2 廊下で後輩にスルーされるだけで一話使うとは思わなかった
「意外と怒られなかったな」
『……そうだね』
「なんだか歯切れが悪いな。これでもホッとしてるんだぞ。もっと喜んでくれてもいいじゃないか」
『美奈川先生の顔を見てたのか? 全てを諦めたような表情をしていたぞ』
瑛理はぎこちない足取りで職員室に謝罪へ向かった。担任の
美奈川黒子は、花とも張り合えるほどの笑顔を作った。姿こそ違えど、白衣の天使を彷彿とさせた。身長、風貌は発育の関係上、中学生に間違えられるほどだが、今だけは年齢以上の慈悲を発揮していた。聖母がこの世に顕現したのであれば、美奈川黒子という名がつけられるのではないか。それほどまでに、素晴らしい笑みだった。
まったく、しょうがない奴だな。
全てを受け止めるような懐の深い一言の後、瑛理に体育館で後片付けをするように、黒子は告げた。
手のひらを返して、ハイテンションで職員室を出ていく瑛理は気づかなかった。しかし常に瑛理に寄り添う少女はしっかりと見ていた。
瑛理が職員室を出て行く瞬間、全てを諦めるように切なげな表情をしていたことを。
言うなればその表情は。
『拾った子犬を、親に叱られて捨てに行く子供のような……そんな深刻な表情だった』
「俺って見捨てられんの!?」
『……大丈夫だ。ボクだけは見捨てないから』
「優しい!?」
『さあ、元気に片付けをしようじゃないか』
「大丈夫だよな。見捨てられないよな」
不安を漏らしつつ廊下を進んでいると、男女入り混じった五人組が談笑していた。何人かは瞳から涙を零していた。さぞかし感動する卒業式が演出されていたのだろう。
涙ぐむ子を慰め、ハンカチを差し出していたのは、一際目立つ女子生徒だった。光に照らすとわかる程度に薄い茶髪。後側頭部で結ばれた髪はしなやかに流れていた。つり目でもタレ目でもない、バランスの取れた瞳は、彼女の印象を可愛いとも美人とも表現できた。
校内でも注目を浴びる女子生徒に、瑛理は見覚えがあった。
「あいつは確か……うん、そうだあの子だ」
『具体名を出しなよ』
「たまに昼食の時に会う子だろ」
『だから彼女の名前を言ってみなよ』
「やたらと突っかかってきて、確か背中にホクロがあって、あだ名はミミちゃんって呼ばれてたはずだ」
『そこまで覚えていて名前が出てこないのかい?』
「ミミル」
『賭けにでた勇気は買うよ。ただ彼女の見ためは純日本人だ』
「山本ミミル」
『そっちを重視しちゃったのか』
「田中ミミル」
『ミミルが間違っているとは思わないのかい?』
「山本田中」
『ツッコミが三つくらい思いついて、どれを選んでいいか迷ってしまったよ』
「合ってるだろ?」
『自信はすごいんだね。もう三つ全部ツッコむよ。ミミ要素ゼロじゃないか。山本も田中も合ってないから。そんな名前をつけられたら、死ぬまで親を恨むだろう』
「ツッコミ上手だな」
『ありがとう。決して上手くなりたくなかったことだけは、君にはわかってもらいたいんだ』
「それで、答えはなんなんだ?」
『わかってもらえないんだねこのクジュ……彼女は天見カナミだよ』
「あーあーそうだそうだ。もうここまで出かかってたんだけどな。惜しかったなー」
『出かかった結果が、山本田中なんだな』
少女は大きくため息をついた。瑛理の予測不能な言動には慣れている様子だが、付き合うことに疲労を感じている様子だった。
少女は二歩ほど進んだが、瑛理は止まったままだった。少女が訝しげに振り向くと、瑛理は腕を組んだまま、仁王像のようなポーズを保っていた
『どうかしたのかい? 早く向かわないと後片付けが終わってしまうよ』
「ここを進むってことは、天見とすれ違うわけだよな」
『当たり前じゃないか』
「どうすればいいんだろう?」
『はあ?』
「見なかったフリか、軽く挨拶か、会釈だけか、それとも話しかけた方がいいのか」
『君はとてもめんどくさい』
「俺と天見は別に友達ってわけじゃないし、微妙な感じすぎて正しい対応がわからない」
『深く考えると正解なんてないよ人間関係なんて。そんなに意識しているってことは、なんだ君は彼女が好きなのか?』
「そんな言うなよ〜どちらかと言うと嫌いだよ〜」
『気持ち悪っ、なんで照れてるんだよ。でもボクにそう言うってことは、嘘ではないみたいだね。嫌いなんだったら、何食わぬ顔で通り過ぎればいいじゃないか』
「そうかもな……でも一応知り合いだけどそれでいいのか」
『君は非常にめんどくさい。もう自分の中で答え出てるよね。軽く挨拶だけして通り過ぎろ』
瑛理はようやく動き出した。変に意識しているのか、角ばってぎこちない歩みだった。
周囲に聴こえないほどの小声で軽く挨拶と、呟いている姿は不気味だった。夜ならば七不思議になれるかもしれない。
天見はしきりに女子生徒に話しかけていた。何度か頷き、必死に慰めなのか共感の言葉を投げかけているようだ。
徐々に迫る長身の男。もちろん瑛理だが、近づくたびに表情から余裕が失われているようだった。軽い挨拶をしなければいけない。気持ちとしてはまるで軽いものではなく、重石を背負っているかのようなプレッシャーを感じているようだった。
天見の属する五人組を通り過ぎる際、瑛理はあまりにも露骨に片手をあげた。
「や、やあ、刃渡先輩だよ」
全然さりげなくない口調で名乗っていた。
誰しもが突然の自己主張に対応出来ず、時間が止まったかのような空気を感じた。何故だろう、氷の部屋にぶち込まれたように暴力的な痛みを感じた気がした。
当の天見に至っては、瑛理などまるでいないかのように、無視し続けていた。チラリとも後ろを振り向くそぶりすらなかった。
「う、うぃっす」
「……こ、こんにちわ」
優しい後輩が返事をしてはいたが、困惑に瞳が揺れていて、雰囲気はさらに痛ましかった。
瑛理は足早にその場から立ち去った。
小走りで追走する少女の視線は、どこか憂いを帯びていた。
『軽くの塩梅がわからなかったんだね。うんうん、わかるよ』
「急に理解を示すのやめて。ストレートになんかクルから。しかも天見にはスルーされたし」
『いや、なんかごめん。今更だけど、彼女が前に言ってたことを思い出したよ』
「……なんか言ってたか?」
『昼休み以外に出くわしても話しかけないでくださいね、って』
「そういえばそういう女だったわ! だからちょっと嫌いなんだよちくしょー」
瑛理は負け犬のように吠えた。その背中は身長よりも小さく見えて、なんだか弱々しかった。
天見カナミ。瑛理の一年後輩の女子生徒である。
何かしらを抱えている生徒が多い中、珍しく社交性に富んでおり、学年問わずに注目を集めていた。
社交性を持ち、社会性も持ち合わせているということは、人間関係内での立ち振る舞いも得意分野である。
だからこそ他者から見た姿を崩さないように努力している節があった。その理由は、単純に人気のためという部分が大きかった。ちやほやされることが天見カナミの目的と言える。
天見カナミは、自らの人気が下がるような行為は極力避ける。
例えば、校内でも腫れ物扱いされる、なんか時々一人でブツブツ喋ってる変な先輩とは人前では関わらない、などだった。
そんな彼女なりの行動原理に則って、瑛理は見事にスルーされたのだった。
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