公がそのようなことを口にするというのは少し意外ですが、なんならこういう迂闊な言葉こそ本心なのでは、という気もします。イーグレットはイーグレットだった、と。
作者からの返信
プロケシュが言ったように、ライヒシュタット公の宗教観は、非常に unfamiliar なものです。神を冒涜するようなことは、当時は、決して口にすべきではなかったし、ましてや祖父の皇帝は、敬虔なカトリック信者です。ライヒシュタット公も、厳格な宗教教育を受けて育ったことでしょう。
その彼が、このようなことを口走ったことに、はっとさせられました。これは、なにか、重要なことなのではないか。おっしゃるように、「本心」という言葉が頭に浮かびました。もっと言うなら、隠された心の発露。
土着の日本人である私は、当初、よその国の宗教は、目をつぶって通り抜けるつもりでした。あまりにも難しく、正答がないように思えたからです。所詮、他人事というか。しかし、あえて、泥沼に足を踏み込むことにしました。というか、気づいたら、沼のど真ん中で……。少し先になりますが、この先の展開に、どうかご期待下さい。
貴重な夏休みに、おつきあい頂いて、本当に、ありがとうございます。ご期待にそむくことのないよう、心して、書き次いでまいります。
司祭を遠ざけた
宗教と父
アシュラを通して踏み込んだ内容でした😊
作者からの返信
おっしゃる通りです。
この、死の間際に司祭を遠ざけたことから、魔王のイメージが膨らみました。それが、ベートーヴェンの「第九」やシューベルトの「魔王」、さらにはゲーテのメフィストフェレスまで繋がっていって……
というのが種明かしです。でも話が長くなりすぎて、いろんな要素を盛り込みすぎて、書いたはいいけど、自分でもどうしていいかわからなくなったというのが本音のところです。
ここから小さなテーマを少しずつ分岐させて、全く違ったお話を生み出したいのですが、時間がとれない上に、別の沼に嵌ってしまって身動きができないのが悩みです。
いつも応援、コメント、本当にありがとうございます。とても励みにさせて頂いてます。