第4話

 夏休みとは言いながら補習を詰め込まれ、その補習もやっと終わろうとしている七月の最後の日。

 当たり前のように毎日二人で会っているけれど、授業がなくなったら、多分会うことはないんだろうな。

 それが寂しいことなのかどうかもわからないけれど、漠然とそんなことを考えながら、屋上のいつもの場所で彼女を待っていた。日陰にいるとはいえ、晴れていてかなり暑い。

 少し遅れてきた彼女は、真っ青な空と眩しい太陽の下にいながら、どこか陰のある表情をしていた。俺に向かって微笑んでいるけれど、無理して笑っているような。

 感情がわからないなりに、人の表情を見て判断することには慣れているから、彼女に何かがあったことは直感的にわかった。

 こういうときって、どうしたらいいんだろう。

 むやみに触れるべきではないかもしれない。でも、彼女は俺の話を聞いてくれた。俺を理解しようとしてくれた。だから、今度は俺が彼女の気持ちを――。


「……神崎さん」


「ん?」


 隣に座って俺の方を見た彼女に、至って自然に聞こえるように尋ねた。


「何かあった?」


 彼女の顔が一瞬こわばったように見えた。


「……別に、大したことじゃないから。大丈夫」


 そう答えたけれど、あまり大丈夫そうには見えない。


「ねえ、神崎さん」


 もし本当に何かがあって悩んでいるのなら、それを一人で抱え込まないでほしい。


「前に俺の話を聞いて、こんな俺のことを受け入れてくれたよね。俺がもし普通の人間だったら、絶対うれしいって感じたはずなんだ。感じたことはなくても、それだけはわかるんだ。だから、本当に何もないならいいけど、そうじゃないのなら――」


 そこから先を口に出すには少し勇気がいったので、俺は下を向いて続けた。


「今度は俺が、神崎さんの気持ちを受け止めるから。助けるとまでは言えないかもしれないけど――」


 そこで顔を上げると、彼女は口元を手で覆っていて、目には涙が溜まっていた。


「暖くん……」


 大きな雫が、彼女の目から零れ落ちた。


「マリーが、死んじゃった……」


 彼女がずっと飼っていた黒猫の名前だ。


「えっ……」


「最近ずっと、元気がなくて、昨日も一日ぐったりしてたみたいで……今朝起きたら……」


 そこから言葉を続けられなくなった彼女は、両手で顔を覆い、声を殺して泣き始めた。

 さっき自分が言ったこととは裏腹に、いざ目の前で泣いている彼女を見ると焦ってしまう。

 俺は彼女に何もしてあげられないのか? いや――


 神崎さんの感情を、理解したい。

 彼女が今抱えているものを、俺が一緒に持ってあげたい。


 そう思ったとき、俺は今まで感じたことのないような痛みを胸に感じ、思わず手をあてた。


「痛い……」


「暖、くん……?」


「神崎さんが泣いてるのを見ると……胸が疼くみたいに痛くて、苦しくて……あれ……?」


 視界がなぜかぼやけてくる。目から暖かい何かが流れているような気がする。おそるおそる触ってみると、頬が濡れていた。


「――暖くん、泣いてるの?」


 彼女が目を丸くして口をぽかんと開けたまま、俺を見ていた。

 俺が、泣いてる?

 物心ついたときから一度も泣いたことのない、俺が?


「神崎さんの気持ちをわかりたいって、神崎さんが泣いてるのなんか見たくないって思って、笑っててほしくて……」


「暖くん」


 彼女の顔がほころんで、夏の陽射しを浴びて輝く向日葵ひまわりのような笑顔になった。


「きっとそれが、誰かを思いやるってことだよ。きっと暖くんにはもう、悲しいとか苦しいっていう感情がわかる。だから、うれしい、楽しいっていう気持ちもわかるはず」


 そう言って、彼女はそっと俺を抱きしめた。


「ありがとう、私のために泣いてくれて。私の気持ちをわかってくれて」


 涼しい風が吹き抜けていって、彼女の身体の暖かさが直に伝わってきた。そして心も暖かかった。


「……暖かい、心が」


 俺は目を閉じて囁いた。


「私も……」


 どれくらいそうしていただろうか。不意にチャイムが鳴って、俺たちは現実に引き戻された。あと五分で午後の補習が始まってしまう。


「弁当、食べられなかったね」


「確か前にもこんなことあったよね」


 俺たちは顔を見合わせて笑った。


「あ、暖くんが笑ってる」


「え?」


「こんなにうれしそうに笑う暖くん、初めて見た」


「言われてみれば……」


 確かに俺は、みんなに合わせて無理やり笑顔を作るだけで、勝手に口角が上がって腹の底から笑うなんて、初めての経験だった。


「俺の方こそ、ありがとう。神崎さん……優里、さんのおかげで大切なものを手に入れることができた」


 そして、こんな俺にも守りたいと思えるものができた。

 そう心の中でこっそり続けてみる。


「もう、優里でいいよ!」


 照れたように笑う彼女に手を取られて、俺の心臓が踊った。前にもこんなことがあったような。

 これも何かの感情なのかな?

 でも、とりあえず今はいいや。


「行こう! 遅れちゃう!」


 彼女の手を握り返して走り出しながら、抜けるような空の青さを初めて知ったような気がした。

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俺に心をくれた彼女へ 海月陽菜 @sea_moon

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