第5話 人間と猫の違い
「聖典を一緒に読もうと言った理由、覚えているか?」
厳しい口調を和らげて、スレイマンが聞いた。
「ええ、スレイマン様の思考過程を理解するため……あ……」
そうだ、理解できていない。今、何故ここでスレイマンが“禁忌”という“
何をどう考えてのことなのか、全くわからない。
理解できないことを予測して、スレイマンは話し合う時間を設けたのだった。
「そう。やはり、そなたには私の考え方は理解しがたいか?私はそなたに惹かれている。それは、そなた自身が思っている以上だと思う。そして私は心惹かれるだけでは飽き足らず、身も心も結ばれたいと思っている。だが、おかしいか?私はそうはできない。何故なら私は…」
想いを一気に口にして、胸が苦しくなったように、スレイマンの言葉は途切れた。
「神を知る猫だからですか?」
何故か、“白猫のスレイマン様”と、目の前のスレイマンが重なって、口にしてしまった。
「え……?」
人間のスレイマンはぽかんとしている。
「あれ……あの猫の話、ここにつながるのでは……」
何か噛み合っていないが、耐えがたい重苦しさが和らいだ。
「いや、違う違う……“神を知る猫”と”そうではない猫”自体そなたが言い出したことだ……それに、そもそも私は猫ではない」
「あ……そうでした……」
自分で言っていておかしくなってしまった。
スレイマンもつられて笑った。
「だが、言いたいことはわかる。私は……“信仰深い”などとは言わぬ。ただ、聖典の教えを“見なかったことにする”ことができない、そういう気質なのだ」
それは知っている、側にいてつらいほどだ。
何故そこまで真面目に考えるのか。
そのように生きていて、疲れないのか、何度そう言いたくなったことか。
「……私は決して信仰薄きものではありませんが、見なかったこと、聞かなかったことにして生きてきました」
「うん……知っている。だから私も、そうしてみようと精一杯努力したが、駄目だった」
…いい加減さというのは精一杯努力して身につけるものではないのだが。
「猫と人間は何が違うかわかるか?」
スレイマンの唐突な問いが始まった。
「……違いが多すぎて何とお答えしていいのか……」
「いや、そなたは先ほど私を猫と混同したではないか。似たところがあるからだろう?」
「ええ。神を知る猫がいるとすれば、スレイマン様のような信仰深い猫だと思うのです」
スレイマンは苦笑した。
「だが、もし、信仰深い猫がいたとしても、その者にはできないことがある」
「……そして、信仰深い猫にできなくて、私のような人間にはできることがあると?」
少し、スレイマンの誘導のやり方に慣れてきた。
「そういうことだ、わかったか?」
スレイマンの笑顔に頷いた。そうだ、わかってきた。
「ええ、猫を含め、被造物は神に背くことはできません。しかし、人間は、神に背くことができます……このことですね?」
何故なのかはわからない。しかし、神は人間を創造されたとき、“神の命に背くことができる力”をお与えになった。
神は人間にあれこれ言い聞かせるが、人間はその自由意志により、神に背くことができる。
アダムとエヴァ。
神によって創られた最初の人間がそうしたように。
神に背くことができるか。
これが、人間と猫の違いだ。
「そう、それだ」
「しかし、それは何故なのですか」
「わからん、私は神ではないから」
スレイマンはいつものように躱した。
だが、そうとしとしか言えないだろう。神が、何故このように世界を作られたかなど、わかるはずがない。
「それはさておき……」
折角答えたのに、スレイマンはあっさりと話を変えた。
一体話をどこに持って行きたいのだろう。
「私はそなたが好きだ」
そう言ってイブラヒムの正面に立ち、じっと目を見た。
猫の話との関係はわからないが、聞きたかった答えだ。
「だから、そなたと共にありたい。心だけでなく、すべてにおいて」
苦しそうに言うスレイマンを見て、イブラヒムも胸が痛くなった。
ならば、それでいいではないか。
それだけで、十分ではないか。
田舎なら奇異な目で見る者もいるかもしれない。
だが、イスタンブルでは、「よくあること」だ。
「だが、先ほど述べた通り、それは、神が禁忌と定めたところだ」
また、話が同じ所に戻ってきた。
だから、一体、どうしたいのだ。
「私はそれを、なかったことにも、見なかったことにもできない」
いえ、是非ともそうして下さい……イブラヒムは少年の頑固なまでの生真面目さに苛立ちを覚えた。
しばしの沈黙の後、スレイマンは毅然と言い放った。
「だが私は、私の自由意志により神に背くことができる」
その言葉の意味を、イブラヒムが理解するまで、しばしの沈黙があった。
「え……?」
「神が禁じても、人はそれに背くことができる」
スレイマンはウードを奏でるような指さばきで、自分の
そして、まっすぐにイブラヒムを見た。
「これが、私の答えだ」
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