後編

 入院生活は暇ということはなかった。入院したその日と次の日の夕方まで高熱が続いていたからだ。

 人生初の点滴もされた。熱に魘されて全身が痛かったから、針が痛い、なんてことを考えている余裕もなかったっけ。

 退院してからも薬を処方されていたからそれを飲んだし、入院したせいで三日間仕事を休む羽目になったけれど。もちろん入院したその日のうちに電話をして理由を話したら、上司が有給扱いにしてくれて助かった。

 出勤したときにお礼と一緒に病院でもらった書類を提出すると、すぐに経理に持っていってくれた。仕事は入力関連の事務だから片手でもほとんど問題ない。


「無理はするな」

「はい」

「今度病院に行くのはいつだ?」

「明後日です。そのときに傷の状態を見て、抜糸する日を決めると先生が言っていました」

「そうか。西寺さんはほとんど有給を使っていないからな。これを機に少し使ってほしい」

「それでいいのであれば、お願いします」


 所属部署の部長と話をして、有給を使っていいと言ってくれた上司に感謝だ。どのみち、近いうちに長期の休みをもらうつもりだったから、その分を怪我のために使おうと決めた。

 そして仕事は無理せずゆっくりでいいと言ってくれた同僚や上司に甘え、怪我に響かない程度に仕事を頑張り、予約が入っていた日。傷の状態を見た先生は、ホッとしたように笑みを見せる。


「化膿しなくてよかった。それが一番心配だったからね。これならあと十日後に抜糸ができるだろう」

「ありがとうございます!」

「ただ、もしかしたら、以前と同じような動きができない可能性もある。まあ、普通に生活する分には問題ないよ」

「そうですか……。わかりました」


 背中の打撲のこともあるので、しばらくは激しい運動などを控えるように言われたので頷く。そして別室で消毒されたあとで新たに包帯を巻かれ、「きちんと消毒されていてえらいです」と看護師さんに褒められた。

 同じ事故にあった人の中には消毒してくださいと言ってもしてくれない人がいたらしく、傷が化膿してしまっていたらしい。そういう人は毎日病院に通わせることになるのよね……と、看護師さんが愚痴をはいていたのを黙って聞いていた。

 毎日通うなんて、仕事をしている人からしたら大変だよね。それだったら自分で消毒したほうが、会社にも迷惑がかからないもの。

 私の場合は妹が心配して消毒をしてくれたし、包帯も巻いてくれたから助かった。さすが看護師、消毒も包帯を巻くのも手際がよかった。


 そして十日後、抜糸をした。ただ、傷が残ってしまうことと、もし傷が気になるのであれば、形成外科を受診するといいと言われた。

 確かに女として、腕だろうと傷が残るのは問題だよね。だけど私は、形成外科を受診することはしなかった。自分が大きな事故から生還した証として残しておきたかったから。

 まあ、経済的な理由から受信できないというのもあったが。

 のちのち困るようなら受診すればいいし、もし再び柴山さんと会うことが叶ったとして、傷を気にするような男はお断りだ。それだったら一人で生きていけばいいし、それくらいの蓄えはあるのだからと、若干気にしつつもできるだけ気にしないようにしていた。


 なんだかんだと事故から一か月後、再び伯母から連絡が来た。


「え……? 柴山さんが?」

『そうなの。会ってみる?』

「うん、お願いします」

『わかったわ。なら、またあとで日にちや時間を連絡するわね』


 なんと、柴山さんがもう一度お見合いの仕切り直しをしてほしいと、伯母に連絡が来たのだという。今度はきちんと彼と話をしてみたい。

 ほんの一瞬目があったあの事故の日、確かに私はもう一度彼に会いたいと思ったのは事実。運命を感じる……なんてことはないけれど、彼とならいい家庭を築けるかも、なんて気の早いことも考えていた。

 まあ、彼が了承してくれればの話だけどね。

 それから数時間後に伯母から再び連絡が来て、土曜の十一時に、以前と同じホテルのラウンジで待ち合わせをすることになった。


 そして当日。


「おはようございます」

「おはようございます。断られなくてよかった」

「え……?」


 伯母は私たちを引き合わせると、「あとは若い二人で」とばかりに早々に立ち去った。そして挨拶を交わしたあと、柴山さんにホッとしたような顔をされて、そんな言葉をもらったのだ。


「なんというか……貴女ならば、僕を支えてくれると感じたんです」

「はい? なんでそんな結論に?」


 意味がわかりません。が、なんとなくだけど、私は彼のいわんとしていることがわかる。

 彼は警察官で、休みだろうと管轄内で事件があったり災害があったりすれば、出動しないといけない。そんな状態を我慢できるか、あるいは支えられるのか……そういう覚悟が必要なんだろうと思う。

 私ならそれができる、と思う。祖父を見てきたから。そして父も。


「いや……なんとなく、なんだが……」


 困ったように眉尻を下げ、頬を指でかく柴山さん。そんな仕草を可愛いと思ってしまい、これは嵌ったな……という自分の思考に驚いた。

 まあ、確かに彼に囚われたよね……写真で見た鋭い目が、私を見てとても柔らかい目になったのを見て。

 きっと私も、同じ目になっている。

 運命は感じなかった。だけど、あの瞬間、恋に落ちたのだ、私は。

 だから答えはわかっている。


「ふふ、正解です。祖父と父を見てきましたから、きっと支えられると思います。我儘を言うこともないと思いますよ?」

「え……?」

「あら? 伯母から聞いていませんか? 祖父と父は警察官なんです」

「そうなんですか? それは知りませんでした」


 驚いたように目を開く柴山さんに、伯母のテヘペロな顔が浮かぶ。きっと、そういったことは一切話さなかったに違いない。

 まずはお互いを知るとこから始めようと話し、ラウンジでコーヒーを飲みながらいろいろなことを話した。意見が合わない部分もあったけれど、それは本当に些細なことで、ほぼ意気投合。

 一年間お付き合いして、結婚しようという話になった。

 柴山さんの休みに合わせて私も休みを取り、食事に行ったり映画に行ったり。ネズミランドに行くこともできたし、彼の職場の人たちを交えてバーベキューもした。

 みなさん気さくで、彼らの奥さんや恋人とも仲良くなることができて、友人が増えたことが嬉しいし、お互いに愚痴や悩みを聞いてもらえる仲間ができたことも嬉しい。

 柴山さんの仕事関連の悩みは、きっと同じ警察官の夫や恋人を持つ人じゃないと、その苦労や心労などはわからないと思うから。

 まあ、私の場合は母に相談することも可能だったが。


 たまに意見が合わなくて喧嘩したこともあるけれど、約束通りお付き合いを始めて一年で結婚した。新婚旅行は近場にして、いつか遠くに行ってみたいねという話をして。

 そしてその一年後に今いる家を買ったのだ。



 ***



 そんなことを思い出していたら、麻衣さんが顔を上げる。


「あ。おはようございます!」

「おはよう! 風船葛が凄いことになっているわね」

「そうなんです! 下のほうはもうじき茶色になりそうですよ」

「そうなの? 見てもいい?」

「ぜひ!」


 こっちですよと車椅子に乗った麻衣さんに案内されて、指さされた先にあったのは、少しだけ色が変わった風船葛が。上のほうはところ狭しと白くて小さな花と緑の風船がぶら下がり、時折吹く柔らかい風に揺られている。

 花が咲き終わったところには、五ミリほどの大きさの三角形のものがついていて、それが膨らんでくると直径三センチくらいの大きさの風船になるのだから、植物とはなんとも不思議だ。


「可愛い~! うちもそろそろ下のほうが風船になってきているの」

「わ~、それは楽しみですね!」

「ええ。今年は種を撒くのが遅かったからそんなに大きくはならないみたいだけれど、来年はきっと麻衣さんちのように大きくしてみせるわ!」

「今度見せてもらってもいいですか?」

「もちろん!」


 これから出かけなければならないからと麻衣さんと別れる。麻衣さんもこれから病院に行くそうなので、別の日に我が家の風船葛を見せてあげよう。

 そんなことを考えながら、出先に向かったのだった。


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