頂の彼女

土御門 響

白銀の貴女

 霧が晴れることのない深い谷底。周囲を高い山脈に囲まれたその土地には、少ないながら人が住んでおり、人々は協力し合って生活を営んでいた。その小さな村は、灰白ノ村といった。

 そして、谷を囲む険しい山脈にも、人の集落が点在していた。天近くに存在する集落の数々は神々ノ処と総称され、さらに、その過酷な環境で生きる民は白く輝く衣を纏っていることから、人々から白銀ノ民と呼ばれているのだった。


 ***


 僕は村に一人で住んでいる。

 両親は早くに死んだ。崖崩れに巻き込まれたそうだ。

 この谷は崖崩れに巻き込まれて死ぬ者が多い。僕の両親も、その一例だったということだ。もちろん、そうやって親を亡くした子が一人で生きるなど到底無理な話。なので、僕は近所の人たちに助けてもらいながら暮らしている。

 といっても、基本的なことは自力でやらなければならない。この谷は血の繋がらない他人を養いながら暮らしていけるほど楽な土地ではないからだ。

 よって今日は村を囲む崖を登って山に入り、薪を取ってこなければならなかった。

 冬を越すのに大量の薪は必須だ。凍え死なないためにも、気合を入れていく必要があった。

 もう秋の終わりで、日に日に寒さが厳しくなってきていた。毛皮の衣を何枚も着ているというのに、寒さは衣の隙間から忍び込んでくる。

 動けば少しは温かくなると思い込んで、僕は崖を登った。太い縄を命綱にして、一歩一歩、慎重に進む。崖からの転落死で逝く者も、村にはたくさんいる。気をつけねばならない。

 森に辿り着いた頃には、少し体が熱くなっていた。

 僕は息を整えてから、薪を集めた。自分の体力で持って帰ることを頭に入れて、帰り道での落下に意識を向けつつ、薪を背負ってきた袋に入れていく。

 毎年やっていることだし、注意するといっても、いつものことだった。

 しかし、今日は少し違った。

 帰りのことだ。いつものように崖を降りていたら、普段は吹かないような暴風が吹き荒れた。


「ぐっ……!」


 縄をつけていても、体が岩肌に叩きつけられた。何度も、何度も。肩や関節の骨が耐え切れずに砕けるんじゃないかと、本気で思った。薪の入った袋が切れて下に落ちたことを気にする余裕もなかった。

 このまま縄も切れて死ぬのかな、と僕は思った。父さんと母さんのところに、もう行くのか、と。

 諦めかけていた。


 そのときだった。


「君ッ」


 上から声がしたかと思ったら、命綱がブツンと音を立てて切れた。嗚呼、と僕は呟く。短い人生だった。

 しかし、支えを失った身体が宙に投げ出されることはなかった。

 柔らかく、温かい何かが僕の体を抱えているらしい。

 僕は恐る恐る顔を上げた。


「君、大丈夫?」


 女性だった。

 たぶん、僕よりも年上だろう。けれど、まだ成人はしていなさそうだった。

 白くて温かい毛皮の衣を纏った女性は、顔を上げた僕を見て微笑んだ。


「大丈夫そうね。よかった、間に合って」

「貴女は……」

「上に住んでる人間の一人よ」

「そう、か。だから……」


 空を、飛んでいるのか。

 噂で聞いたことがある。

 神々ノ処に住む人々は神に愛され、人では成し得ない業を成すのだと。

 この人は今、空を飛んでいる。この暴風にも負けずに、宙で静止している。淡い金の髪は、僕の黒髪と同じように、激しく風ではためいている。だがそれでも、体の軸がぶれることはない。この人が、白銀ノ民。その一人。

 僕は失礼と分かっていても、じっと女性を見つめてしまった。

 美貌だった。同じ人間とは思えないくらい、綺麗な面立ちをしていて、優しい表情をしている。


「……なぁに? 私の顔に何かついてる?」

「い、いえ! そういうわけでは……申し訳ありません」

「ちょっと、なんでそんなに小さくなってるの? 男の子なんだから、もっと胸を張りなさいな。恩義を感じるのは良いことだけど、へりくだり過ぎるのは問題よ?」

「だって、貴女は白銀ノ民で……」

「ああ、もう! やめて!」


 女性がうんざりした顔になって、僕の言葉を遮った。


「私、そうやって言われるの好きじゃないのよ」

「なぜです?」

「だって、そうじゃない? ちょっと皆と違うところに住んでて、ちょっと皆とは違う特技を持ってるだけなのに、まるで神様みたいに言われるの。そして敬遠される。中身は他の人と全然変わらないのに。それってとっても……哀しいと思わない?」


 女性は哀しそうに笑って問いかけてきた。

 確かに、そうかもしれない。今までは話でしか聞いたことのなかった民だけど、こうやって話してみれば、あまり僕らと変わったところはないように思える。


「……すみません」

「いいのよ。そんな顔しないで。……そうね、そろそろ降りましょうか。ここは風が強くて寒いわ」


 女性がそう言ったとき、暴風のせいか霧が一瞬だけ晴れた。

 霧と雲の合間から差した日の光に照らされた女性の顔がきらきらと輝いて、真っ直ぐな光を宿した翡翠の瞳に吸い込まれそうだった。

 女性はすぐ降下して、僕を村の外れにおろした。


「はい」

「あ、ありがとうございました」

「いいって。じゃあ――」

「あのっ」


 女性が再び飛び立とうとしたとき、僕は思わず呼び止めて言った。


「いつか、お礼に行きます! 貴女の住んでいるところに、絶対!」


 僕の宣言を聞いた女性は目を丸くして、次いで優しく笑った。


「……うん。楽しみに待ってるわ」


 ぽふ……と、僕の頭を滑らかな手で一回撫でてから、女性は飛び立った。

 僕は女性が霧の向こうに消えていくさまを、見えなくなった後もずっと見続けていた。


 ***


 あの時の僕は崖から落ちる代わりに、恋に落ちたのかもしれない。

 僕は、崖の上から伸びてきた懐かしい滑らかな手に、自分の手を伸ばしながら、ふと思ったのだった。

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