第六話 火炙りの如く暑い日
大きなお天道様がジリジリと街を焦がすように照り付ける盆前の正午は、まるで火あぶりにでもするかのような暑苦しい熱風が吹き付けておりました。火渡りのように熱い地面からはもわもわと陽炎が立ち、あたかも目の前が歪んでいるかのような錯覚を見せます。
私の国元は所謂避暑地ですから、暑苦しい夏も帝都よりは余程か涼しいのです。もしもここが私の国元でしたら、今にも洋服を脱ぎ捨てて川へ飛び込んでいることでしょう。
私は早くこの暑さから逃れようと、足早にアリスへと向かいました。
アリスの店の前では婇が桶の水を
「ヤァ。婇ちゃん。打ち水とはなかなか涼しげだね」
「アラ。崇文さん。いらっしゃい」
婇は額の汗をハンケチで拭って私に微笑みかけました。
「もう。暑苦しくッてやんなっちゃうわ。さっきも氷売りのおじさんが氷を持ってきてくれたんだけれど、早く店の中へ運ばなきゃ溶けちゃうの。大変だったわ」
「それは大変だったねぇ。氷売りも大変だ。どこかで倒れてなきゃいいんだがな」
「マァ、それがお仕事なんだし、仕方がないわよ。さぁさぁ。早く入って頂戴。暑さで倒れちゃうわ」
そう云って婇は私を店の中へと迎え入れてくれました。
店の中は存外に涼しく、過ごしやすい環境にありましたが、この暑さのせいか客はいつにも増して多く入っていました。
お店からすれば嬉しい話ではあるのですが、人が多いとどうしても暑苦しくなってしまうものですから私は少し気が滅入ってしまうのです。それに加えてガヤガヤと姦しいほどの話声が五月蠅いので、話もできたものではありませんでした。
私は取り敢えずいつものカウンター席の一番端の席に座り、
やがていつもの料理が出され、それを平らげた頃、婇は私の横を通り過ぎる間際に声をかけました。
「崇文さんごめんなさいね。うるさかったでしょう?」
「婇ちゃんは何も悪くはないさ。こんなに暑いのに店に入ってくるななんて殺生なことは云えないさ」
「お客さんがたくさん来てお店的には嬉しいの。でもね、こんなにたくさんお客さんが来てるんだもの。忙しったらありゃしないわぁ」
「ハハハハ。お疲れ様」
「崇文さんこそ。いつもお勤めご苦労様です。これ飲んで午後もがんばってね」
そう私に微笑みかけて婇は私の前に食後の珈琲を置いて行きました。
不思議な話なのですが、婇から「がんばって」と云われるととても嬉しいのです。何と云いますか、體の底から気力が
〇
「今日も一日ご苦労様」
焦げ茶色の背の高い置き時計が「ボーン、ボーン」と重みがある低音が鳴り響き、十二時を告げました。店は既に暖簾を下ろし、ほかの客は皆帰るなり他の飲み屋へ飲みに行くなりして、この店の客は私のほかには誰も居ません。
本来ならば私も帰らねばならぬのですが、私は常連客のよしみで勧められるがままに店に残っていました。
私は、婇と葉月に挟まれて、交互に酒を注がれていました。私は酒には専ら強いので、決して酔い潰れずに、注がれた酒を飲み干します。私は酔っていませんので、意識はハッキリと残っていましたから「アア・・・酒代が・・・」と嘆きつつ、二人に色々な話を聴かせていました。
「ネェ。岡崎さんの国元ってどちらなの?」
葉月は私にそう訊きました。
思えば国について彼女たちに話したことは一度もありませんでした。
「ウーン。この帝都から随分と離れたところで、有名なところも少ないからなァ。この帝都から何里も離れた山の中だよ」
「山の中かァ…上京してきたのね。あたし生まれも育ちもこっちだから、田舎ってよくわからないわ。婇も上京してきたのよね?」
「そうよ。あたしの国元も田舎町だったわ。口減らしのために出てきたようなものだもの。でも、ときどき思うの。またあんな田舎へ行ってみたいって」
「ネェ、岡崎さんは今度のお盆休みは国へ帰るの?」
「アア。去年の秋に親父が死んでね。新盆だから墓参りへ行かなければならないんだ」
「そうだったの…それは知らなかったわ。お気の毒に…だったら婇も行って来たら?」
その時、葉月は私に目くばせをしました。
定めし、婇も連れていけと云いたいのでしょう。
「えっ?あたしも行くの?」
「だって、行ってみたいんでしょう?田舎。岡崎さん?いいでしょ?連れてってあげなよ」
私は困惑しました。
婇を国へ連れて帰るとして、私の家族にはなんて説明すれば良いのでしょう。所詮彼女とは未だに給仕と客の関係ですから、結婚を約束しているわけではないのです。そのような事を私の父は許すはずがないのです。
そんな困惑する私を察したのか、葉月は再び酒を注ぎ始めました。
「岡崎さんの実家は立派なものでしょう?別荘の一つや二つお持ちじゃないかしら?」
「別荘?そういえば別荘はないけれど、おばあさんが暮らしていた家ならそう遠くないところにあるよ。ただもう誰もしばらく住んではいないよ」
「いいんじゃない?行ってきなさいな」
「でっ、でも、もう何年も誰も住んでいない古屋だよ?」
「私は…かまわないわ。崇文さん。崇文さんさえよろしかったら、あたしを連れてって頂戴」
婇はなんだか楽しそうでした。そこまで田舎を好いてくれるとは思ってもみませんでしたから少し驚いたと共に、なんだか嬉しい気さえしてくるのでした。
そして暑さはさらに猛威を増して、お盆がやってくるのです。
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