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2019年9月26日 21:59
フランソワ、単にフランス王即位だけでなく、現状維持以上のことを望めない体調であったのかもしれませんね……
作者からの返信
お言葉の通り、1831年11月末といえば、病はかなり悪化していたと考えられます。けれども彼は、それを決して人に悟らせませんでしたし、自分でも認めようとしませんでした。軍務復帰の強い意志と、ナポレオンの息子としての矜持があったからでしょう。もし、この時期に、きちんと静養していたら…。プロケシュもディートリヒシュタイン伯爵も、しょっちゅう、彼に会っていたわけではありません。毎日会っていたのは、3人の軍の付き人達でしたが、彼らは、フランソワの監視役です。また、フランソワは、マルファッティ医師を信用していませんでした(あれだけ、ヤブ診断をしてたわけですから)。やはり、彼は、どうしようもなく、孤独だったのです。メッテルニヒに逆らい、強引にでも彼を療養に連れ出すのは、母親の役目だったと、私は考えるのです。そうすれば、ライヒシュタット公は、まだまだ、死ななくて、済んだ筈です。なんかもう、やり切れません。ですが、今しばらく、この時代のウィーンをお楽しみ頂けるかと。いつも、本当に、ありがとうございます。
フランソワ、単にフランス王即位だけでなく、現状維持以上のことを望めない体調であったのかもしれませんね……
作者からの返信
お言葉の通り、1831年11月末といえば、病はかなり悪化していたと考えられます。けれども彼は、それを決して人に悟らせませんでしたし、自分でも認めようとしませんでした。軍務復帰の強い意志と、ナポレオンの息子としての矜持があったからでしょう。
もし、この時期に、きちんと静養していたら…。プロケシュもディートリヒシュタイン伯爵も、しょっちゅう、彼に会っていたわけではありません。毎日会っていたのは、3人の軍の付き人達でしたが、彼らは、フランソワの監視役です。また、フランソワは、マルファッティ医師を信用していませんでした(あれだけ、ヤブ診断をしてたわけですから)。
やはり、彼は、どうしようもなく、孤独だったのです。
メッテルニヒに逆らい、強引にでも彼を療養に連れ出すのは、母親の役目だったと、私は考えるのです。そうすれば、ライヒシュタット公は、まだまだ、死ななくて、済んだ筈です。
なんかもう、やり切れません。
ですが、今しばらく、この時代のウィーンをお楽しみ頂けるかと。
いつも、本当に、ありがとうございます。