2話 クッキーを食べよう
ダンジョン――それは世界各地に存在する魔物の巣窟である。
自然洞窟から人工物たる廃墟までこれといった区別はなく、危険地帯の総称だ。
特に人間と敵対関係にある人外の生物、すなわち魔物が住み着いた場所のことを指す。
その中でもっとも恐れられているのが、世界に七つ存在する迷宮と呼ばれる巨大な伏魔殿だ。
主を持ち、主を中心に無限に腕を伸ばし続ける迷いの宮殿は、人々にとって恐怖の対象であった。放っておけばあふれだした魔物によって塵芥の如く追い払われてしまうだろう。人々の生活は、魔物の脅威と常に隣り合わせだった。
ゆえに人々は――時に勇者と呼ばれる冒険者に希望を託し、時に封印魔術に星を見た。
この迷宮もそのひとつ。
ブラッドガルド。
そう呼ばれ、そう名乗る迷宮の主。
最奥に玉座を構え、数多の冒険者を蹂躙した王は、宿敵ともいえる勇者によって敗北を喫した。帰還した冒険者の後日談を見ることも叶わず、封印魔術によってついに永久の牢獄に閉じ込められたのだった。
光無き牢の中で、魔力を奪われ、絶え間ない飢えと渇きと、底知れぬ屈辱とが精神を蝕み、やがて風前の灯となった炎は静かに潰えることだろう――。
*
「まるで携帯食料のようだな」
紙袋から出した円形のプレーンクッキーをつまんで、ブラッドガルドはそう言った。
萎びた髪の間から表情を見ずとも、落胆の色は言葉に含まれていた。特にこれといった感動は見受けられない。自分が味を知っているものを想像しているからだろう。
だが、それでもクッキーを放りだすことはしなかった。
そのまま口に運び、きつね色に焼かれた表面に牙が突き立つ。
ぱきんと折られた欠片を無心で食む。唇の向こうからさくりさくりと音がし、味を確かめるようにかみ砕いている。
やがて二口目、三口目と口にする。
バターと卵の芳香がふわりと流れ、ミルクのシンプルな味わいが広がる。
やがて一枚目が無くなった頃、その骨ばった手が再び紙袋へと伸ばされた。おもむろに二枚目を手にとる。
……三枚目。
四枚目に手をかけたところで。
「ちょっと」
しばらく様子を見ていた瑠璃はようやくツッコミを入れた。
真顔で。
「携帯食料とか言いながら無言で食べないでよ~~」
自分の膝の上にもクッキーの入った紙袋があるものの、それはまだ開封していない。
「貴様が何も言わぬだけだ」
「なんで私のせいなの?」
理不尽の一言に尽きる。
「大体、そちらもクッキーとやらなのだろう。勝手に食えば良いではないか」
「あー、これ? 同じクッキーだけど、違うやつだよ。こっちはチョコチップの入った……」
答えきる前に、不意に闇が深まった。
ただでさえ薄暗い壁際に、晦冥が訪れる。その向こうから、見開かれた片方の赤黒い瞳だけが怪しく光った。
かすれた、地獄の底から響くような声が届く。
「……この無能な人間風情が……」
「なんで私いま罵倒されてるの!? ねえなんで!?」
理不尽にもほどがあった。
「我が貴様の首を掻っ切らぬうちにさっさと差し出すが賢明だ、小娘……」
「言いたいことはわかるけどチョコチップクッキー食べたいだけでしょ」
返事はなかった。
真顔で袋を開けて中からチョコチップクッキーを取りだす。
さっきブラッドガルドが食べていたクッキーよりも少し薄いが、代わりに生地の中にチョコチップが埋め込まれている。
「ところで、この国? の携帯食料もこんな感じなの?」
渡しながら、気になって尋ねる。
瑠璃のいる現代でも、アウトドアにクッキー類を持ち込むのは割とあることだ。
「感覚はな。しかし形はもっと単純なものだ。小さな煉瓦のよう……と言えばわかるか?」
「だいじょーぶ、わかるわかる」
乾パンとかショートブレッドみたいなのかな、と推測する。
日本にも、ブロックタイプの栄養食品がある。出たときは随分と画期的だったらしい。もとは忙しい人の朝食用だったようだが、手軽に栄養がとれるという点ではアウトドアにももちろん最適だ。
小麦粉も存在しているようだし、そうなればパン食が主体になっているはず。
であれば、こうしたパンタイプの固形食が作られるのは自然だろう。
「特に冒険者が持ち込む携帯食料は、干し肉や固形スープもあるが、大半がそういったブレッドと呼ばれるものだ。あくまで人間どもの携帯食料の話だが、それにしたって……」
そう言うと、チョコレートの入ったクッキーをかじる。
このお店は、確か日本の会社だったはずだ。だけどコンセプトはアメリカンテイストのクッキーだから、むしろチョコチップクッキーのほうがメインだ。
砂糖たっぷりのチョコチップが、クッキーに甘味を加えている。
その甘さを噛みしめるように、目を閉じた。
「これほど甘くはない」
「……そう……」
甘いものを食べているときだけ表情も言葉も和らぐのは、なんとも言い難い。
これ、ブラッドガルド本人は気付いてるんだろうか――とちょっと思う。
何度かクッキーをかじり、一枚目を食べ終えると、流れるように手を差し出してくる。
いまだプレーンクッキーの入った袋を抱えているにも関わらず、だ。
瑠璃はそっとチョコチップクッキーの入った袋を差し出した。
「……なんかもういいよ……食べなよ……」
「ふん? 賢明だな、小娘。我が復活した暁には特別な地位をやろう」
「それ最初に会った時もいわれたけど要らないよべつに」
「……? ならば貴様は何が望みなのだ。一体何を企んでいる?」
「ええ……」
そんなこと言われても困る。
「それより、こういうお菓子だったらこっちの国にもあるんじゃないかなーって思ったんだけど。ないの?」
「なに?」
スマホを取りだして確認する。
クッキーをもっていこうと思ったときに、由来をちょっと調べたのだ。
絶対聞かれると思ったし。
「こっちも小麦粉が主食で、砂糖が広まってるんだよね?」
「人間どもの間でだがな」
「クッキーってね、私のところの国だと――私の国っていうか、パンが主食の外国で、なんだけど。いまよりオーブンの性能がまだ悪かったころに、火加減を見るのに使ったんだって」
「使った?」
「そう」
うなずいて、スマホをもう一度確認する。
クッキーの名前の由来は、オランダ語でケーキや焼き菓子を意味する、「クーク」と書かれている。
「ケーキを作るまえに少しだけ生地を入れて、焼き加減を見てたのがはじまりなんだって。ケーキって意味の、クークって言葉がもとになって、クッキー」
「ケーキか。それは聞いたことがある」
「おお!?」
こちらにも菓子は存在したらしい。
「貴様のところと似たようなものだ。主に王族や貴族の間で作られているもののようだがな。パン屋などで多少は作られているかもしれんが、高価には違いないだろう」
「まあ、そりゃそうだよね」
「火加減云々は知らん。ただそういう目的で作られたものが存在していても、いまだ菓子として一般に出回っていないとも考えられる。そもそも迷宮に来るような冒険者どもはほとんど所持していない」
「あー……それもそうかぁ」
じゃあ、ケーキの類はあんまり驚かれないかなあ。
瑠璃はぼんやりと思う。
とはいえ砂糖が浸透しているのは王侯貴族の間だけと考えると、ちょっと変わったケーキなんかはびっくりされるかも。
……高そうだけど。
そのへんは瑠璃の財布と相談せねばなるまい。
財布の中身と、目の前の人物の驚きとが天秤にかけられる。
「しかし、もとは確認のためのものが文化のひとつになったわけか」
「そうそう! だから今は色んなクッキーがあるよ! 気になったら色んなタイプ持ってくるけど」
ぱっと思いつく。
クッキー屋さんはひとつだけじゃないし、普通のお菓子会社だって色んなクッキーを出してる。
瑠璃の買ってきたこのクッキー屋さんも、今日は二種類だけを選んだが、もっといろんな種類がある。年間通しておいてあるものもあるし、季節商品もある。イベントを含めればそれ以上だ。それなら日々お菓子をああだこうだ考えるよりも楽だろう。
ブラッドガルドはじっと紙袋を見下ろしていた。
紙袋は昔ながらの茶色いもので、クッキーの作成者という設定の女性が描かれている。
「なるほど……見るに、この紙袋の女が作ったわけか……こいつを連れてこればこちらの世界でもクッキーが食える……」
「それはそこのお店のイメージキャラクターだから存在しないよ」
つい真顔で言ってしまう。
「……? では誰を連れてこれば良いのだ」
「作り方さえわかれば多分こっちでも普通に作れるから! やめてね!?」
とりあえずここで食い止めておかないといろいろとまずい。
たぶん。
「それにしても、きみさあ……。人間のこともちゃんと研究してたんだね」
迷宮に入る冒険者のことだって、どんな持ち物があるか認識していないと答えられないだろう。加えて、王侯貴族のことまで多少知識があるのだ。
冒険者のこともいつか聞いてみたい。
まるでゲームか小説の世界のようだし、いまはまるで現実感がないけれど。
はっきりいって瑠璃が見ているのはブラッドガルドと彼が閉じ込められている部屋だけだ。地上がはたしてどんな風か予想もつかない。
「……なんで負けたの?」
「黙れ小娘、殺すぞ」
チョコチップクッキーを口にしながらいわれても説得力に欠けた。
その様子を無言で見ながら、瑠璃は思った。
よく考えると、この世界に砂糖が存在して、王侯貴族の間では普通にやり取りされている以上――この人が復活したら人間世界は多少やばいのでは?
そんな予感がする。
封印状態にある今はいいけれど。
だけれど、代わりにどうすればいいのかなんてさっぱり浮かばない。
ひとまず余計なことは考えないことにした。
――とりあえず、甘いものはしばらく持ってこよう……。
こっちの世界の人間に迷惑かけないように。
――……あとなー。
返り討ちにされても目覚めが悪そうだなと思うあたり、ままならないのだ。
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