本編
プロローグ――萩野瑠璃
ドーナツ屋から出て来た瑠璃の足取りは軽やかだった。
手には当然、ドーナツ屋の箱が握られている。
にやけそうなほどのいい気分だった。
――キャンペーン中、さまさま!
オールドファッション全品百円。普段なら消費税がつくはずのところも内税になっての百円。
まごうことなき百円!
もちろん他のドーナツは通常価格だけど、こういうことをやってくれると買うほうも「あ、じゃあちょっと買ってみようかな」という気にはなる。
オールドファッションだけっていうのも味気ないけれども、あまり種類があっても混乱するかなと思ったのだ。
自宅であるマンションに帰るまでの道のり、何もなかったのもいいことだ。
事件事故、二十一世紀の現代日本に蔓延るありとあらゆる犯罪行為と無縁!
最高!
「ただいまあー!」
声も思わず上ずってしまう。
しんと静まり返った家の中が、瑠璃を出迎えた。
親は夜まで帰ってこないけれど、こうして声をあげるのは日課だ。薄暗い玄関のスイッチを入れると、ようやく明るくなった。
開けたばかりの鍵を閉め、廊下を進む。
一番奥にある居間にたどり着くと、対面式キッチンの前に置かれたダイニングテーブルに、箱とカバンを預ける。手洗いとうがいをしてから自室に入るのが帰ってきた者のマナーだ。
ついでにお茶のペットボトルを一つ失敬しておく。
いつもなら部屋着に着替えてしまうのだが、今日は高校の制服にままにしておいた。
これから人に会うのに部屋着というのはどうも気恥ずかしい。気の知れた女友達とゲームでもするならさておいて、やることはお茶会だ。
ドーナツもそのために買ってきた。
髪の毛を少しだけ整えて、部屋の奥から靴を取りだした。
「よし。じゃあ、行こう!」
ちょっとだけ気合いを入れて。
右手に靴。
左手におやつ。
そしておもむろにドア型のミラーを開ける。
その先にある鏡がきらりと光った。
瑠璃のいる部屋を一瞬映した鏡は、水面のように揺らめいたかと思うと、まったく違う景色を映した。
波紋が広がり、その向こうに暗く冷たい牢獄のような石造りの部屋を映し出す。
瑠璃は躊躇することなく鏡の中へと足を突っ込んだ。
鏡もまた何の障害もなくその体を迎え入れる。
当然の、自然の摂理であるように。
――ぽちゃん。
本当に水面を通るように、瑠璃は鏡の中へと入りこんだ。
そうして鏡面に波紋をひとつ残し、部屋の中から瑠璃の姿は消えてしまったのだ。
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