1話 ドーナツを食べよう
瑠璃がお茶の準備を終えるころには、ブラッドガルドが僅かな魔力で光球を作り、暗い部屋を仄かに照らし出してくれていた。
光は小さく、それでもまだ牢獄は仄暗い。
「今日は! ドーナツ!」
きらきらと目を輝かせる瑠璃に対し、ブラッドガルドは視線を動かしただけだ。
沈黙が続いたが、瑠璃はまったく気にしていなかった。うきうきと箱を開ける。
「百円でドーナツ買えることって、あんま無いんだよねえ」
「……貴様の言うことはよくわからん」
かすれた声が疑問を含んで言う。
「安価ってことだよ!」
瑠璃が答えると黙った。
いずれにせよ理解はしてくれたようだ。
「それで」
ブラッドガルドはそう告げて目の前にあるものを見る。
これはなんだ、と視線だけで問うている。
「ドーナツだよ。んっとね」
すでに用意していたスマホを取りだす。
「小麦粉に砂糖や卵を入れて、油で揚げたパン」
説明するよりも早く、指先が箱の中へ無造作に入れられ、ドーナツをひとつつまむ。
パンか、という落胆が明らかに見てとれたが、考えないようにする。代わりに、長い爪にも関わらず器用に物を持てるのは不思議だ、とどうでもいいことを思った。
彼と同じようにドーナツを同じようにひとつ手に取ると、そのまま口の中に入れた。
――さくり。
パンのごとく硬いのかと思いきや、その予想を裏切るさっくりとした歯ごたえ。
そのくせ、中の生地はしっとりとしている。
噛むとミルクの香りがふわりと広がり、優しい味わいがする。バターの塩気が、オールドファッションの控えめな甘さを引き立てている。
シンプルだが、そのぶん味や風味がよくわかる逸品だ。
ちらと視線だけをあげると、彼は一口食べたあとに目が微かに見開いた。
この反応だけは面白いと思う。
お菓子をはじめて食べる人の反応だ。
しばらく口の中をもごもごさせていたが、そのまま二口、三口と運ぶ。
面白いのと同時に少しだけ安堵する。
じっさいのところ、何を思っているのかはわからないけど。
「……チョコレートとやらよりは甘くないな」
「そりゃそうだよ。チョコは物によるけど、ほとんど砂糖の塊みたいなものだし。チョコレートがついたやつもあるけど」
「そうか。それも寄越せ」
一ミリの遠慮もなく差し出された手に、瑠璃は無言でドーナツを置いた。
リングの半分に、甘いミルクチョコレートをコーティングしたオールドファッション。
彼はチョコレート部分を真っ先に口の中に入れた。
ぱきりとかすかな音がして、コーティングされたチョコが割れる。口の端にこぼれおちた甘いかけらを指先ですくいとり、唇で受け取る。
甘さ控えめなオールドファッションには、チョコレートがよく合う。
上品な味わいに加えて、カカオの甘味がとろけるように舌にしみこんでいくのだ。
その様子をぼやっとばかみたいに見てしまったのにも関わらず、彼はそれについてはなんの非難もしなかった。
その代わりに。
「しかしなぜ」と言った。
「リング状なんだ。何かしらの意味はあるのか?」
はじまった。
このひとは、こうして自分の知らないことを恥ずかしげもなく聞いてくる。
自分が考案したわけではないから、説明だけすることになる。
まあ三回目ともなると慣れたけども。
「んん……ちょっとまって……なんか由来はいくつかあるみたい」
「ほう」
続けろ、と無言の圧が来る。
「そもそも、ドーナツ自体がリング状の揚げパンのことだけど、リング状以外のものも含めて言うんだけどね」
そう前置きしておく。
「どうしてリング状なのか、というか、この穴に関しては有名どころの話がいくつかあるみたい」
ドーナツをつまみ、その穴から彼を見据える。
薄暗いあかりの中だが、じっとこちらを見ているのはわかる。
「ひとつめ――」
オランダのお菓子がもとになっている、という説。
「ある国で、くるみを生地の真ん中に乗せて揚げたオリーボルってお菓子があって、それが原型だっていう説ね。作り方を覚えて自国に帰った人が作ろうとしたんだけど、くるみがなかったから代わりに穴をあけたのがはじまりらしい。……あー……、インディアン……原住民の矢が生地に当たって開いたって話もあるみたいだけど」
「冗談の類のようだな」
「だよね……」
そして、ふたつめ。
ハンソン・グレゴリーという人物が考案した説。
これが今のところ、ドーナツの起源として承認されているようだ。
「ハンソン・グレゴリーって人が考案したって説だね。理由はやっぱり複数あって、これはひとつには、お母さんの作るパンの中心がいつも生揚げだったから、中心に穴をあけてそれを取り払った。って説と、もうひとつは、この人が船乗りで、操舵輪……ってわかる? ああ、わかるならいいや。あれにひっかけられるように穴をあけたって話があるよ」
「それはどちらも伝承か冗談の類のようだが」
「あとはまあ、どこかの国の人が考案したとか、俗語をつなげたとかそれくらいかな。いずれにせよここ百年ちょっとの間で論議されたりしてるよ」
そしてスマホをしまいこむ。
「ざっくりいって、いまでは「揚げたパンのお菓子」はだいたいドーナツの範疇に含まれてるみたいだね。作り方は何種類かあるみたい。油も砂糖も高級品だった時代だと、こういう油で揚げたパンはお祭りや祝い事で作られたりしたらしいから――」
「今もそこそこ高級品ではないのか……?」
「えっ、あ、そ、……そだね」
なんとなく流通レベルの差のようなものを感じる。
合わせておかないとなんとなく怖い。
話を変えるように、親指と人差し指で小さなボール状を作って見せる。
今度はその穴からブラッドガルドをのぞき込む。
「ドーナツ自体は今はリング状でないものもいっぱいあって、中にクリームとかを入れたり、ドーナツの穴部分を切り取ったみたいな小さいボール状のドーナツもたくさん考えられてる。……って、とこかな」
説明を終えて指を下すと、ブラッドガルドの指先がすぐ目の前にあった。
ぎょっとするが、彼の指先は瑠璃が持っていたドーナツをつまみとり、そのまま口へ運んでいった。
「……どう?」
おそるおそる尋ねる。
「……悪くないな」
「ん。そりゃーよかった。オールドファッションはシンプルなほうが好きだけど」
「オールドファッション?」
「昔ながら、とか古いタイプの、って意味だったと思う」
「何故」
当然のような問に、もう一度スマホを開いた。
「えーっとねえ。今は揚げる技術が発達して、割れてないドーナツが作れるんだ。だけど、それをあえて昔ながらの割れたドーナツ、って意味でオールドファッション」
「わからん。わざわざ下手なものを作るというのか」
「そういうのを好む人たちもいるってことかな。今はドーナツのタイプのひとつになってるわけだし……、ほら、さっきも言ったじゃない。作り方は何種類もあるとか、クリームを入れた奴もあるとか……」
視線を感じる。
じゃあなぜそれももってこなかったのだ、という視線だ。
そりゃまあ通常価格だったし、下手に持ってくると説明を求められたときに困るからだ、ものすごく。
たぶんこの空間自体が隔離されているだろうから、自分で調べてよということができないのがつらい。
だいたい、この空間だって――。
「と! ところで、この空間についてはぜんぜん話を聞けてないんだけど!」
必殺話題変えを発動する。
じっとりとした目で見られているから、明らかに話題を変えようとしていることは普通にばれている気がするが、気が付かないふりをする。
「それはこの間もしただろうが。迷宮の最奥だ」
「私ばっか喋ってるからドーナツが食べられないの!」
若干無理のある主張だ。
ドーナツを奪われて食われて終了の未来が見える。そうなる前に、瑠璃はちょっと落ち着いてからもう一度尋ねた。
「だいたい、迷宮ってもっと広いでしょ」
勘ではあるが、ブラッドガルドの目の色が少し変わった。
「間違ってはいない。この迷宮は我の庭、我の屋敷のようなものだ。この最奥はな。だが、今はほぼ隔離されている。それだけだ」
「なんで?」
「迷宮の主を隔離しておいたほうが――都合が良いからではないか?」
ブラッドガルドはこともなげに言った。
その真意を瑠璃は見つけ出すことができない。
世界に七つ存在する、迷宮の主。
この世界の人々にとって彼がどういう存在なのか、まだいまいちピンとこない。
けれどもたったひとついえるのは、そんな人物のいるところに自室の鏡がつながってしまった以上、この状況は仕方ないということだ。
鏡は壊すこともできず、移動してもどうにもならない。
まだ、そこまでしか心は追いついていない。
――だからいまはまだ。
「だいたい、ここから出ようにも相変わらずそこの扉は鍵がかかっているのでな。この間来たときがちゃがちゃ触られたせいで壊れたかもしれん」
「えっ、嘘!?」
「わからん。ちょっと回してみろ」
反射的に鉄製の扉のノブを回してみたが、特にこれといった手ごたえはない。
やっぱり鍵がかかってるな、とそれくらいだ。
というか普通に鍵がかかっている。
「まあ、冗談だが」
「じゃあなんでいま回させたの!? おかしくない!?」
「冗談だからな」
しれっと言い切られる。
「もーっ! 私もう帰る!」
「そうか。また来るが良い。あと、菓子は必ず忘れずにだ」
「実はきみ、お菓子目当てでしょ!?」
抗議の声は、見事にそらされた視線で流された。
*
扉が閉ざされると、忌々しい光は消え去った。
代わりに、安堵するような暗闇が降りてくる。
糖分が頭に回るのを待って、いまだ軋むような体を動かす。
潰された半身――正しく言うなら、無理やり再構成して異形化したところを更に潰された腰から下――を正常に再構成できればまだいくらかましにはなるだろう。
扉のほうへわずかに触れようと手をかざしただけで、魔力と反応し、膨れ上がった術式が即座に起動状態になった。行く手を阻むように臨戦状態をとり、下手に触れれば魔力を奪い取られるだけで済まない。
これが人間の作りだした、迷宮主を封印、そして自然消滅させるための叡智であり、最後の砦なのだ。どんな小さな魔力であれ反応し、触れることを拒絶する牢獄の鍵。どんな生物であれ多少の魔力を持っているからには、ここからの脱出は不可能だ。
これをどうにかするには、魔力の回復を待つしかない。だがそのためにはここには何もかもが足りなかった。消耗した体力も魔力も戻らず、精神はやがて破壊される。
本来ならばブラッドガルドもこのまま魔力のすべてを吸収され、消滅を待つしかなかった。
――だが。
手を下におろすと、わずかに口の端をあげた。
こみ上げてくる笑いを抑えることはできなかった。迷宮のどんづまり、鎖された世界に差し込んだ針を、慎重に研いでいこうではないか。
魔力はしばらくの間稲光のように音を立てていたが、やがて静まった。あちこちに目を凝らして、封印の要に触れるものを抑え込もうとする魔力。
――それにしても。
唇の端についていた粉砂糖に気が付くと、指先でふき取った。
それをなめとると、実に甘い味がした。
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