プロローグ――ブラッドガルド

 それは、迷宮、と呼ばれていた。


 いつからそう呼ばれていたのか定かではない。


 各地に存在するダンジョンとも一線を画す、巨大な深淵。

 世界に七つ存在する、底無しの奈落。

 下へ下へと続く無限の墓穴。

 道は交差し、時に複雑に入り組み、深層へ向かう者へと牙を剥く。

 それが迷宮だった。


 古来――迷宮とは、分岐のない一本道のことだった。

 その語源は、バッセンブルグ王国建国よりもずっと以前、古代ゼマ文明にまで遡る。とある王が作り上げた宮殿が、ぴったりと道が収まるように。道は振り子のように行ったり来たりし、ぐるぐるとまわりながら奥地へたどり着くという構成だった。地図で見ると目がちかちかしてきて、一本道であるにも関わらず惑わされてしまう。


(この話に対し、クレタ島の伝説みたいだ、と「彼女」は言った。似たような伝説はどこにでもあるのかもしれない)


 いずれにせよそういう意味では、構成的に迷路というほうが正しい。


 にもかかわらず、人々は子供の玩具のような名で呼ぶことを拒否した。

 何しろそこは迷路の主を中心にした、事実上の宮殿でもあったからだ。


 迷宮の奥深く、勇気と無謀を履き違えず、確かな力を奮え、知恵を持つ者のみがたどり着くことを許されたその先に。


 ――ずるり。


 擦り切れた黒いローブの裾を引き、その迷宮の主は暗闇を見据えた。

 部屋の中は六畳程度の小さな部屋で、窓も無ければあかりのひとつとして無かった。風通しはすこぶる悪く、カビ臭い。体調を崩す程度で済めば良いほうだろう。

 扉は二つ。

 重そうな鉄製の扉がひとつと、妙に不釣り合いな材質の木製の扉がひとつだ。

 鉄製の扉のほうは、扉どころではなく、部屋に幾重にも張り巡らされた結界の中心として存在していた。重ねられた術式は拒絶と封印とが、幾度もの暗号化と年月を経て膨れ上がったものだ。高度に発展した魔術、人類の叡智が詰まっているといえよう。

 反対に木製の扉のほうは、古びてはいるが、わざとそうさせたような風合いがある。いずれにせよここに存在するには異質だ。

 家具の類は存在せず、ただひとり、壁に背を預けて部屋の主が蹲っているのみだった。


 ブラッドガルド。


 そう名付けられ、同じく名乗る者。


 その相貌は人間の男に酷似しているが、幽鬼のように生気に欠けていた。こけた頬、薄汚れた肌、ざんばらに伸び、色艶という言葉とは縁を切ったような赤みがかった長い黒髪。その合間、頭の両側から、山羊のようにねじれた角が顔を覗かせていた。他の点を差し置いても、この一点だけが、彼が人でないことを明確に示していた。

 泥と黴で黒ずみ擦り切れた衣服の隙間から出た骨ばった手が、わずかに動いた。闇色に染まった長い爪が、割れた石畳の小さな石をはじく。


 男がもたれた壁から身を乗り出すと、髪の間から覗いた赤黒い瞳が扉を見つめた。落ちくぼんだ瞼の奥にあっても、いまだ生気を失っていない瞳だ。


 部屋と不釣り合いな材質の木製の扉が開いたかと思うと、小さな光が差し込んだ。この眩しさだけはどうにも不愉快だ。


「来たよ!」


 そしてこれまた部屋と不釣り合いな、明るい声が響いたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る