第3話

 俺たちは毎日、屋上で一緒に弁当を食べるようになった。というか、彼女が勝手に俺のところへ来るようになった。雨の日は、屋上へと続くドアの前で。

 彼女はいろいろなことを喋った。勉強や部活のこと、好きな曲のこと、彼女が小さい頃から飼っている黒猫のこと。俺は彼女のきらきらした、とでも言うべき笑顔を見ながら、この子は何が楽しくて俺と話しているんだろう、と思っていた。でも、嫌だとは感じなかったし、退屈なはずの昼休みを退屈だと感じなくなっていた。

 高校入学から一ヶ月ほどたち、そんな不思議な状況が日常になりつつあった頃。

 二限目の後の休み時間にトイレに入ろうとしたとき、中から自分の名前が聞こえてきて、俺は俺は手前で足を止めた。


「――なんか尾関って、みんなに壁作ってる感じしない?」


「あー、わかる! 周りに合わせて笑ってるけど、本当は面白いとか思ってないんじゃね?」


「あいつ、中学校のときもあんな感じだったのかな?」


 話が一区切りついたと思ったところで中に入っていくと、話していた二人はぎくっとしたように俺を見て、立ち去っていった。同じクラスのバスケ部二人組、秋本と瀬川だった。

 やっぱりな、と思った。やっぱりわかるやつにはわかるんだ。俺が普通の人とは違うって。

 もちろん悲しみも怒りも、湧き上がってくるものは何もない。でも、なんとなく気にかかることはあった。

 自分が変な噂をされていたのに、頭に浮かんできたのは神崎さんのことだった。

 こんな俺と一緒にこのまま弁当を食べ続けていたら、いつかクラスのやつにも知られるかもしれない。そうなったら、彼女まで噂されるようになるだろう。もしかしたら、俺たちが付き合っていると勘違いされたり、からかわれたりするかもしれない。

 やっぱりやめた方がいいんだ。彼女は俺と一緒にいたらいけないんだ。

 俺は、一人で生きていかなければいけないんだ。



 次の日は朝から曇っていた。

 昼休み、いつものように弁当を食べながら、彼女の話が一段落して間ができたときに、俺は切り出した。


「あの」


「何?」


 彼女は静かに微笑んでいる。


「……二人で弁当食べるのやめない? っていうか、もう俺のところに来ない方がいいよ」


 横を向かなくても、彼女が固まったのがわかった。


「……どうして……?」


 彼女の驚いたような、少し掠れた声を聞くと、余計に彼女の顔を見られなくなった。


「変な噂が立ったら嫌じゃない? 俺たちが付き合ってる、とか。クラスのみんなにも、勘違いされたら困るでしょ?」


「暖くんは、勘違いされたら、嫌?」


 そんなことを言われるとは思っていなくて、俺は言葉につまった。


「えっと……」


「……暖くん」


 彼女の声が震えていることに気づき、はっと横を向くと、彼女も手を止めて、俺を見ていた。


「私のこと、嫌い……?」


 彼女の口は笑っていて、でもその目には涙が溜まっていて、溢れそうだった。彼女が無理をして笑っているように見えた。


「えっ……?」


「私が来るのが嫌なんだったら、もっと早く言ってくれたらよかったのに。ごめんね。もう、来ないから……」


 下を向いて、食べかけの弁当に蓋をして立ち去ろうとする彼女の手を、俺は咄嗟に掴んだ。


「待って」


 驚いてまた俺を見た彼女の目から、大粒の涙が零れ落ちた。


「……っ、違うの、これは……」


「ごめん、全部、話すから。聞いてくれる?」


 目元を隠そうとする彼女の言葉を半ば遮って、俺はそう告げた。

 俺が自分のことを曖昧にしたまま、中途半端に接してきたせいで、結局彼女を傷つけることになってしまった。それだけは避けたかったのに。

 だから、このまま誤解を与えたままでいるなら、いっそ全てを話してしまった方がいいと思った。

 それに、なぜか彼女になら、話しても大丈夫な気がした。


「……信じてもらえないと思うんだけど、まだ誰にも言ったことがないんだけど――」


 誰にも話したことのないことだから、どうしても勇気がいることだった。


「俺は生まれつき、感情が……心が、ないんだ」


「えっ……?」


 俺は、自分の感情の欠落に気づいたときから今までのことについて、俺の人生について話した。言葉はほぼつかえることなくすらすらと出てきて、俺は心の底で、誰かに聞いてほしいと思っていたんだな、となんとなく感じた。彼女は手を止めたまま、黙って聞いてくれていた。


「――気持ち悪いよな、こんな奴。クラスの奴も、何か勘づいているかもしれない。だから……俺とはもう関わらない方がいいよ」


 最後にそう言って、自嘲気味に笑った。

 全てを聞いて、それでも俺と一緒にいられるか、それは彼女次第だ。まあ、だめだったとしても、俺から離れたら彼女は傷つかずにすむ。むしろそっちの方がいいと思う。

 だが俺の予想に反して、彼女の口から発せられた答えは意外なものだった。


「……私は、それでもいい。そんなこと気にしない。暖くんといられたら、それでいい。だって……」


 俺が顔を上げると、ちょうど彼女の頬を一粒の雫が伝っていくところで、俺は息を飲んだ。


「そんな人生、悲しすぎるよ……自分から、誰とも関わらないことを選んで、人を避けて、生きていくなんて……。いくら、感情がないっていっても、つらかったでしょう……?」


 彼女はまるで自分がつらい目にあってきたかのように、悲しそうな顔をして泣いていた。


「ごめん、本当にわからないんだ。何を言われて、どう感じたらいいのか、なんて……」


 なぜ俺ではなく彼女が泣かなければいけないのか、その理由がわからず俺が困っていると、彼女は膝立ちをして俺の正面に来た。


「私は、誰に何と言われても、暖くんの味方だし、暖くんが何か言われたら、言い返すから……だから、そんな悲しいこと、言わないで……」


 そう言って、彼女は俺の頭を抱きしめた。俺は視界を覆われ、暖かさに包まれていた。

 これが、人の温もりというものなのか――。

 頭の片隅にそんな考えが浮かんで、俺はそのまま目を閉じた。

 しばらくそのままでいて、それから彼女がゆっくりと体を離していく感じがして、俺もゆっくりと目を開けた。彼女がそのまま俺の前に座り、俺たちの目が合った。

 彼女の頬は赤く染まって、俺を真っ直ぐに見つめるその瞳は澄んでいて――。

 その瞬間、俺の心臓が跳ねた。

 一回だけ鼓動がいつもより大きくなって、至って健康なはずの俺はそのことにびっくりした。

 何だ、今の――?

 そのとき予鈴が鳴って、俺たちは我に返った。


「あっ、ごめんね……お弁当、全部食べられなくなっちゃって……」


「いや、俺の話が長くて……俺の方こそ……」


 ごめん、と俺が小さく謝ると、彼女は首を振った。


「ううん、私が聞いたんだもん。それに、全部聞けてよかった。私に一番最初に話してくれたんだから、うれしい」


 そう言って、彼女は柔らかく微笑んだ。いつの間にか雲が流れて、少しの青空と太陽が顔を出していた。


「行こう? 五限目始まっちゃうよ」


「うん……うわ、時間ない」


 俺は腕時計を見て焦った。あと三分しかない。気づけば屋上には、他に誰もいなかった。


「えっ!? ……次数学だったっけ? 走らなきゃ!」


「えぇー…」


 俺たちは階段を駆け下り、教室へとダッシュして、なんとか午後の最初の授業に間に合った。

 そういえば、あの一瞬跳ねた鼓動は何だったんだろう――?

 練習問題を早く解き終わったときにふと思い出し、考えてみたけれど、結局答えは出なかった。

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