挿話9 荒野を継ぐ者
ガジャッ、という耳障りな鎧の音が響いた。
「はあっ……はあっ……! ぐうっ……」
王の居城にしては瓦礫の多い館は、激しい戦いの跡を今なお色濃く残していた。そして彼もそうだった。鎧はひび割れ、あちこちに傷がつき、唯一残った槍へとしがみつく。
土と埃と、血の臭いが鼻についた。方向感覚はとっくに失われ、もはや自分がどこを歩いているのか定かではない。
「っふ……う」
ようやくたどり着いた部屋へ雪崩れ込むように入ると、がらがらと音を立てて槍が転がった。自分の命を守る最後の砦すら、もはや手にしているだけで精一杯だった。
奇妙な部屋だった。
部屋自体は普通だった。何も入っていない本棚と、崩れた瓦礫。そしてその真ん中に、土埃にまみれた、大きなシールドのようなものがあったからだ。真っ白に塗られた長方形のもので、角は丸くなっている。表面は滑らかだが、四隅に鋼とおぼしき妙な細工がついていて、そこから伸びた鋼の持ち手が真ん中で集合しているが、持ちにくそうだ。
騎士団の者ではないし、今まで戦ってきたどんな魔物も、こんな防具を持っていた試しがない。
ともあれ、何に使うのかわからない以上触らないほうが賢明だった。
どさりと壁に背をつけて、足を投げ出して座り込む。
「うっ……!」
傷がずきりと痛んだ。
「……どうして」
今にも涙がこぼれそうだった。
「どうして……こんなことに……!」
ぎゅ、と片手に握ったままの薬瓶を見つめる。血と泥にまみれたそれは、支給品とは違うものだ。震える手で蓋を開ける。ゆらゆらと揺れる中の液体を見ていると、自分が情けない気持ちになってくる。
――お前はここで死ぬんだ、カイン。
その言葉の意味を、脳が理解するのを拒む。
これを飲むかどうかさえ、がくがくと震えた。
もはや極限状態の中で、探査団長たちは無事に上へたどり着いたのだろうかと小さく思った。
*
カイン・ル・ヴァルカニアの人生は波乱に満ちていた。
カインはバッセンブルグ領の小さな村にあるあばら屋で、高齢の祖母とともに隠れるように住んでいた。彼が自分は他の子供たちと違うと感じるようになるまで、そう時間はかからなかった。
父の顔は記憶すらないが、病弱な母は死の床でいかに父親が偉大であったかをとうとうと説いた。その頃のカインはまだ三つにもなっておらず、覚えているのは最後の言葉だけだ。
「……カイン。あなたは……ヴァルカニア家の最後の希望……いつかあの荒れ地を、あなたの手で取り戻すのです」
そして母の体は動かなくなった。
慟哭する祖母をよそに、カインはそこで人の死を覚えた。
祖母だと思っていた老婆が、実は母の乳母であり、自分の教育係であると知ったのはそれからすぐのことである。
老婆はカインに徹底的な教育を施した。
まずは彼女を名前で呼び捨てにするところから始まった。制約は日に日に厳しくなり、畑仕事から遠ざけられる代わりに、異様とも思えるほどの勉学と鍛錬を強いられた。眠る時間すら惜しいとばかりに分刻みの時間割が一日中続き、熱を出すこともたびたびあった。
それでも多少の熱では休むことすら許されず、時には泣き言を漏らした。
「どうしてこんなことしないといけないの」
だが、老婆は厳しい言葉を投げかけるだけだった。
「立ちなさい」
更にぐずぐずと泣き言を漏らすと、今度は瞬間的に平手が飛んできた。そして、たたらを踏んで尻餅をついたその胸ぐらを掴んで立たせると、こう言い聞かせたのだ。
「カイン様。あなたはヴァルカニア家の最後の希望なのです。あなたのお父様とお母様の、そしてヴァルカニア歴代の王の無念を晴らせるのは――もはやあなただけなのですよ」
カインが何より言い聞かせられていたのが、父と母の――そして見たこともない祖先の話だった。
「私は病床のお母上からあなたと、ヴァルカニアを託されたのです。あなたはヴァルカニア領を、自分の領地を、あの憎きブラッドガルドから取り戻さねばなりません」
旧ヴァルカニア領は現在、『荒れ地』と呼ばれている。
ブラッドガルドの迷宮に呑み込まれ、シバルバーから立ち上る魔力が地上の魔力とぶつかりあって、巨大な波を作っているのだ。
ゆえに、『荒れ地』だ。
『荒野』とも呼ばれるその場所は、かつてカインが継ぐはずだった国があった。
「我々とて、すぐに迷宮に屈したわけではありません。十年以上の歳月をかけ、戦い続けました。土地が次々に『荒野』と化し、国を放棄することになってもなおバッセンブルグに助力を乞い、自分達の国を取り戻そうとしました。ですが、忌々しいことに――あの迷宮で、第二王子ヤバル様が殺されたのです!」
「……迷宮の主に?」
「いいえ。そうであったならば、勇敢に立ち向かったのであれば、まだどれほどましであったでしょう。ヤバル様を殺したのは、他国の者なのです」
「そ、そんな。どうして?」
「我々の土地を横取りするためでしょう。少なくとも迷宮を手に入れれば、ブラッドガルドを倒せば、『荒野』と化した領主不在の地を、奪還という形で手に入れることができる。我々が助けを求めたバッセンブルグも多少はそうでしょうが、少なくとも暗殺に抗議してくれました。ですが……それが迷宮戦争の引き金にもなったのです。
グライフ公国やドゥーラ、当時からあの迷宮戦争に参加した国々はすべて、荒野と化したヴァルカニアを横取りするために戦争に参加していました。ブラッドガルドを倒すなどと息巻いて……。
今では、ヤバル様の死が迷宮戦争の幕開けとなったとまで言われる始末……」
当時を知る老婆は、そう言って嘆いた。
あとはもう、多くの人々が知ることだ。戦争と呪いの伝搬で疲弊した国々は、休戦協定を交わした。だがその協定者の中に、他ならぬ旧ヴァルカニアの王家は存在しない。
「ですから、我々は。カイン様はなんとしてでも、かつてのヴァルカニアを、その栄光を取り戻さねばならないのです!」
すべてはカインを王にするために。
カインが王になるために。
カインは見た事もない自分の土地を想った。
それは時に英雄の夢想として、しかし重苦しい現実としてのしかかった。
そんな生活が三年ほど続いた頃、老婆は血を吐いた。
「カイン様……、ここへ行くのです」
老婆は震える手でカインに手紙を渡した。
そこには、バッセンブルグの教会で司祭をしている者への手紙だった。
「どうか、どうかヴァルカニアを……」
あの荒野を、その手に。
老体に鞭打った生活は、老境すら過ぎた老婆にはこの生活は厳しいものだったのだ。カインは複雑な心境を抱えたまま、その死を看取った。
そしてカインはたった一枚の手紙を持ったまま、あばら屋を捨て、王都の教会へたどり着いた。女神聖教の司祭ヒエロニムに当てられた手紙によって、彼は教会直属の孤児院へと入れられることになった。
孤児院での生活は、これまた肩身の狭いものだった。
ヴァルカニア王の血を引き継いだ、ただでさえ珍しい白金色の髪を、他の子供たちは疎んだ。カインもまた今までの二人きりの生活から、同世代の子供達の中に急に放り込まれたことで戸惑うことが多かった。
畑仕事すらできないカインを他の子供たちは冷ややかな目で見た。
唯一優しかったのは、後から入ってきた赤毛のセスだけだった。セスは孤児というには明るく、気遣いができて、そのくせ悪戯好きで、誰にでも優しい兄貴分という感じだった。セスはあっという間に孤児たちのリーダーになって、それまで子供たちを見ていた最年長組とバトンタッチした。
「オレはセス。お前は?」
「……カイン」
「カインか。よろしくな!」
人好きのする笑みだった。カインはそんなセスを苦手だと思った。
セスは孤児院のシスターにはいつも怒られて追いかけられていたが、反面、何かのお祝いごとには裏で入念に準備をして驚かした。
問題児ではあるが将来を期待されているタイプで、どこへ行っても大丈夫なように見えた。きっと彼はカインとの人生に交わることはない。そう思った。
だがセスのほうは、他の子供達と遊ばないカインを気にかけていたようで、どんな事が好きなのか、放っておかれるほうが良いのか、うまく距離感を掴みながら縮めてきた。
カインも次第にセスになら心を開くようになり、内に秘めた目標を語り合うこともあった。
「お前は何かなりたいものとか、無いのか?」
「……騎士団に……入ろうとは思う」
「へえ。どうして?」
「……迷宮に、行かなくちゃいけないんだ」
セスは意外そうな顔をしたが、決して馬鹿にはしなかった。
「へえ、迷宮かあ! でも、迷宮なら冒険者のほうがいいんじゃないのか?」
「それは、そうだけど……」
冒険者になろう、という気にはなれなかった。もちろんその道もあったはずだ。しかしカインは少しでもまっとうな道を選ぼうとしたのだ。
王になるために。
教会や国に、正式に認められるために。
かつての領土を取り戻すために。
「なら、オレも騎士団に入る」
「えっ……、……セスが騎士団とか、無いよ」
「おい、なんじゃそりゃあ!」
笑いながらセスはカインの背をばしりと叩いた。
目を丸くしながらごほっと咽せたカインに笑いつつ、セスは続けた。
「セスは僕とちがって、なんでもできるし」
「だってお前、騎士団に入って、訓練とかついていけんのかよ。それならオレも行ってやるよ。二人で迷宮に行こうぜ」
「セスまでついてくることないよ! だってこれは……」
言いかけたところで、セスは再び笑った。
「お前の本当の秘密も、いつか教えてくれよ」
そう言って肩を叩いたのだ。
――ああ、セスは。
カインが隠し通していることまで理解したうえで、ついてこようというのだ。
――セスとだったら、迷宮にも行けるかもしれない。
きっと肩を並べ合える日がくる。
同じ聖騎士の鎧を着て、聖騎士の槍を持ち、迷宮の奥底でブラッドガルドを討つ日が。そしてきっとヴァルカニア領を取り戻したら、無二の友として領地を回るのだ。
そう信じかけたカインのもとにあの一報が飛び込んできたのは、十五歳になった頃だった。
「……勇者だって?」
勇者の存在には、さすがのセスも眉をひそめた。
ただ冒険者が勇者と呼ばれているだけであったのなら、問題はない。きっと冒険者の中でも優秀な者なのだろう、というくらいだ。
けれど、リクと名乗った勇者は違った。
女神の加護を受けているというのだ。
「本物だと思うか?」
「わからない。でも、もうすぐバッセンブルグ王の前で公開裁判をするって」
「なら、偽物じゃないのか」
「……そう、だとは思うけど」
しかし、事は大きくひっくり返ることになる。
王の前に詐欺師として引き出された少年のもとに、他ならぬ女神が降臨したというのだ。それは瞬く間にバッセンブルグ中を駆け巡った。そして、勇者のための騎士団が編成されるということも。
カインは真っ先に孤児院の主たるヒエロニムに直談判に向かった。
「ヒエロニム先生。私を騎士団に入れてください!」
だがヒエロニムは、渋い顔をするだけだった。
「……そうは言うが、カイン。きみは年齢が足りない。それに……」とヒエロニムは視線を外した。「それにきみは……かの国の血を継いだ者だ。ここできみを失うのは、我々にとっても損失なんだ」
「しかし」
「一応、上にも掛け合ってみるが……返事は期待しないでくれ」
カインは返事を待ってみたが、良い返事は無かった。
そして三度目の直談判のあと、編成されるはずだった勇者の騎士団が取りやめになったという話を聞かされた。
なんでも、勇者自らがそう願ったのだという。勇者リクはどういうわけか教会ではなく最初から冒険者の道を選んでいて、今はバッセンブルグの所属ということになっていた。どうしてそんなことになったのか不明だが、いずれにせよ糾弾しようとした教会が後から何か言える立場ではない。
しかも、勇者のパーティには既にオルギスという聖騎士がいた。ひとまず彼を教会との橋渡し役に任命することで納得したのだ。
ならばと孤児院を抜け出して冒険者ギルドへ行く算段をつけたが、直前になって荷物が発見されて騒ぎになった。
結果は孤児院の護衛が増えただけだった。
どこからか話がヒエロニムにまで届き、注意を受けたことまであった。
「誰かがチクッてんのかもしんねえな」
「それは、まあ、悪いことではあるけど……」
「教会がお前を匿ってくれるのはいい事ではあると思うけどな。……でも、どうなんだ? お前は、お前自身の手でブラッドガルドの野郎をぶっ倒したいんだろ」
「……うん……たぶん、そうしないと……いけないのだと思う」
セスも色々と動いてくれたが、結局何もかもが後手後手に回った。
そのなかでカインはうまく立ち回ることすらできず、ますます追い詰められていった。
そして『その日』は、思ったよりも早くやってきた。
「カイン!」
その一報を持ってきたのはセスだった。さすがのセスも驚きと興奮を隠しきることができなかったらしく、息を切らせていた。
「あの勇者がブラッドガルドを倒したらしいぞ!」
その事実に、人々は熱狂した。
カインはその熱狂を、教会の孤児院という檻の中から、指をくわえて見ていることしかできなかった。
その時に受けた衝撃は、並大抵のものではない。
騎士団に入るという選択肢をとった事そのものが、間違いだったのかと思われるほどだった。
「僕の年齢では騎士団に入れず……、勇者にも同行できず……か。それじゃあ、意味がない。意味がないじゃないか……!」
カインは呻き、拳で土を叩いた。ここでもカインは幼すぎたのだ。
たった一歳。たった一年足りないというだけで、カインは騎士団に入れなかった。同行することもできず、勇者を遠くから見ることしかできなかった。
たとえ、事実はもっと単純だとしてもだ。
少なくとも、教会はカインをきちんとヴァルカニア領の正当な跡継ぎとして認識していた。保護という意味でも、利用という意味でも。いずれにせよ荒野を立て直す主として、これ以上の適任はいない。
勇者という絶対的な存在が現れた今、利用価値としては二番目の保険でしかなくともだ。教会で保護している以上、多少は教会の融通も利くだろうという判断だった。
だからこそ上層部も危険な任務となる騎士団に入れるより、司祭ヒエロニムの庇護のもとにある孤児院で匿うことを選んだのだ。
「セス。セス……! 僕は間違っていたのか?」
しかしカインがそれを知る由もなかった。
自らブラッドガルドに挑めなかったことに動揺していた。
何より、勇者は圧倒的な力を誇っていた。
女神に認められた存在というだけでも。
女神自身が選んだ者。
勇者の存在は、王家の血を引くカインよりも、大地を引き継ぐに足ると女神が認識したのだ。
「落ち着け、カイン! まだチャンスはあるだろ。迷宮に行くチャンスは――」
「だってもう、ブラッドガルドは倒されたっていうのに!?」
セスにもそれ以上何も言うことはできず、無為に時間だけが過ぎていった。
だがそれから半年ほどした頃のことだ。
カインは年齢が上がり、セスとともに騎士団候補生として取り立てられた。
何しろ旧ヴァルカニア領は一応はバッセンブルグのものとなったが、勇者は女神の加護を持っている。教会としてはカインの意向を汲んだ形で、少しずつ段階を踏んでヴァルカニアを彼に任せるために動こうとした矢先のことだった。
だがどういうわけか、二人は、秘密裏に結成された迷宮探査団へ編入させられた。
他ならぬオルギスが指揮する十名程度の小さな探査団ということだった。それは表向きは迷宮解放のための調査で、カインは心中複雑であったが、その探査団の真の理由を聞かされると少なからず驚喜した。
「ブラッドガルドが力を取り戻してきている。我々の任務はその封印の確認と、奴に手を貸した者――『宵闇の魔女』と呼ぶ者の調査だ」
小さなざわつきと驚きをよそに、カインは目を輝かせた。
――もしここでセスとブラッドガルドを倒すことができれば……土地を奪い返すことができる……!
不謹慎ながらも喜んだ自分を嫌悪しながら、決意を固めた。
かくしてボタンはかけ違ったまま、かつての少年は迷宮を目指した。
それがどんな結末を迎えるか、誰も知らぬまま。
*
「……う……」
カインが緩い夢から目覚めると、冷たい床の感触がした。なんとか体を起こすと、近くに空になった薬瓶が転がっているのに気が付いた。
気分は最悪だった。
もうどうしようもないほどに。
だが小さな音が聞こえてくるのに気が付くと、思わず振り向いた。
誰かが裸足で石造りの階段を登ってくる音だった。ぎょっとしてあたりに手をやり、転がった槍を手にする。
足音は他ならぬこの部屋に続いている。
「……」
ごくりと喉が鳴った。
足音が部屋の前で止まると、勢いよく扉が開いた。
無意識のうちの恐怖が呼び起こされ、出血のせいだけではなく芯から心が冷えていく。うまく口が動かない。
暗闇から赤い色が現れ、ぼろぼろの衣服の下から覗く足が、部屋の中へと踏み込んだ。恐怖に歯がかちかちと鳴り、ただ相手の名を呼ぶのが精一杯だった。
「……ブラッドガルド……」
槍を支えに震えるカインを、ブラッドガルドは見下ろした。
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