早雲と茶々丸

ぺぺろんちーの

序章 分岐

 堀越公方ほりごえくぼう

 室町幕府八代将軍・足利義政あしかがよしまさの異母兄である足利政知あしかがまさともが伊豆に開いた、幕府の関東支部だ。初代政知は既に亡く、現在は息子の足利茶々丸あしかがちゃちゃまるが公方になっている。その伊豆に、明応めいおう二年、ある男がやってきた。

 伊勢新九郎いせしんくろう

 幕府の高級官僚である伊勢氏の分家・備中伊勢氏の出身で、姉が嫁ぎ、甥が当主となった駿河の今川氏の元で勢力を伸ばしていた。新九郎がこの度、駿河から伊豆までやってきたのには理由がある。

 堀越公方足利茶々丸を、討伐するためだ。

 茶々丸は継母の円満院えんまんいんとその息子で公方を継ぐことになっていた潤童子じゅんどうじを殺害し、公方の座を力ずくで奪い取った。しかし、時を同じくして潤童子の兄・清晃せいこう義澄よしずみと名乗って十一代将軍の座につき、茶々丸は将軍の身内を殺した謀反人になってしまったのだ。母と弟を殺された義澄は異母兄を決して許さず、すぐさま伊豆から近い駿河の今川氏に茶々丸討伐の命令を下した。甥からその任を与えられた新九郎は、応仁の乱の頃からの旧臣と今川の足軽を率いて、伊豆に出陣したのだった。


「ふむ、茶々丸が年貢を上げて困っていると」

「そうなんです。奴が公方になってから、ろくなことがありません」

 堀越御所に攻め込む準備のため滞在した村で、新九郎は農民たちから茶々丸の情報を集めていた。聞こえてくるのは悪評ばかりだ。年貢を上げられたとか、父の代からの旧臣を追い出したり殺したりしているとか。とくに、年貢を上げて民の生活を圧迫していることが新九郎の神経を逆撫でした。

 新九郎の信条は「経世済民」。為政者は流通の仕組みを作って民を助けるべきだという意味だ。為政者は民を助けるものだ、と言い換えてもいい。

 私利私欲のために政治を行う守護大名が溢れるこの世の中で、そんなものを目指しているのは新九郎くらいであろう。腐敗政治の蔓延る幕府のことも新九郎はとうに見限っている。伊豆に来たのも、幕府の命は口実に過ぎず、伊豆に「経世済民」の政治を敷くのが新九郎の真の目的だ。民を虐げる茶々丸の行いは、新九郎の信念と正反対のものだった。

(茶々丸は、富を得るために力ずくで公方の座に就いたのだろうか?)

 もしそうなら、とても許してはおけない。平野の向こうにそびえる山々を眺めながら、新九郎は決意を新たにした。


 結局、堀越御所に討ち入り建物を全焼させたものの、茶々丸は取り逃がしてしまった。新九郎は伊豆に留まり、御所の西方にある韮山城にらやまじょうを拠点とした。茶々丸が誅殺した家臣の城だったものである。茶々丸は甲斐に逃れ、再起を図ることにしたらしい。



 時は流れ、明応七年。新九郎のもとに、茶々丸が動きだしたという知らせが入った。

「茶々丸が奥伊豆の深根城ふかねじょうに入ったそうです」

「そうか。いよいよだな」

 家臣から報告を受けた新九郎――改め宗瑞は、入道頭を揺らして頷いた。

 新九郎は堀越御所焼き討ちの後、茶々丸を取り逃がしたことについて将軍に対する(形だけの)謝罪と、討ち死にした兵たちに対する弔い(こっちは本心だ)をかねて出家し、早雲庵宗瑞そううんあんそうずいと名乗っていた。

「伊豆に戻ってきたということは、甲斐で強力な後ろ盾を得たということでしょうか」

「そうであろうな」

 だとしたら、短期決戦が望ましい。援軍が到着する前に、深根城の茶々丸を討つ。宗瑞は早速兵たちに言いつけ、戦の準備を始めた。


 その夜のこと。宗瑞の寝所を訪ねる者があった。

「夜分遅くに申し訳ありません、御屋形様」

「構わぬ。入れ」

 襖を開けて入ってきたのは、韮山城の元の主に仕えていた杜若丸とわかまるという若武者だった。主亡きあとも韮山城に留まっていたのを、宗瑞が伊勢氏の家臣団に招き入れたのだ。

 杜若丸は宗瑞と向かい合って座ると、居住まいを正した。

「茶々丸様のことで、お耳に入れていただきたい事がございます」

 かつての主を誅殺した茶々丸を「様」と言うのに違和感を覚えたが、口を挟まず先を聞くことにした。蝋燭の火も杜若丸の言葉に耳を傾けるように、静かに揺らめいている。

「私は韮山城に来る以前は、犬縣政憲様に仕えておりました。堀越公方家の家宰であった方でございます」

 家宰は、主に代わって内政を行う家柄のことだ。

「政憲様は、茶々丸様の養育係でもありました。

 茶々丸様は政知様のご長男としてお生まれになり、当然、嫡男として育てられました。しかし、政知様の後妻である円満院様がお生みになった清晃様と潤童子様を利用しようとする者が現れました。細川政元です」

 細川政元ほそかわまさもとは、幕府で管領--将軍の補佐を担当する役職--を代々務める細川家の当主である。

「政元は自身の息子と従兄弟同士の関係にある清晃様と潤童子様を将軍と公方にし、西と東を政知様とともに支配しようと考えました。そのためには、お二人の異母兄である茶々丸様が邪魔だったのです。

 そこで政元は円満院様に接触しました。円満院様は自身の御子を公方にしたいと考えており、茶々丸様を疎んじていたのです。二人の利害は一致していました。

 円満院様は政元と共謀して、政知様に茶々丸様が謀反を企んでいると讒言し、茶々丸様を廃嫡させてしまったのです。

 おそらく、政知様も政元の企みに乗るつもりだったのでしょう。弁明しようとする茶々丸様を、政知様は幽閉してしまわれました」

 宗瑞は息を飲んだ。初代公方は、実の子になんとむごい仕打ちをしたのか。それも、つい先日まで嫡男として可愛がっていた長男に対してだ。元服せず二十代となった今でも幼名を名乗っているのも、そのためだろう。

「大人たちの私欲から、茶々丸様の不幸は始まったのです」

 杜若丸が膝の上で拳を握りしめた。

「私のかつての主、政憲様は茶々丸様を許していただけるよう嘆願し、謀反人扱いを受け切腹させられました。茶々丸様の味方は一人もいなくなってしまったのです。

 五年前、いよいよ清晃様を将軍に、潤童子様を公方に据える準備が整った頃、事件が起きました。政知様がお亡くなりになり、茶々丸様がそれに乗じて番兵を殺し、牢を脱したのです。そのあとは御存じの通り。茶々丸様は円満院様と潤童子様を惨殺し、公方となりました」

(茶々丸は公方の座を力ずくで手に入れたのではなく、自分のものだったのを奪い返したのか……)

 杜若丸の話は続く。目には涙すら浮かべていた。

「公方になってからの所業も、茶々丸様が悪人だからではないのです。旧臣を駆逐したのは、政知様とともに自分を陥れた者たちへ意趣返しをするため。年貢を上げたのは、残った家臣たちが富を得るために政治を知らぬ茶々丸様を操ったため。あの方はいつだって、身勝手な大人たちの犠牲者だったのです」

 部屋にはしばし、杜若丸の嗚咽だけが響いた。宗瑞は黙り込み、たった今聞いたばかりの、足利茶々丸の半生に思いを馳せる。

「……茶々丸様討伐をやめてほしいとまでは言いません」

 再び口を開いた杜若丸は、涙声になっていた。

「茶々丸様が殺人や悪政を行ったのは事実。けじめはつけねばなりません。ただ、不幸なあの方が極悪人として人々の記憶に残ってしまうことが、私は本当に辛い。ですから御屋形様、せめて貴方だけは、茶々丸様の不幸を知っていてください」

 深々と頭を下げ、杜若丸は廊下に出た。

「長話、失礼いたしました」

 杜若丸が鼻をすすりながら襖の向こうに消えたあとも、宗瑞は一人、蝋燭の火を見つめていた。ゆらゆらと揺れる火が宗瑞の目に映る。宵闇と炎とを交互に映す瞳の奥には、あの言葉が浮かんでいた。


 経世済民。


 宗瑞の信条だ。為政者は、民を助けるためにある。その信念に基づいて、宗瑞は茶々丸を討つつもりだった。

 しかし、茶々丸は、救われるべき「民」に入らないのだろうか?

 今まで、新九郎の中で茶々丸は倒すべき民の敵だった。しかし、宗瑞は彼の悲しみに満ちた半生を知ってしまった。

 殺人や悪政を厭わない為政者。しかしその正体は、人を殺めることでしか失った居場所を取り戻し、維持することができない、哀れな少年。

 それを悪人として討ち取るような者に、民を助けることなどできるのか。

 不幸な子供一人、救えないようならば。

 そんなものは、経世済民とは呼ばない。


 ついに茶々丸討伐の日がやってきた。茶々丸も宗瑞が攻めてくることを分かっており、それなりの防備を巡らせていたが、宗瑞の戦略のほうが一枚上手だった。やすやすと防衛線をくぐり抜ければ、あとは防備に人員を割きすぎて手薄になった深根城を焼き、茶々丸を炙り出すだけだ。

 しかし、城の半分以上が焼け落ち、家臣や女中が逃げ出したあとも、茶々丸は出てこない。ちなみに、宗瑞は深根城から出てきた者たちには一切危害を加えていない。敵を皆殺しとあっては宗瑞の理念に反するし、用があるのは茶々丸だけだ。

「まさか」

 気を揉んでいた宗瑞は、はたと思い当たり、激しく炎を上げる深根城に飛び込んだ。


 むせ返るような黒煙の中、一番奥の部屋まで進む。部屋の中心には白装束姿で短刀を手にした少年が正座していた。おそらく、あれが茶々丸だろう。宗瑞は、ずっと追っていた敵を初めて目の当たりにした。

 小さく細い身体つきは、成長期を日光の届かぬ地下牢で過ごし、思うように体が成長しなかったからだろうか。女のように細い髪はぼさぼさで、煤がついている。不健康に色白な顔も、黒い煤で汚れていた。突然現れた宗瑞を力なく見つめる瞳には、涙の膜が張っている。

「堀越公方、足利茶々丸だな」

「そうだ」

 あまりにも小さく掠れた声だったので、炎に包まれた柱が倒れた音にかき消されて聞こえないところだった。

「儂は将軍様の命で参った、伊勢宗瑞と申す者」

「そうか」

「自分で命を絶つつもりか」

「お前には、関係ないだろう」

 茶々丸は小さな手に持った短刀を強く握った。

「一度は甲斐に逃れ、再起を図ったそなたなら、もう一度脱出するものと思っていたが」

「もういい。もう、いいのだ」

 茶々丸の目に溜まる涙は炎を映して揺れるばかりで、一向に流れてこない。

 そこで、宗瑞はようやく気づいた。茶々丸は涙をこらえて、公方として立派に死のうとしているのではない。

 泣けないのだ。

 この子供は、泣き方を忘れるほどに、絶望を味わい、涙を涸らしてきたのだ。

 --やはりこやつは、救われこそすれ、倒されるべき人間ではない。

 宗瑞は、考えていたことを実行に移す決意を固めた。

 茶々丸が唇を引き結び、短刀を自らの腹に刺そうと構え直す。刀身が白装束の中に埋まる前に、宗瑞は刀を振り上げ短刀をはね飛ばした。短刀は茶々丸の手を離れ、炎の中に落ちる。

「なにを……」

 そう言いかけて、茶々丸の言葉は途切れた。すかさず刀を逆さまに構えた宗瑞が、柄で茶々丸の鳩尾を突き、気絶させたのだ。

 ぐったりとした茶々丸を肩に担ぐ。あまりの軽さに恐怖すらおぼえた。


 宗瑞が城外に出た瞬間、炭と化した深根城は跡形もなく崩れ落ちた。

「宗瑞様、ご無事でしたか!」

 待っていた家臣たちが駆け寄ってきて安堵の声を漏らす。

「宗瑞様、その者は?」

「こやつが足利茶々丸だ」

 おおっ、と家臣たちがどよめく。さっそく首を斬ろう、という声も聞こえてきた。

「茶々丸の命は取らぬ」

 宗瑞の言葉に、家臣たちは一気に静まり返った。

「ちと事情が変わった。茶々丸は儂が預かる」

 呆然とする家臣たちの間を抜け、宗瑞は馬に跨った。茶々丸を馬の首と自分の身体の間に座らせ、馬の腹を蹴る。砂と煤を撒きあげて駆けだした宗瑞の馬を、我に返った家臣たちが慌てて追いかけた。


 茶々丸が目を覚ますと、見知らぬ天井が目に入った。視界の端に黒い袂が見える。

 --僧侶か。ここはどこかの寺なのか?

 軽く引っ張ってみると、袂の主がこちらを振り返る気配がした。

「おお、起きたか」

 その声は、激しく燃える炎の中で聞いたものと同じだった。意識が一気に鮮明になる。

「あんたはさっきの……!」

 茶々丸は起き上がり、宗瑞を睨みつけた。

「まあ落ち着け」

 宗瑞は、すかさず茶々丸の口に水の入った茶碗を押しつけた。

「むぐっ……⁉︎」

 茶々丸の喉は無意識に動き、こくりこくりと水を飲み込む。よく考えると、喉がからからだった。

「ここは韮山城。今は儂の城だ」

「そんな所に俺を連れてきて、なんのつもりだ」

 水を飲み干した茶々丸は再び瞳に警戒心をたぎらせる。通常より茶色っぽい大きな黒目が、宗瑞を見据える。

 --綺麗な澄んだ瞳だ。多くの者を殺した人間でも、このような目ができるのか。

 宗瑞は、ふっ、と口元を緩めると、言葉を紡いだ。

「そなた、悔しくはないのか?」

「はあ?」

 茶々丸は意味が分からないといった表情を見せる。

「陰謀に巻き込まれ、人並みの幸せも得ぬまま死んで、悔しくないのかと聞いておる」

 茶々丸が眉根を寄せた。これまでの人生を振り返っているのかもしれない。

「儂の信条は『経世済民』。為政者は弱き民を助けるためにあるという意味だ。その信条に従えば、儂はそなたを助けるべきだと思っておる」

 宗瑞は、茶々丸の前に座りなおすと。

 手を、差し出した。

「このまま、儂のもとに居れ。家臣らにもそなたの事情は話しておいた。そなたを虐める者は、どこにもいない」

 茶々丸は俯いた。その耳が赤くなっているように見えたのは、柔らかな蝋燭の光のせいだろうか。

「でも、あんた将軍の命令で俺の首を取りにきたんだろ。いいのか」

「ふむ」

 宗瑞は少し考えると、懐から短刀を取り出した。

「失礼」

 その短刀で、茶々丸の髪を髪紐ごと切り取る。

「な、にを……⁉︎」

 うなじにも届かぬほどの長さになった髪に手をやり、茶々丸は呆けた声をあげた。

「『見事茶々丸を討ち取りましたが、死体は怨みを募らせた領民たちに奪われ、見るも無惨に八つ裂きにされてしまいました。残ったのはこれだけです』」

「は……」

「そう書いた手紙を、この髪束とともに送ってやればよい」

 いたずらっぽく笑う宗瑞に、茶々丸は呆れたように肩の力を抜いた。

「なんであんたは、俺なんかのためにそこまで……」

「言っただろう、『経世済民』だと。強き者が弱き者を助けるために在る世が、儂の理想だ」

 宗瑞は再び茶々丸に手を差し出す。茶々丸は俯いたまま「ふっ」と笑うと、宗瑞の手を取った。

「いいぜ。あんたの言う『経世済民』の世とやらを、俺に見せてみろ。人の欲が回すこの世の中にそんなものが作れるんなら、もしもそんなことができるんなら、――俺みたいな奴でも幸せになっていいんだって、証明してみろ」

 顔を上げて無理やり笑みを作った茶々丸の目からは、大粒の涙が溢れていた。


 そのあと、宗瑞は足利茶々丸を討ち取ったとして、茶々丸の髪と手紙を幕府に送った。茶々丸の髪は普通より色が薄いため、将軍清晃は「確かに異母兄あにの髪である」と、あっさり茶々丸の死を信じた。

 茶々丸は足利の家名と身分を捨て、宗瑞の小姓として家臣団の一員になり、韮山城で暮らすことになった。



 ここから先は、どの歴史書にも載っていない話。

 百人分の不幸を味わった少年が、千人分の幸せを手にするまでの、物語。

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早雲と茶々丸 ぺぺろんちーの @pepe_1019

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