第七話 田舎へ

 盆を目前に控えた夕方。私は早めに仕事机を片付けていました。

「おや。今日はばかに早いじゃないか」

 黑澤はそんな私を見かねてか声をかけてきました。

「アア。今夜の夜行で國へ帰るよ。君は帰らないンだったね」

「そうさ。明日には雪子がこっちへ来るんだ。そろそろ祝言も考えねばならんからな」

「やかましい。僕の前では祝言の話はよしてくれよ鬱陶しい」

 私はまとわりついてくる蚊を追い払うように祝言と云う言葉を追い払おうとしました。まだ私は祝言など到底ありえぬ立場ですから、黑澤が羨ましくてたまらないのです。それでもって自慢話などされたのならば鬱陶しくも感じてしまうのです。

「君こそどうなんだい?アノ給仕の娘とは仲良くやってるかい?君の急いでいる格好を見ると浮かれているな?定めし國へ連れて行くンだろう」

 黑澤は私の胸の内を見透かすようにそうたずねました。

うちへ連れて行くのか?」

「馬鹿。まだ何の取り交わしもしていない娘をのけのけと家へ連れて行ける筈がないだろう。彼女は田舎が好きなんだ。僕のばあさんの家へ通すよ」

「そうかいそうかい。マァ、せいぜい楽しんでおくれよ。雪子にはよろしく伝えておくから、君から俺の両親へよろしく伝えておいてくれ」

 黑澤はどこか嬉しそうでした。彼の婚約者の雪子とは長らく文通ばかりだったそうですから、会えるのが余程楽しみなのでしょう。

「君にあの店を紹介してからというもの、俺は殆ど君と飲む機会が無いんだ。帝都こっちへ帰ったら一杯付き合え」

 黑澤は私にそう云い残すと、足早に帰って行きました。

「浮かれているのはどっちなんだか…」

「懐かしいなァ。私も若いころは見合いとは云え、婚約者に会うことが私にとっての大きな喜びだった」

 私の呟きに反応したのは上司の山上さんでした。

「不思議な話だがな、こんな爺にも若いころがあったのだよ。だからこそ、黑澤の気持ちもわかる。そして君の気持ちもね。岡崎。これは君の里帰りの足しにしてくれ給え」

 山上さんはそう云うと一枚の封筒を差し出した。

「やっ、山上さん。それはいくら何でも困ります」

 私は驚いて辞退しようと思ったのですが、山上さんは静かに微笑んで云いました。

「幾ら大蔵官吏と云え渡せる金は無尽蔵にあるわけではない。少ないが取っておけ」

「しかし…」

「君もいつぞやの娘を連れて行くのだろう?金はあったほうが良い。あとで足りずに後悔するぞ?」

 そう云われた私はぐうの音もでませんでした。

「あっ、ありがとうございます」

「良い旅をな」

 山上さんはそう云って帰って行かれました。

 〇

 日が傾き、徐々に夕闇が押し寄せてくる空の下を蜩の声は風流に啼いていました。もう夕刻だと云うのに未だに蒸し暑く、流れる汗をハンケチで拭いながら私は待ち合わせてるアリスの裏口へと向かいました。

 裏口の前には既に余所行きの洋服に身を包んだ婇が立っていました。

「ヤァ婇ちゃん。待たせたね。暑かっただろう?」

「ううん。あたしは平気よ。人より体温が少し高いのかしら?」

 婇はそう云いながらも髪の毛は汗に濡れ、額から露が零れ落ちておりました。

「すまないね。こんな暑い中を待たせてしまって」

 そう云って私は新しいハンケチで彼女の汗を拭いてやりました。

「あたしね。実は今日という日がとても楽しみだったの。昨日の夜はよく眠れなかったわ」

「ハハハハ。まるで都会へ出かけるような心持ちだな」

「不思議よね。ただ田舎へ戻るようなものなのに、こんなにも嬉しいだなンて思わなかったわ」

 私はこんな無邪気に笑う婇が愛おしくて仕方がありませんでした。今すぐにでも抱き締めてしまいたい衝動を抑えつつ、歩いて十数分で東京駅へとたどり着いたのです。

 それも束の間、ジリジリジリとけたたましく鳴り響く発車時刻を告げるベルが聞こえてきました。

「まずい。急ごう」

 私は婇の手を引いて走り始めました。

 人ごみの中をかいくぐり、幸い切符は購入していたのでそのまま改札を潜り抜け、間一髪のところで目的の列車へ飛び乗りました。

「婇ちゃん。ごめんね。ゆっくりしすぎたばかりに」

「ううん。大丈夫よ。それに…それになんだか楽しかったわ」

 婇は無邪気に笑って見せました。

 こんな無邪気な笑顔をいつまでも見ていたい、守って居たいと私は強く思ったのでした。

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夕立 正保院 左京 @horai694

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