26話 プレッツェルを食べよう
「貴様の世界はパンの形も色々と違うのだな」
その日、ブラッドガルドが見ていたのは、地域専門雑誌のパン特集だった。基本的にクリスマスやプールなどのイベントが無い時の特集によく使われるが、見ていると楽しい。新しいパン屋の情報もあるし、まるっきり暇な時の特集というわけでもない。
「この面妖な形のパンが大きく載っているが。何か理由が?」
「面妖なっていうか、これイルカの形したパンだよ」
「イルカ? あの海のか。何か理由が?」
「えっ……」
さすがに困り果てる瑠璃。
「夏っぽくて……かわいい……から……?」
「……」
沈黙が重かった。
『話題作りのため』というあまり面白い理由ではないと悟ったのか、話を元に戻すブラッドガルド。
「基本的に我は丸い形しか見たことがない。もしかすると他の形もあるのかもしれんが、少なくとも冒険者どもや、迷い込んだ奴らが持っているのはそうだな」
「一般に出回ってるのが丸とか楕円ってこと?」
「そうだ。だからメロンパンはともかく、クロワッサンの形はパンとしては珍しいと」
「ああそっか、そういえば最初はクロワッサンだっけ」
パンとしては、の話だが。瑠璃は隣に移動すると、正しい方向から雑誌を眺める。
「なんか気になるのある? 味じゃなくて形で」
「形で? ……純粋に形で、というなら……これか」
ブラッドガルドは一枚ページをめくると、あちこちに載せられている写真のうちの一つを指さした。それはパンといより、ヒモを組み合わせたような形といった方がいいようなものだった。
「……プレッツェル?」
そういうわけで、後日のお菓子がプレッツェルに決まったのである。
*
「こういうのってお店によっても味や食感が違うからなあ」
瑠璃はテーブルにパンの袋を置いた。
プレッツェルはほとんどスーパーで見ることはなかった。少なくとも瑠璃の行動範囲内にあるスーパーでは仕入れていなかったし、そうそう見るものでもない。結局ドイツ系をウリにしているパン屋まで足を伸ばしたのだ。
美味しいのかどうかはわからなかったが、ひとまず購入して持っていくことにした。
それと――万が一の場合を考えて、別のものも。
「やはり実物を見ても奇妙な形だな」
これは何の形だろうと瑠璃は常々思っていたが、共通認識としてはひらがなの「め」のような形、というものらしい。スマホでドイツ系のパン屋で検索をかけているさなか、写真の無いサイトではその表現がほとんど使われていた。
「本場だと岩塩を落としてから食べるんだって。塩分を調節して好きなようにって」
「それはそれで贅沢だな」
「塩、大事だもんね」
少なくとも向こうの世界で塩は砂糖に次いで重要なものではないかと思う。
瑠璃は塩を落としつつ、目の前の「め」をどう食べようかとちょっと考えてから、そのままかじってみた。
ざくりと外側の皮のようなところが砕けると、中は意外にも柔らかかった。
「あ、これ中が思ったより柔らかい」
外側は焼いたようなサクサクとした食感だが、中のほうはもちもちとしていた。
ほんのりとした塩味が残っていて、お菓子というよりは食事のパンに近い感じだ。少し勿体ない気がしたので、下に落とした岩塩を指で押しつけて指で舐める。普通の塩に比べればちょっと大きめの粒は、舌の上で溶けながら塩の味を残していく。
「もうちょっと堅いかと思った」
「見た目はな」
「私の知ってるやつはもうちょっと堅かったし」
「……それは、別の店という意味でか?」
「ううん。別の店ってより……別の小さい種類?」
プレッツェルの「め」型は、大きく分けて二種類が存在している。
ひとつは今食べている、パンとしてのプレッツェル。外はともかく、中が柔らかいタイプ。
もうひとつは、小型で堅いスナックタイプだ。
「うん。こっちもドイツ発祥なんだけど、今はアメリカで定番のお菓子になっててね。スナック菓子タイプって言えばいいかな。固く焼き上げてあって、保存性もあるやつね。基本的にお酒のおつまみに使うのは一緒。好みにあわせてって感じかな」
スマホで画像を探して見せておく。
「スナックタイプのほうは塩味だけじゃなくて、色んなフレーバーがあるみたいだね。キャラメルやチョコをまぶして甘い味にしてあるのもあるよ」
「……それは」
「あんまり見ないなあ。もし発見したら買っておくけど」
ブラッドガルドがそのまま何も言わなくなったので、おそらく納得してくれたのだろう。
瑠璃が実際買ってくることがあるので、一応は信用されているのだろうと思う。下手に睨まれなくなっただけ良いが、まだたまに物言いたげな目で見てくる。せめてもう少し違う場面でその眼力を使ってほしい。
「ところで、この形には何か意味はあるのか」
「あ、うん」
来るとは思っていたが、当然のように来た質問だ。
「まず、プレッツェルは象形パンのひとつみたいだね」
「象形?」
「うん。なんらかの形を象ったって意味ね。パンってイルカの形もそうだけど、結構色んな形ができるでしょ。だから普段は丸いパンを作って、特別な時にはそれ用の形を作る。作る意味は三つあるよ。
ひとつは本物の代わりになること。たとえば、お祭りの際に生贄にしていた牛やブタの代わりにするとか。
もうひとつは、祈願の内容を明確にすること。作物を守ってくれる蛇の形にして、豊穣を祈るとか」
「最後のひとつは」
「記念の象徴を作るものだよ。クリスマスならもみの木の形とか」
「では、プレッツェルは何の象形なんだ」
ブラッドガルドの問いに、瑠璃は一瞬たじろいだ。
その反応はブラッドガルドも予想外だったらしく、一瞬だけ眉をあげた。
「……死者の埋葬」
だが、およそ瑠璃の口から出なさそうな単語に、ブラッドガルドは愉快そうに目を細めた。
「元々は埋葬品の腕輪や副葬品に似せたものを、参会者に配るようになったみたい」
「ああ、そういう代わりか」
「プレッツェル……ドイツ語の元々の読みで『ブレッツェル』は、ラテン語で『腕』、あとは腕輪を意味するブレスレットと語源が同じみたいだからね」
瑠璃はスマホをスクロールし、次の項目を読んだ。
「この『ブレッツェル』は中世に入ると、修道院とかで作られるようになったんだよ。っていうのも、修道院だと断食の期間があって。断食中は食べていいもの、食べちゃいけないものが決まっていたんだけど、小麦粉と塩と水だけでできるブレッツェルは断食日の食事用になってたんじゃないかって話があるね」
瑠璃は言いながら一旦スマホを置くと、両手の指を重ね合わせた。
祈りの姿だ。
「それを信仰に駆られた修道士が、こういう祈りを捧げる『組んだ腕』に見立てたんじゃないかって」
「……なるほど。本来は別の意味を持っていたものが、解釈によって次第に別のものに仕立て上げられたと。腕、という共通点はあるようだが」
「それが貧困層なんかに提供されるようになって、一般に広まったみたい」
瑠璃は指を解き、再びスマホを手に取った。
「こっちの世界でギルドができた頃には、ドイツではパン屋の看板に使われるようになって、パン屋の紋章になった。今もパン屋のシンボルマークみたいだよ」
「……死者の腕輪が最後にはパン屋の象徴とは」
確かに死者の腕輪が祈りの姿になり、最終的にシンボルマークになるとは誰も予想していなかったに違いない。
スマホをスクロールすると、瑠璃の目にあることが留まった。
「……それだけじゃないみたいだけどね」
「何だ」
言ってみろ、とばかりに続きを促すブラッドガルド。
「死者の腕輪は、次第に冬を追い出す象徴にもなったんだよ」
「おい、死者と冬の関係がまったくわからんぞ」
「基本的に古代のヨーロッパって、夏と冬っていう観念なんだよ。寒いか暑いか。寒い時は作物が育たない、枯れた時期。つまり死の象徴。夏は作物が育つ時期」
ブラッドガルドはしばらく眉間に皺を寄せ、その『解釈』を呑み込むように咀嚼していた。
「暖かくなってくると、冬を追い出して夏を迎える。それが冬送り。この時期がキリスト教の時節と重なって、更に断食に食べていたブレッツェルが絡む。冬が死んで春が蘇る事、その象徴がブレッツェルに重なっていった……って、感じだと、思う!」
現在でもルクセンブルクでは、四旬節の第三日曜日、復活祭の三週間前に『プレッツェルの日曜日』なる行事が残っているらしい。
「……」
ブラッドガルドの表情からは、それをどう思っているのかわからなかった。
しかし、それが不快であるにしろそうでないにしろ、何かしらの興味は持ったであろうことは推測できた。
彼は時折、瑠璃でさえ意外なほどに知的好奇心を持っていて、真綿が水を吸うようにそれを呑み込んでいく。
「それと、この腕型以外にもブレッツェルって呼ばれるパンは結構あって、その中に棒型のものがあるのね」
瑠璃が隣に置いていた鞄の中をあさる。
その音でようやくブラッドガルドは現実に戻り、視線を動かした。
「その棒型ブレッツェルをヒントにして、江崎グリコって会社が『プリッツ』ってお菓子を作ったんだけど……これ!」
瑠璃はプリッツの箱を取り出した。
「こっちの方が『お菓子!』って感じなんだよね!」
瑠璃はいそいそと箱を開ける。
中から袋を一つ取り出すと、それを開けた。袋を開ききり、どこからでも手に取れるようにする。細くて堅いスティックタイプの菓子があらわになった。
「これも最初はおつまみ用だったのが、だんだん子供の舌にあうように改良されてったやつでね。今でも味とか包装とかがいろいろバージョンアップして売られてるよ。私にとってはこっちのほうが身近かも」
一本取って口の中に入れると、ポキリと折れる。そこからのザクザクした感触は、本来のパンとしてのプレッツェルとは異なるタイプだ。
「……ふむ。このタイプの菓子ははじめてだった気がするな」
「でしょ!? んで、こういうスナックタイプの時は……」
「酒か?」
「酒じゃないよ!? 買えないし! ソーダとかの炭酸飲料!」
言いながら、瑠璃は立ち上がった。
別に酒でもいいが、瑠璃は普通に未成年である。
「持ってくる!」
言うが早いか、鏡の中を通って
その背を見送りながら、ブラッドガルドはもう一本を手にした。
「……なるほど」
堅めの菓子もあったのだな――、と、どうでもいいことを思った。ポキリという小さな音が、薄暗い牢獄に響いた。
甘くはないが、久々の食感に一本、また一本と手を伸ばす魔力を湛えているとなんとなしに思ったのは事実だ。ただそれは魔力のせいにして、自分のせいではないということにしておいたが。
そして瑠璃が何がしかの飲み物を持ってくるのを待ち続けたのだった。
その後、一気に飲むなという瑠璃の制止が間に合わず、真顔で顔を顰めたのはさておく。
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