときはそれほど広まらなくて、一三〇〇年くらい後、明治に入ってようやく整腸剤として売り出されたんだ。
そのあとも、チチヤスとかいろいろなお店が出したけど、一般に普及したのは一九五〇年に明治乳業が瓶入りで発売してからかな。その頃は寒天やゼラチンで固めたハードタイプが主流だったみたい。
それと前後するように、一九七〇年の大阪万博で本場ブルガリアのプレーンヨーグルトが紹介されたんだ。それに感銘を受けて、研究者がプレーンヨーグルトの開発に着手した。
このブルガリアってところもかなり歴史のある所なんだけど、ヨーグルトは主食のひとつ。料理としても使われてるし、季節の行事とも関係がある。
五月六日の聖人、聖ゲオルギの祭日にも、ヨーグルトを作り始めたり、食卓に必ずヨーグルトを乗せるとかあるね」
「聖ゲオルギ?」
「聖ゲオルギウスや聖ジョージとも言うんだけど、羊飼いや家畜の守護聖人とも言われてるからね」
「ほう」
「でも、有名なのはむしろドラゴン退治の逸話なんだけど――」
「なるほど不快だ」
「なんで!?」
ブラッドガルドがあまりにも表情を動かさないまま言ったので、ついツッコミをしてしまった。
「冗談だ、続けろ」
「え、ええ……。ほんとに……? ともかくそれで、明治乳業ではブルガリアヨーグルトって名前で商品を出してるよ。これはブルガリアから輸入した乳酸菌を使用したり、ただのイメージとしての名前じゃないことを正式に認められた末に許可されたみたいだよ」
そこまで言って瑠璃は言葉を止める。
スマホを確認し、眉を顰めて唸る。
「あとは……何かあったかな」
瑠璃はスマホをスクロールさせ、何か言うことはあるかと探す。
それからふと視線をあげて、空になったブラッドガルドのグラスを見た。手持ち無沙汰にスプーンを手にして、空のグラスの底をかりかりとつついている。
「……ブラッド君はそれで足りるの?」
「足りると思っているのか?」
「知ってた。今日本来のお菓子も持ってこようか。クッキーだけど」
「手抜きか」
「なんで!?」
思わず同じツッコミをしてしまう。
わざわざお菓子を持ってきているのに毎回手抜きと言われるのは納得がいかない。
ただし瑠璃としても、お菓子に困ると持ってきやすいクッキーという選択なので、どうにもそう言われても仕方が無い側面もある。
「……それよりせっかくだ、あの小僧に出したのと同じものを持って来い」
「えっ。……あんまり面白くないと思うけど……ロールパンはシンプルなパンだし」
「なんだ、毒でも入れてるのか?」
「入れてないけど!!?」
どうしてそうなった――と思いながら、瑠璃は立ち上がった。
これはもう、何を言っても仕方ないのだ。
クッキーより他のものが食べたいという意思表示であり、そしてカインに持っていったものを指定された時より何となくふんわりとした予感があったのだから。
瑠璃は扉から出ようとしたところで振り返る。
「……ねえ、もしかしてブラッド君さあ……、私とカイン君の会話聞いてた?」
ブラッドガルドは胡乱げに瑠璃を見返す。
「何の話だ?」
「そっか」
まあそこまではしてないか、と納得して、瑠璃は部屋を出た。
あとに残されたブラッドガルドはその後ろ姿を見送ってから、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
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