第五話 心の中の葛藤

「ヤァ。最近どうだね?」

 登庁してきた黑澤は私の隣の席に座ると、そう声をかけてきました。

「どうだね?とは何のことだ?」

「寝ぼけたことを云うんじゃァないよ。何のことかって、あの女給仕のことに決まっているじゃないか」

 黑澤は暑苦し気に襟締ネクタイを緩め、机に立ててあった団扇を手にパタパタと煽ぎながら私にそう尋ねました。

 今日は朝から日差しが強い真夏日で、外では蝉が鬱陶しくなるくらいにひっきりなしに鳴いていましたから、余計に厚く感じるのです。

「あれから毎日のように足しげく通っているらしいじゃないか。あの娘に気があるんだろう?君ももう嫁を貰ってもいい年ごろだ。俺が貰うのだからおかしいことはない。それに君に縁談を持ち掛けるものも居らんだろう?この際彼女を何かに誘ってみてはどうだろうか」

「そう云われてもだな…」

 私は婇のことを大変気に入っており、機会さえあればぜひ我が妻にと考えてはいるのですが、私は彼女の気持ちを一度たりとも聞いた事はないのです。私が好いているのだから彼女も私を好いてくれているなんて虫の良い屁理屈などある筈がないのです。

 定めし彼女には既に意中の男がいるのだろう。そう思えて仕方がないのです。何故ならばあの店に通っている男は私だけではないのですから。

 彼女の気持ちも考えずに行動するなど私には到底できるものではありませんでした。

「愚図るんじゃァないよ。彼女の気持ちなど聞いてみなければわからないじゃないか」

 黑澤は手に持った団扇で私の頭を二度叩きました。

「これ黑澤。そう人の頭を叩くもんじゃァないよ」

 そう黑澤に声をかけたのは白髪頭の初老の男性でした。それが私たちの上司である山神氏なのです。

「やっ、山神さん」

「何だいそのおかしな格好は。襟締をそうだらしなく緩めるんじゃァないよ。君にこそ嫁が必要なのではないかね」

 山神さんは白く上品な髭面でカッカと笑いました。

「山神さん。そればっかりは堪えてください。私の許嫁はまだ女学校へ通っておるのですから」

 黑澤は困ったようにそう云いました。

「そうだろう?ただ、時間が必要なのは君だけではないのだよ。それを覚えておきたまえ」

 山神さんはそう微笑んで帰って行きました。

 外では相変わらず蝉がひっきりなしに鳴いています。

「全く、こんなに暑いと気が滅入ってしまいそうだよ。襟締くらい外して仕事をしたいものだな」

 黑澤は暑苦しそうに襟締を結びなおしてそう呟きました。

 私はそんな黑澤をよそに窓の外を眺めていました。

 「時間が必要」その言葉は私を庇ってくれたのですが、同時に私の胸に突き刺さりました。ズルい言葉です。

 その「時間」は婇の気持ちを知らない私の心を焦らすのです。早く彼女の気持ちを知りたい。ですがそれが必ずしも私を思ってくれているのか。それはわからないのです。

 彼女の気持ちを知るのが怖い。それは否定されるかもしれない恐怖と同じなのかもしれません。「否」と云われるのが怖くて彼女の真意を知ることができぬのです。

 そんな葛藤を経ても、今も思うのは彼女のことばかりなのです。


 

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