27話 ザッハトルテを食べよう
「……どうした」
「えっ」
ブラッドガルドの纏う空気が一瞬にして剣呑になったのは、きっと瑠璃でなくても肌で理解しただろう。
「……何が目的だ?」
「えっ?」
それは次第に強くなり、緊張感が張り詰める。魔力を動かしているわけでもないのに結界の防衛機能が動き始め、パチパチと小さな音を立て始めた。魔力を感じない瑠璃にも音だけは聞こえた。
「貴様は一体何を企んでいる……?」
「なんでチョコレートケーキを持ってきただけでこれほど疑われなくちゃならないんだ」
瑠璃は真顔で言い切った。
*
「それでまあ、ザッハトルテなんだけど」
「……うむ」
箱を貫通しそうなほどの、睨むような視線が注がれている。
食いつきが凄い。
「チョコレートケーキっていうのは最初に言ったけど、チョコレートケーキの王様とも言われてるんだよ~」
「……チョコレートケーキの?」
「うん」
「……王……」
「うん……」
ブラッドガルドは眉間に皺を寄せながら片手で顔を覆うようにした。それから長いため息をつき、視線を下に落とす。
「ますます貴様が何を企んでいるのかわからんな……」
「単純にチョコレートケーキを持ってきただけって考えられないの?」
「貴様が何かを企んでいるという事しかわからん」
「すごい重傷だ」
瑠璃は紙皿ではなく陶器の皿にザッハトルテを一切れ載せた。
「今日は紙ではないのだな」
「さすがにケーキ載せるのに紙皿は味気ないかなって」
そして横にフォークをつけると、テーブルの上を滑らせてブラッドガルドの前に差し出した。視線が瑠璃からザッハトルテに向けられる。
「お小遣いが出たからちょっと奮発した甲斐があったよ」
「……本当にそれだけかどうかは疑わしいが」
「いつまで疑ってんの!? それより、ほら。陶器のお皿だと高級感が出ない!?」
暗くて寂しくてテーブルしかない場所なのに、どういうわけかそれらしい高級料理店の隠れ家のような気がしてくる。してくるだけだが。
「わーすごい……いただきます」
思わず祈りながら言ってしまう。
フォークを手にして、三角の先をそっと切り取る。深い色をしたスポンジケーキは、ほんの少しの堅さをもって指先に手応えを与えてくる。
切り取ったケーキの一部をフォークで突き刺し、口の中へと迎え入れる。
深くチョコレートの染みこんだ甘いスポンジ。スポンジの合間の、ビターチョコの少し苦い味。ベリージャムのほんのりした酸味がほのかに爽やかな味わいを付け足していた。
「んーっ! 美味しい!」
上にちょんとのせられた生クリームを少しだけ舐めると、チョコレートの甘い味と、苦い味とを同時に緩和してくれる。
「どう!?」
瑠璃は真っ先にブラッドガルドを見た。
感想を求めた先のブラッドガルドはといえば、おそらく一口目を口に入れたまままったく動かなかった。
――固まってる!?
固まっていた。
「元祖ザッハトルテはもっと甘いらしいけど、ブラッド君はどのあたりが好き?」
「……食ってみないとわからん」
「まあそうだよね。うーん……元祖はウィーンにしか無いらしいからなあ……」
「ウィーン?」
「ザッハトルテはね、ウィーンのフランツ・ザッハって人が作ったんだよ」
瑠璃は「聞く?」という意味をこめてスマホを手にした。
ブラッドガルドはケーキをフォークで切り分けながら、目線だけを瑠璃に向けた。同意の合図だった。
「ザッハトルテの意味は、ザッハのお菓子。ザッハはフランツさんの名前で、トルテがお菓子って意味だからね。トルテも日本だと色々と意味が混同しちゃうけど、今はお菓子ってことで」
「ふむ」
「どうしてザッハトルテが出来たか、って理由は二つあってね。このどちらかが色んなところで紹介されてるみたい」
片手でスマホをスクロールしながら、もう片手でケーキを口に入れる。甘い味がじわりと広がった。
「ウィーン会議が開催された1814年から1815年。会議の主催者と議長を務めた宰相メッテルニヒが、会議の為のお菓子を作るようにフランツ・ザッハに命じて作られたのがひとつ。
もう一つは1832年、メッテルニヒが特別な客をもてなすように料理長に命じたのだけど、料理長が病に伏せっていたから、当時見習いをしていた16歳のフランツ・ザッハが作ったのがもう一つ」
「その分でいくと、フランツ・ザッハという人間が作ったのは確実なようだな」
「うん……そうなんだけどね」
瑠璃の目が微妙に苦笑していることに気付いて、ブラッドガルドは続きを促した。
「このフランツ・ザッハって人、誕生日がわかってて。1816年12月19日に産まれたって書かれてるんだよ」
「1816年……? それなら後者のほうが正しいだろう?」
「まあ……そうだね。フランツ・ザッハの息子のエデュアルト・ザッハが書いた手紙にも、1832年にメッテルニヒから称賛されたって書いてあるんだけど……」
「だけど、なんだ」
瑠璃はスマホの文章に一度目を走らせてから続けた。
「フランツ・ザッハ自身の後年のインタビューの中で、確かに自分がザッハトルテを創作したって言ってるんだよ。けど、それは1840年代後半くらいのことなんだって。
この人は1830年頃、実際にメッテルニヒ公のところで厨房で見習い修行をしてたらしいんだ。だけどそれは二年間だけで、その後は別の伯爵の厨房に移って腕を振るったり、カジノのレストランの厨房に入ったりした。その頃に出張料理サービスに精を出して、そのあたりで日持ちのするトルテも作った――たぶんこのくらいの時期にザッハトルテも作られたんじゃないかって推測されてるよ」
「……なんだ、どういうことだ? そのエデュアルトが一枚噛んでるのか?」
「変なところで鋭いなあ……」
理由がチョコレートだからなのか、元からこうだったのか微妙に判断がつかない。
「ここの推測だと……」
画面をスクロールしながら続ける。
「まず、このエデュアルトさんは、ホテル・ザッハを建てた経営者の立場でね。ホテル・ザッハの名をあげる何かが欲しかったんじゃないかって」
「……つまり、創作したと?」
「その通り。当時はこういう――、雑誌とかスマホとか無いから、民衆にどれだけアピールできるかにかかってる」
彼の父親、つまりフランツ・ザッハが仕えたメッテルニヒはウィーン会議でも中心的な人物で、ナポレオン没落後のヨーロッパの立て直しを図り、オーストリアの地位を高めた英雄。最終的に政策に失敗して亡命はしたものの、彼の時代は良かった。
そんな人物にいっときでも仕えていたなら、もしかすると彼が作り、彼が得意としたザッハトルテを作る機会もあったのかもしれない。
「……そういうことで、ザッハトルテはホテル・ザッハを代表するお菓子になって、ホテル・ザッハは一気に有名になったと。一応、そういう推測がされてるみたい」
「創作がわかっているとは珍しいな」
「推測ではあるけどね。1800年代って、今と200年くらいしか変わらないからねえ。記録や記事っていう概念も出てくるし」
だからこそ、創作された可能性のある由来と、それをとりまく事情が推測できるのかもしれなかった。
「――それと、このザッハトルテってもう一つ面白いエピソードが載っててね」
「ほう」
「このエデュアルトさん、お父さんよりも早く死んでしまって。奥さんにホテルの経営権が移るんだけど」
瑠璃は紅茶を一口飲んだあと、スマホを再びスクロールさせた。
「この奥さんが結構なやり手で上昇志向も強くて。セレブ以外の一般人にはホテルの使用を拒否するところまで行ったんだけど、不況や世界恐慌の荒波で、経済がガタガタになってもそれを貫いた。結果、ホテルを売り渡さないといけなくなったんだよ」
「ほう! それでその女はどうなったんだ?」
「どうもこうもならないよ。借金で頭が回らなくなる前に死んでしまって、経営権は同じ名前を持つ子供のエデュアルト二世に引き継がれてたからね。
このときに、ホテルの経営権を売り渡したんだけど――エデュアルト二世さんとしては、経営権は売ったけどザッハトルテのレシピは売ってない、っていう認識だった。だから、レシピそのものは、ウィーンの高級菓子店のデメルってところに売り払った」
ああ、とブラッドガルドから声が漏れた。
どうやらこの後起こる出来事に気が付いたらしい。瑠璃も頷いた。
「当然、法廷で闘争が起きるよね。どっちがオリジナルなのか。しかもエデュアルト二世はデメルのところのオーナーの娘と結婚したらしくて」
「なんとも面白い話ではないか」
「傍から見てる分にはね! まあでも、ホテルの経営権を買った人に弁護士がいてね。それで結果は、ホテル・ザッハ側に軍配が上がった。ただ、デメル側も「エデュアルト・ザッハトルテ」として売ることを許された。つまり、オリジナルを主張しなければいいよってこと。『七年戦争』はこうして――終わらなかった」
「それ以上何をやるというんだ」
「今度はお菓子そのもののオリジナリティを主張して、結局トータルで五十年くらいかかったって」
そして今度もホテル・ザッハはオリジナルを勝ち取った……ということになるのだが、どうも裁判を持ち込まれるほうもいい加減疲れたらしく、デメル側も「オリジナル」をつけなければ販売してもいいということになった。
つまり、状況としては裁判前とまったく変わらないことになった。
「結局何が違うんだ?」
「ザッハはアンズジャムを内側にも挟むのに対して、デメルのザッハトルテは表面にだけ塗る」
「……」
ブラッドガルドは小馬鹿にしたように鼻で笑った。
おもむろにざくりとザッハトルテの残りをフォークで突き刺すと、そのまま口の中へと放り込んだのだった。
紅茶を飲んで少し落ち着いてから、ブラッドガルドは瑠璃が見せたザッハトルテの画像一覧を見ながら言った。
「しかしまあ――こんなものを持ってくるとはな」
「なんだよー。きみだって嬉しいでしょ」
美味しい、の一言が引き出せなかったのが心残りだ。
というか絶対に言いたくないという気概だけは感じた。そういうところだと瑠璃は思う。
「別にそういう事では無い」
そうは言うが、ブラッドガルドの手が伸び、瑠璃の頭を掴むようにくしゃりと置かれる。瑠璃が何か言う前に、ブラッドガルドの口が開いた。
「……ああ、そうだ。小娘。チョコレートの対価として、ひとつ教えておこう」
「何でチョコだけ自ら別料金にしたの……? 怖いんだけど」
「聞きたくない、というのなら良い」
「聞く聞く」
何、と続きを促す瑠璃に、ブラッドガルドは目線だけ、本来は鏡である「扉」へと目をやった。
「もしそこの鏡を開けた時に――、ここに繋がっていなかったら、という話だ」
「えっ? 何それ?」
「そういう事が起きる可能性もある、ということだ」
「嘘でしょマジで?」
「マジだ」
真顔で言われてしまった。
「……それは、何か……きみが……」
「そうなったらそうなったで貴様は好きにすると良い。我も好きにする」
「……」
瑠璃は当惑の色を浮かべながら目線を動かした。
ブラッドガルドはそんな瑠璃を見つめていたが、さすがにその内面まではわからなかった。その感情はときどき、妙にわかりにくい。こちら側がわざと閉め出されているようだ。
「てか今の話、今日のがチョコレートじゃなかったら言ってくれなかったってこと? それともチョコレートにかこつけて言った?」
「さあ。好きにとるがいい」
ブラッドガルドは瑠璃の頭に置いた手を乱雑に動かした。
「んあっ」
瑠璃が悲鳴をあげつつ、髪と腕の隙間からブラッドガルドを見る。
それでも、微かに見えたその顔は満足げに笑っていた。
*
それから、少し後のことである。
いつものように、瑠璃は扉を勢いよく開けて、安く仕入れたばかりのチョコレートケーキとともに飛び込もうとした。
チョコレートケーキの切れ端ばかりを詰め込んでパック売りしているという、シンプルかつ安上がりのものだ。だが物は当然良いものだし、瑠璃は嬉々として持ってきたのだ。
「ブラッド君!」
開けて入ろうとした瞬間に、ごっ、という衝撃が瑠璃の額にぶち当たった。
ぶぎゅ、というような悲鳴と一緒に瑠璃はたたらを踏み、目をぐるぐると回しながら鏡からふらふら離れた。
「え、え? ……え?」
上がっていたテンションが落ち着いていき、瑠璃は額から手を離す。上から下まで見て、また上に視線をあげても、そこにあるものは同じだった。
「……えっ?」
目の前にあったのは、鏡でも空間でもなく、石の壁だったのだ。
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