部活の練習中に電話がかかってきた。十分間の休憩中で、きみは携帯のディスプレイに表示された名前を見て手が震えた。あわてて席を立ち、部室を出る。


「もしもし」


 聞き覚えのある彼の声が流れてきた。一瞬ふしぎな安心感に包まれて、すぐに緊張が走る。彼の声を聞いて落ち着いてしまうのは一種の条件反射だった。


「椎野? いまだいじょうぶ?」

「うん」

「あのさ」

「うん」

「悪いんだけど……土曜日、行けなくなった」

「ふうん」


 戸惑いや落胆は絶対に見せてはならなかった。間髪入れずに言葉を返す。


「ごめん」

「いいよ、べつにそんなに会いたかったわけじゃないし」


 きみは心の中で最大級のため息をつく。こんなときまで、こんなことしか言えない自分が嫌いだ。


「そうか」


 嘘だよ。


 会いたかったに決まってるでしょう。


「悪い、その……」

「彼女ができた」

「知ってるのか?」

「仲良しだったねー、楽しそうに街歩いてたもんね。よかったじゃん、かわいい子で」

「椎野」

「彼女いるなら、誘わないでくれればよかったのに」


 ほとんど笑い声みたいにささやいて、きみは言った。やっかみと思われても、どうでもいいような気がした。


「あのときはまだ……そういう関係じゃなかった」

「なにそれ」

「昨日からなんだ、付き合いはじめたの」

「じゃあ、わたしが見たときはまだ彼女じゃなかったの?」

「そう。でもどっちでも関係ないよね」


 無表情な声で彼が言った。


「……気にしないでね、べつに」

「今度……いつかさ」

「いいよ、気つかわなくて」


 沈黙が流れた。「休憩、あと二分ねー」と部長の優菜の声が響く。


「わたしはあなたの彼女じゃないから、あの子とわたし、どっちが大事?なんて訊かない」


 きみは目を閉じて言った。


「でも……ひとつだけ教えてほしい」


 彼は黙っていた。


「あなたはほんのちょっとでも、わたしをたいせつに思ってた?」


 答えを聞く前に、きみは電話を切った。知らない間に涙がこぼれていることに気づいてはっとする。このまま部室になんて戻れない、きみは手のひらで目もとをぬぐいながらトイレに向かった。




 目の赤みが消えるまでと思っていたのに、涙は止まる気配もなく流れつづけた。きみは座り込んだ。誰も入ってこないトイレで、声をあげて泣いた。


 どうせなくなる約束なら、最初から欲しくなかった。


 息に溶かしてつぶやいた。あいつに言ってやればよかったと思って、それから意地悪な自分が大嫌いになる。




 だいぶ経ってからトイレを出た。もう部活は終わってしまっただろうと思って―廊下に出た瞬間、悠介とぶつかりそうになった。


「おい」


 誰にも話しかけられたくなかった。かわして逃げようとしたきみの腕を、悠介がつかんだ。


「泣いてた?」

「……泣いてない」


 きみは強気、というより意地になってつぶやいた。


「どうしたか知らないけどさ」


 悠介は手を離し、あきれたように言った。「練習、なんで途中で抜け出すんだよ」


「疲れてただけ」

「ふうん」

「わかるでしょ? 定演前でキテるんだよ、いろいろ」

「まあね、無理してる感じはするよ」


 悠介はゆっくりと言った。


「そう?」

「なんかあったの?」


 きみはうつむく。なんかあった?―落ち込むたびに何度もあのひとからかけられた言葉。


「べつに」

「誰かいないの? 支えてくれる……みたいなひと」

「ちょっと前まではいたよ」

「ちょっと前までって」

「このひとは心からわたしを心配してくれて、一緒にいるとすっごい楽しいって思えた。でも……もう、会わないと思う」

「どうして?」

「だって……そのひとには、わたしよりもっとたいせつなものがあるってわかってるから」

「そう思い込んでるだけじゃないの?」


 きみは黙り込む。


「俺が支えになってやろうか?」


 悠介は冗談めかしてつぶやいた。でも、そのジョークさえも、いまは受け容れられなかった。


「キザっぽいこと言わないでよ。わたし、少女マンガみたいなドラマを望んでるわけじゃない」


 支えになってやろうかなんて、あのひとは言わなかった―ひねくれた彼のことを思った。あのひとだって、中学のときはきみと同じように素直な言葉の出ない奴だった。なのにいつから、どこできみたちは変わってしまったのだろう。


「わかってるよ、バカ。とりあえず、帰り道で身投げでもされたら困るから、おまえ送ってってやるよ」

「そんなことしないし、もう杖なくても歩けるもん」

「でも、バスで来てるんだろ?」

「そうだけど」

「じゃあ、後ろ乗れ」

「彼女持ちのひとがそんなことしていいの?」

「黙って乗れっての」


 悠介の出した自転車の荷台に、きみはふてくされたように座った。少し前にも同じようなことがあったけれど、きみは忘れたふりをして、黙ったまま揺られていた。




 なんてね。 

―送ってくれて、心配してくれて、ほんとはうれしかった。

 きみはつぶやく。

 どうして毎日毎日、拗ねたような言葉ばかりが口をついてくるのだろう。

 まっすぐに鏡を見つめる。

鏡の中の自分は嘘なんてついていないし、じゅうぶん美しい。


     *


 結局のところ、きみはわたしで、わたしはきみで。


 ねえ、気づいてる?


 わたしがきみを、大好きだってこと。

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キャンディー・ナイフ 瀬野ハンナ @coffee-cup

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