5
部活の練習中に電話がかかってきた。十分間の休憩中で、きみは携帯のディスプレイに表示された名前を見て手が震えた。あわてて席を立ち、部室を出る。
「もしもし」
聞き覚えのある彼の声が流れてきた。一瞬ふしぎな安心感に包まれて、すぐに緊張が走る。彼の声を聞いて落ち着いてしまうのは一種の条件反射だった。
「椎野? いまだいじょうぶ?」
「うん」
「あのさ」
「うん」
「悪いんだけど……土曜日、行けなくなった」
「ふうん」
戸惑いや落胆は絶対に見せてはならなかった。間髪入れずに言葉を返す。
「ごめん」
「いいよ、べつにそんなに会いたかったわけじゃないし」
きみは心の中で最大級のため息をつく。こんなときまで、こんなことしか言えない自分が嫌いだ。
「そうか」
嘘だよ。
会いたかったに決まってるでしょう。
「悪い、その……」
「彼女ができた」
「知ってるのか?」
「仲良しだったねー、楽しそうに街歩いてたもんね。よかったじゃん、かわいい子で」
「椎野」
「彼女いるなら、誘わないでくれればよかったのに」
ほとんど笑い声みたいにささやいて、きみは言った。やっかみと思われても、どうでもいいような気がした。
「あのときはまだ……そういう関係じゃなかった」
「なにそれ」
「昨日からなんだ、付き合いはじめたの」
「じゃあ、わたしが見たときはまだ彼女じゃなかったの?」
「そう。でもどっちでも関係ないよね」
無表情な声で彼が言った。
「……気にしないでね、べつに」
「今度……いつかさ」
「いいよ、気つかわなくて」
沈黙が流れた。「休憩、あと二分ねー」と部長の優菜の声が響く。
「わたしはあなたの彼女じゃないから、あの子とわたし、どっちが大事?なんて訊かない」
きみは目を閉じて言った。
「でも……ひとつだけ教えてほしい」
彼は黙っていた。
「あなたはほんのちょっとでも、わたしをたいせつに思ってた?」
答えを聞く前に、きみは電話を切った。知らない間に涙がこぼれていることに気づいてはっとする。このまま部室になんて戻れない、きみは手のひらで目もとをぬぐいながらトイレに向かった。
目の赤みが消えるまでと思っていたのに、涙は止まる気配もなく流れつづけた。きみは座り込んだ。誰も入ってこないトイレで、声をあげて泣いた。
どうせなくなる約束なら、最初から欲しくなかった。
息に溶かしてつぶやいた。あいつに言ってやればよかったと思って、それから意地悪な自分が大嫌いになる。
だいぶ経ってからトイレを出た。もう部活は終わってしまっただろうと思って―廊下に出た瞬間、悠介とぶつかりそうになった。
「おい」
誰にも話しかけられたくなかった。かわして逃げようとしたきみの腕を、悠介がつかんだ。
「泣いてた?」
「……泣いてない」
きみは強気、というより意地になってつぶやいた。
「どうしたか知らないけどさ」
悠介は手を離し、あきれたように言った。「練習、なんで途中で抜け出すんだよ」
「疲れてただけ」
「ふうん」
「わかるでしょ? 定演前でキテるんだよ、いろいろ」
「まあね、無理してる感じはするよ」
悠介はゆっくりと言った。
「そう?」
「なんかあったの?」
きみはうつむく。なんかあった?―落ち込むたびに何度もあのひとからかけられた言葉。
「べつに」
「誰かいないの? 支えてくれる……みたいなひと」
「ちょっと前まではいたよ」
「ちょっと前までって」
「このひとは心からわたしを心配してくれて、一緒にいるとすっごい楽しいって思えた。でも……もう、会わないと思う」
「どうして?」
「だって……そのひとには、わたしよりもっとたいせつなものがあるってわかってるから」
「そう思い込んでるだけじゃないの?」
きみは黙り込む。
「俺が支えになってやろうか?」
悠介は冗談めかしてつぶやいた。でも、そのジョークさえも、いまは受け容れられなかった。
「キザっぽいこと言わないでよ。わたし、少女マンガみたいなドラマを望んでるわけじゃない」
支えになってやろうかなんて、あのひとは言わなかった―ひねくれた彼のことを思った。あのひとだって、中学のときはきみと同じように素直な言葉の出ない奴だった。なのにいつから、どこできみたちは変わってしまったのだろう。
「わかってるよ、バカ。とりあえず、帰り道で身投げでもされたら困るから、おまえ送ってってやるよ」
「そんなことしないし、もう杖なくても歩けるもん」
「でも、バスで来てるんだろ?」
「そうだけど」
「じゃあ、後ろ乗れ」
「彼女持ちのひとがそんなことしていいの?」
「黙って乗れっての」
悠介の出した自転車の荷台に、きみはふてくされたように座った。少し前にも同じようなことがあったけれど、きみは忘れたふりをして、黙ったまま揺られていた。
なんてね。
―送ってくれて、心配してくれて、ほんとはうれしかった。
きみはつぶやく。
どうして毎日毎日、拗ねたような言葉ばかりが口をついてくるのだろう。
まっすぐに鏡を見つめる。
鏡の中の自分は嘘なんてついていないし、じゅうぶん美しい。
*
結局のところ、きみはわたしで、わたしはきみで。
ねえ、気づいてる?
わたしがきみを、大好きだってこと。
キャンディー・ナイフ 瀬野ハンナ @coffee-cup
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