フランソワ自身も、結局宮廷の外の人々からしたらそれこそ偶像でしかないのですね……
詳細を知りようが無く、しかし偉業を為したとだけされているナポレオンはフランソワにとっても、また市民達にとっても偶像だったでしょうし、フランソワ自身、偶像の子として偶像にならざるを得ない……
当然で回避しようもないことだからこそフランソワが不憫ですね
作者からの返信
特筆すべきは、フランソワが偶像となってしまったのは、オーストリアの意図が働いているということです。彼は、決して、ウィーン宮廷の外へ、出してもらえませんでした。彼の元に、ボナパルニストや共和派が集結しないように、との用心です。
もちろん、ヨーロッパの御者、メッテルニヒの意図です。
また、パドヴァ公爵のエピソードは、実話です。7月革命の時、在フランスのオーストリア大使・アポニーは、ライヒシュタット公の発達に関する、悪意ある噂を否定しなかった、と、パドヴァ公爵は、言っています。
アポニーの上司は、オーストリア宰相、そして彼の前任者でもあったメッテルニヒです。アポニーは、ウィーンのメッテルニヒと、頻繁に連絡を取り合っていました。
以上を、有罪証拠として、提出します。とてもじゃないけど、メッテルニヒは、シロではあり得ないと、思うのです……。
おお、これは映画になっても良いシーン
7月革命で民衆が叫んだ人物に焦点は素晴らしいです^ ^
作者からの返信
フランソワが「ナポレオンの息子」としか認識されないということに、アシュラは深い嫌悪を抱いていました。作者である私も、ナポレオン嫌いですし。でも、フランソワの為に何か叫びたい。それで、「Vive François!」と……。
そもそも、フランス革命では、ナポレオン2世の名は、殆ど叫ばれることはありませんでした。全くひどい話です。これではメッテルニヒの思う壺というものです。
過分なお褒めのお言葉を、ありがとうございます! いつも温かい応援、コメント、心から感謝申し上げます。