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●テクストと翻訳

 Ad hoc respondeo. Concedo quod homines omnino idem non solum in figura sed etiam in memoria et ingenio non possumus distinguere a intellectu nostro pro statu isto. Tamen, ut credo, EGO aliquam ut hanc amo. Licet difficile sit supradictum exemplum, sed, sed...


 これに対して答えよう。容姿のみならず、記憶や性格を含めて、まったく同じである人間を、私たちはこの世の人間知性によっては区別できないということを、私は認めよう。しかしながら、私がそう信じているように a)、私はある人を人間として愛しているのである b)。上で語られた例は難問ではあるが、しかし、しかし......c)


●註釈

a) 「私がそう信じているように」(« ut credo ») などと、予備的な論証なしに哲学的なテクストの中にいままで登場したことがあっただろうか。しかし私たちは、哲学的な考察が抜け落ちていることを理由に、ここでこのように記した彼を批判することなど到底できない。第三段落および第六段落で提示された「完璧なクローン」の難問が、彼を悩ませ続けていたのである。彼が、たった二つの単語ではあるが、ここに「私がそう信じているように」と挿入した理由を、いまここで想像し、彼のその姿を追うことにしよう。

 彼はいつもの部屋で頭を抱えていた。第十三段落の冒頭で述べられた、完璧なクローンの難問が彼を悩ませているのだ。憂鬱である。胸が詰まるような憂鬱である。この問題が解決されなかったら、彼は死ぬまでずっと、愛する人に対して永遠の愛を抱いていることを証明できないのだから。まさに命を賭した研究であった。完璧なクローンの問題は、ほとんど決定的に、彼に以下のような判決文を言い渡そうとしている。「愛する人を人として認識することは、この世の人間知性によっては不可能であり、それゆえお前は永遠の愛を抱くことなどできない」と。このとき第十三段落は、「しかしながら」(« Tamen ») まで書かれていた。そこから何日も何日も彼はこの羊皮紙から離れた。そして息抜きにパリの街を歩いた。ああ、憂鬱なパリの街! 無名氏はそう思った。パリの歩みは、彼の意図に反して、けっして息抜きや気晴らしとはならなかった。くすんだ景色が重苦しくのしかかってくる。ここではないどこかへ行ってしまいたい。ここでなければ! 彼の魂がそのように叫んでいた。人々はいつものように騒がしく、右から左へ、左から右へと落ち着きなく行き交う。息苦しい。知らない顔で溢れかえるそのパリの街中で、彼は知っている顔を、この世で最も愛している顔を探そうとした。しかし、次から次へと流れてゆくのは見知らぬ人間ばかりである。の顔しかない。パリの街に溢れる顔も声も匂いも、すべて彼にはまったく関わりの無い人間に由来するものであった。ほとんど吐き気を催すほどの疎外感である。この世界に彼の愛している人はたった一人しか存在しない。完璧なクローンであっても、それは彼の愛する人ではないからである。すると、その一人以外の全ての人間が、彼の愛している人ではのである。この事実に気がついたとき、彼は突然、逃げ出したくなった。石畳を強く踏んで、いまにもここから逃げ出そうとした。そのとき、彼はふと認めたのである。遠くに、掠れたように見える、彼の愛する人を。

 彼は駆け出した。彼の愛を慰めるために生まれた彼の形而上学は、真理に従い、正しいと信ずるところに基いて歩みを進めていき、そしてとうとうこの第十三段落に至ったとき、もはや彼の愛を慰めることはなく、むしろ永遠の愛を信じる純粋な彼自身を引き裂こうとしていた。つまり、。駆け出した彼は、どうしようもなく、愛する人に直接触れることで得られる、すなわち愛によって慰められることを欲した。あの女までは遠く離れており、足はもつれ、酸素を欲する肺が苦しみ呼吸を強いる。自分でも愛する人でもない人々をかき分け、愛する人までの最短の距離を走ってゆく。慰められるために。鋭く彼の胸が痛んだ。大きな声で叫べば、もう愛する人に届くほどの距離であった。彼は苦しみつつ近寄ってゆく。そしてもう触れられる距離である。気安く、いつものように触れて挨拶しようとした瞬間に、彼は、最悪のことに、気がついてしまったのである。遠くから、愛する人だと思って見たこの女は、まったく知らない別の女だった。遠くから見た時には、彼の愛する人にのである。彼は発狂しそうであった。慰められるために走った憂鬱な探求者は、ここに至り、またしても引き裂かれてしまった。よりにもよって人に! 逃げ出す気力も無く打ちひしがれた彼は、とぼとぼと彼の仕事場へと戻っていった。その日、彼は書きかけの羊皮紙に一瞥も与えることなく、疲労の限界のために眠りに就いたのであった。

 結局のところ、彼は彼の形而上学的探求においてだけでなく、彼自身の生活においてさえ、愛する人をまさにその愛する人であると認識していない、という地点に至ってしまったのである。この世に生きる人間の知性の限界を突き破り、べき、より上位の知性の能力、すなわち、死後に神の祝福を受けた人間の魂や、天使によってのみ可能であると語られる「個を個として認識する」能力へ至る、という大胆不敵な試みの最中、彼は今にも吹き消されそうな蝋燭のごとくであった。目を閉じ、ひたすらに祈りを繰り返しても、彼の精神に届くのは群衆のざわめき、瞼の裏の息苦しい暗闇、そしてほとんど散り散りになってしまった彼自身の精神の叫びのみであった。彼自身がそれほど意識せず、やがて解決策が見つかるであろう、と安易な気持ちで数日前に羊皮紙に記した「容姿のみならず、記憶や性格を含めて、まったく同じである人間を、私たちはこの世の人間知性によっては区別できないということを、私は認めよう」(« Concedo quod homines omnino idem non solum in figura sed etiam in memoria et ingenio non possumus distinguere a intellectu nostro pro statu isto ») という一節が、彼の思考をさらに締め付けた。この一節を抹消すれば、この締め付けから逃れられるだろうか。あるいは、この羊皮紙を処分してしまいさえすれば、何もかもを忘れていい気持ちになることができるだろうか。彼はそのように思案する。この一節が、彼の「第二問題」を、彼の形而上学を、そして彼自身の精神を堰き止めているのであった。この巨大な堤防は、しかし、「第二問題」の表面から取り除かれたとしても、無名氏の精神において、彼の知的な探求によって根本から解決されないかぎり、彼の精神は決して穏やかな流れを取り戻すことはないのである。その一節は、羊皮紙から消え去ったとしても、さらには羊皮紙そのものが消滅してしまったとしても、彼自身が解決するまでは、彼の精神において響き渡り、彼を締め付け続けるのである。彼は完全に閉じ込められてしまっていた。

 無名氏が第十三段落の執筆に取り掛かり始めてから、ゆうに四十日は経過していた。彼はすっかりやつれてしまっていた。パリ市街で、人間の認識能力の可謬性に打ちひしがれて以来、彼は愛する人をひと目たりとも見ようとしなかった。彼は疑っていた。悪魔が愛する人に化けて現れているのかもしれない、そうして悪魔は私を試みるのだ、私が、愛する人をまさに人として認識し、その上で愛しているかどうかを。そして彼には、もとより彼自身神の子ではないのだから、その悪魔の試みを乗り越える自信は、彼にはまったくなかったのであった。実際に、悪魔は彼の夢に何度も愛する人の姿で現れて、ひとしきり彼を騙しては、本当の、醜い悪魔の姿をあらわして高笑いをして去っていったのであった。

 そのように夢の中でさえ幾度も悪魔に苦しめられるので、彼はとうとう寝ることさえ恐怖し始めた。眠気が彼を苛もうとも、彼は眠ろうとしなかった。彼の頭は、茨の冠によってきりきりと締め付けられるように痛んだ。身体が悲鳴をあげ、精神がその限界を迎えたとき、無名氏は磔にされたがごとき苦悶のうちに絶命するように眠り、やがてそのわずか後に蘇るように目を覚ました。このようにしていると、彼は夢を見ずにすむということを学んだのであった。安らぎなど決して存在しない夜が続いた。

 この苦しみはすべて「第二問題」に由来していたのである。彼は幾度もこの問題の執筆をとりやめにしようと考えた。それでも無名氏は、ついに羊皮紙を切り裂いて捨てるという凶行に出ることはできなかった。羊皮紙は、彼の探求している「個別者の認識に関する問題」の取っている仮の姿でしかなく、それを破棄したところで、彼自身の内に問題そのものが潜み続け、彼を苦しませ続ける、ということを、彼が理解していたから、というだけではない。彼自身が真摯な形而上学者であり、真摯な探求者であったからである。いやむしろ、臆病者だったのである。彼には、この羊皮紙を真っ二つに裂く勇気が無かったのであった。無名氏は賢い人間であった。「第二問題」のテクストは、アリストテレス、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥス等の議論が引かれ、それに基いて議論を組み立て、さらには彼の考察の中で生じた精妙博士の議論の欠点を精確に指摘し、その解決策を探ろとしている。賢い人間ではあったのだが、彼は頭のいい人間ではなかった。諦められなかったのである。、彼はここまで苦しむことなく一人の女性を愛することができたはずなのである。「いま愛してさえいればいいではないか」、「永遠の愛など人間の作り出した幻想に過ぎないのだから、それを求めて苦しむなど馬鹿げている」。その通り! 永遠に同じ人間を愛することなどどうしてできようか。到底不可能である。いかに彼の愛が深く、その情熱が燃え盛っていようと、有限な存在の有する感情や行為には限界がある。彼の愛とて、有限なはずなのである。彼は、それにもかかわらず、進みゆこうとした。机の上には、あの時以来ずっと触れられていない羊皮紙がひっそりと横たわっている。彼はそれを視野の内に収めさえしなかった。愛する人さえ見ないようにしていたように。彼は諦めきれないのである。いや、そもそも諦めるということが選択肢として現れてさえいなかったのである。彼はのである。彼は、人間が個別者をその最奥まで認識することができ、そして最奥まで愛することができるとのである。信じることは、信じられていることが真であるか偽であるかを前提としない。いかなる対象であれ、信じる人はそれを信じることができる。彼は信じていたのである。もはやそこに疑いが差し挟まれる余地などまったくなかった。もはや彼には、彼の探求の地盤を一度覆してしまって、確固とした大地の上に探求を新たに築き直そうとすることはできなかった。崩壊寸前の彼の形而上学は、彼の信によってしか支えられていないのである。そのような信は、結局は上述の、彼の臆病さに由来していたのかもしれない。

 ある、まだ憂鬱な、朝。眼を覚ます前から精神の奥底でしとしとと、柔い雨の滴る音が続いていたような気がした。部屋には湿り気を帯びた暗さが溜まりこんでいた。むっとした黴臭さが立ち込めている。それでも、薄い雲の隙間から、ときおり太陽の光が、解決不可能な形而上学的問題という永遠の迷宮に濁された眼には眩しく突き刺さってきた。机の上に放置され続け、うっすらと埃を被り、きょうの雨の湿気を含んで気味悪く少し膨らんだ羊皮紙の最後には、こう書かれている。「しかしながら」(« Tamen ») と。彼は数度、煤けて黒くぼけた天上を仰いで、詩句のように、あるいは祈りのことばのように、「ああ、しかしながら!」(« a, tamen ! ») と繰り返した。いくら悪魔が囁やこうと、いくら自らの知性がその限界を悟ろうと、彼はまだ、この「第二問題」の成功を信じていたのである。なぜなら、彼は、彼自身が愛する人に対して、永遠の愛を抱いているということを信じて疑わなかったのだから。


b) 「私はある人を人間として愛しているのである」(« EGO aliquam ut hanc amo »)ということを、永遠の愛を抱いていることを、彼は決して疑わなかった。疑わないということは、しかしながらいまや、彼の精神を締めつけるのみである。そこには一切の希望がなかった。彼の憂鬱は、彼の精神の大部分を占めている。彼の魂は、彼にも明示的なしかたで、二つに分裂してしまっていた。彼の理性は、第二問題を完成させるために、幾度も「しかしながら」(« tamen ») と叫んでいる。彼の知性に住まい、彼に対して反駁を繰り返す幾人もの哲学者に向かって、そのように叫び続けている。そう叫びながら、彼の理性は彼の憂鬱を把捉していた。彼の憂鬱は、「第二問題」の完成を、夢として、幻影として眺めるのみであった。だが憂鬱な精神がそのように夢や幻影のようなものとして、「第二問題」の完成という至福の楽園を見続けている限り、憂鬱な精神は、彼の理性に探求を強いるのであった。彼の理性自身は、憂鬱の暗闇を把捉することで、「第二問題」の草稿など引き裂いてしまったほうがいい、と気づいていたにも関わらず......。

 それぞれ二つの相反する作用を有した、二つの相反する魂は、無名氏をなお混乱させた。彼はもうほとんど狂ってしまっていた。それでも彼は依然として形而上学者であったし、変わらず彼の愛する人を、以前と同じ愛によって愛し続けていた。彼の根本的なものは決して揺らぐことはなかったのである。狂ってもなお彼は「第二問題」の考察を続けていた。しかしながら彼の生活は、彼の愛する人の支えなしには立ち行かなくなってしまっていた。彼が「第二問題」について考察していない時には、呆けてしまったようで、会話さえもうまくゆかないまでになってしまっていた。

 無名氏が、生活の中で「第二問題」のことをすっかりと忘れてしまっているとき、彼は悪魔に脅かされることも、哲学者たちに論駁され続けることもなかった。とうとう彼は安息の夜を獲得したのである。静かな夜、彼は彼自身によってさえ悩まされることはなかった。そのような中、無名氏は、時間さえ忘却してしまい、広く青い海に泳ぐような浮いた心地で、ある一つの安らかな夢を見た。

 この世のすべての色を集めてきたかのような花畑があった。春の透き通った空の下、その花畑のみがあり、そこでは万色の花が盛っていた。右を見ても左を見ても、どこまでも花がずっと咲き広がっていた。大地は、色と色とが犇めいてさざなみを打っているようであり、個々の花を見分けることはできず、その総体が、虹色をした一つの美しい花であるかのように見えた。幾百もの小鳥がかしましく囀りあっており、それらが一つの壮大な音楽を奏でていた。風が優しく吹くたびに、その巨大な花の総体は、あらゆる芳しさを混合したような、この世とも思えぬ芳香が伝わってきた。すべての複雑な、混雑した思考は、そこでは忘れ去られてしまった。この夢の世界すべてが無名氏を癒やし慰めた。花も花も個別的なしかたでは認識することができず、あらゆる個が一つに溶け合う世界の中、彼は横たわり、空を眺めた。青い空を、いくつか白い雲が軽々と滑るように飛んでいくのを、彼はじっと眺めていた。


c) いまや私たちは、無名氏とともに「第二問題」の十三の段落、十三の階段を上り終えた。以上見たように、彼はこの「第二問題」を完成させることができなかった。彼がこのあとどのような生を送ったのかについて、私たちは知ることはできない。

 ドゥンス・スコトゥスが個体化について考察する以前であれば、無名氏はこの「第二問題」を完成させることができたであろうか? かの強固な「完璧なクローン」という問題が眼前に現れなかったならば、無名氏は彼の愛する人を永遠的なしかたで愛し得ると確信することができたであろうか? しかしながら、私にはそう思われない。おそらく彼は、どのような状況下であれ、「第二問題」を完成させることはできなかったであろうし、愛する人を永遠的なしかたで愛し得るとは確信しなかったであろう。たしかに彼は秀才であり、よき教師であった。それまでの議論を正しく取り上げ、それに対して議論を挑み、そして考え抜いた。その結果として、この「第二問題」が残されたのである。秀才であり、よき教師であった彼は、しかしながら、単なる熱心な形而上学者、情熱ある哲学者であったものの、優れた形而上学者、天才的な哲学者ではなかったのである。それは、しかも、悪い方向へと作用した。目の前に与えられた「ある人は個別者を愛することができるか」という一つの問題にのみ固執し、しかもその問題に対して、「私が信じるように」(« ut credo ») という信念が先行してしまっていたのである。彼は慰めがその問題の解決にあって、しかもその問題の解決にしかないと思い込んでいた。そのように彼の精神そのものが仕向けられていたのである。一体何によってか? である。誰かに「そのように生きよ」と命ぜられたのではなく、ただ彼が彼自身によってのみ、ただ「第二問題」の解決のために生きることを決心してしまったのであった。そしてそのように一度決心してしまったとき、粘度の高い憂鬱は彼が自らの意志を自由に働かせて、他の明るい道を歩ませることをまったく拒否してしまったのである。結局は、用意されていた素敵な様々の他の選択肢のいずれをも選ぶことなく、ただ暗いばかりの道のみを、彼は自らの意志で歩いたことになる。彼は決して頭の良い人間などではなかった。頭の良い人間だったならば、彼は第六段落、あるいは第三段落で「完璧なクローン」の問題に出くわし、現状では解決不可能であることを悟ったならば、さっさと羊皮紙を裂いてしまい、別のことを考え始めていたはずである。現在まで彼の探求の過程が残されているということは、彼にはそれができなかったということを示しているのである。不可能を悟る頭の良さと、羊皮紙を、すなわち彼自身の探求の過程を裂いて捨ててしまうほどの勇気を持っていたならば、彼はおそらく憂鬱に取り込まれることなく華やかな生を送ることができたのかもしれない。あるいは哲学史の波に名前を攫われることなく、彼の物語(歴史)が語り継がれていたかもしれない。「第二問題」は、これまで見られた通り、そのほとんどが引用によって構成されている。無名氏のオリジナルの議論はほとんど存在しないことからも、彼が哲学史に名を残せなかった理由はよく見て取れる。しかし、このテクストには、彼自身が刻み込まれている。それは「私が信じているように」という一節に現れている切実な叫びからのみ発するものではない。探求そのものが、常に彼自身に固有な問題へと方向付けられていたことによる。私たちが無名氏をとして取り扱おうという欲求は、そこから生じてくるのかもしれない。哲学が、時代を越えてすべての人々に哲学的な視点や問題、およびその解決を与え続ける普遍的な営みであるとするならば、彼のこの探求はそれにまったく適合しない。しかしながら、唯一の存在として、彼自身、個なる存在として、無名氏はこのテクストの内に存在し続けていると言える。そのように私たちが彼に慰めのことばをかけたところで、問題を完遂することのできなかった彼自身は、最後に残された「しかし」(« sed ») ということばを刻み、「第二問題」の執筆を取りやめてしまって以降、彼は途切れることのない憂鬱な生を送り続けることとなったであろう。ただ、憂鬱な彼の生において最も幸運であったのは、彼が死すべき存在であったということであろう。死後の魂は、もし神によって祝福され、認識能力が高められたならば、個別者を個別者として認識できるようになるはずであろうからである。無名氏の魂がいまなお神に祝福されてあることを祈る。

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Anonymus 白井惣七 @s_shirai

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