第2話

「……えっと、尾関暖人、です」


 急に話しかけられたので、びっくりして変な答え方をしてしまった。

 すると彼女は少しおかしそうにくすっと笑った。


「おぜき、はるとくん……はるくんって呼んでいい?」


 普通、男子と女子は名字で呼び合うものだと認識していた。現に俺が通っていた中学校がそうだった。だから、彼女の意図がよくわからなかったけれど、


「いいよ」


 と返事をしておいた。


「ありがとう。私のことも、優里でいいからね。じゃあ、一年間よろしく!」


 そう言うと、彼女は自分の席に座り直して前を向いた。

 猫みたいな子だと、ふと思った。

 見た目も華奢だけど、自由でどことなくふわふわした子のように感じた。俺とは正反対だ。

 俺みたいな奴に話しかけてくれるのは、ありがたいことなんだろう。

 それでも、と俺は思う。

 俺は彼女ともまた、深い関わりをもつべきではないんだ。それが彼女にとって、いいことなんだ。俺は彼女と仲良くなれなくても、それを悲しむことのできる心をもたないから、ちょうどいい。

 どうせ彼女とは、最初の席替えで隣じゃなくなって、ただのクラスメートになって、彼女は“神崎さん”のままなんだ。

 きっと、彼女のことを下の名前で呼ぶことはないんだ。



 彼女は表情がころころ変わる子だった。ちょっとしたことで笑顔になったり、がっかりしたり、ふくれたり、と思ったらころっと機嫌を直したり。そして、よく笑う子だった。彼女には、入学式の次の日からもう友達がたくさんいて、休み時間には談笑していることが多かった。

 俺は教室の端の席で、面白いかつまらないかもわからない小説を読みながら、そんな彼女を時々見ていた。

 楽しいという感情は知らないけれど、彼女が今感じているのが、楽しいということなのかもしれない。彼女の笑顔を見ているとき、そう考えるようになった。

 この子の世界は、きっとカラフルなんだろうな。

 彼女から見える風景を、俺も見てみたいと思った。



 高校生活が始まって一週間ほど経った日の昼休み。

 俺は弁当を片手に廊下へ出て、階段を一番上まで上った。屋上へのドアを開けると、予想通り、そこにはあまり人がいなかった。奥の方の角が一ヶ所空いていたので、俺はそこまで行って腰を下ろした。

 空には雲が一つもなくて、とても暖かい。

 俺は雨が降らない限り、この場所で弁当を食べることに決めた。

 一階にある俺のクラスからわざわざ屋上へ上がってくる人はいないようだから、一緒に食べようと誘われることはないだろう。それがいい。友達がいないと思われたって、俺は別に傷つかないし、どうでもいいことだ。

 なるべく関わらなければ、俺が普通の人間じゃないということにも気づかれず、平穏な日々を過ごすことができるはず。

 そんな俺の目論見もくろみは、早くも次の日に外れることとなった。



「隣、いい?」


「あ、はい、どうぞ――!?」


 うっかり反射的に返事をしながら顔を上げると、髪の長い華奢な女の子がそこに立っていた。


「神崎さん!? なん――げほっ」


 彼女の来訪が予想外すぎて、喋った拍子に口に入っていたご飯粒が、勢いよく気管に入り込んだ。つまり、思いっきりむせてしまった。

 俺だって、驚くことぐらいはあるんだ。


「びっくりさせちゃった? ごめんね」


 彼女は少し笑いながらそう言って、俺の背中をさすった。


「げほっ……謝ってる、わりには……ごほっ……楽しそう、だな……」


 水筒のお茶を飲んで、やっと落ち着いてから、彼女に尋ねた。


「なんで、ここに?」


 すると彼女は、自分の弁当箱を袋から取り出しながら答えた。


「暖くんっていつも、昼休みになったらお弁当持って、一人でどこかに行っちゃうじゃない? どこに行くのかなって思ってて。もしかして屋上かなって思って来てみたら、当たってた」


 それから、弁当箱の蓋を開けた彼女はミニトマトを器用に箸で掴みながら、


「暖くんはどうして、いつもここに来るの?」


 俺はどう答えるべきか迷った。

 彼女と距離を置くためなら、本当のことを話した方がいいと思った。でも、今まで隠してきたことを全部話すのもどうかと思った。

 迷った末に、俺はこう言った。


「……暖かくて気持ちいいし、静かだから」


「確かにそうだよね! ここでお昼寝したいなー」


 ふわりとした笑顔で彼女はそう答えた。

 やっぱり猫みたいな子だと思う。


「でも、雨の日も同じように教室を出て行くよね?」


 まさか、そこまで見られていたとは。

 ちなみに雨の日も俺は階段を上って、誰もいない屋上のドアの前で弁当を食べることにしている。


「あー、えーっと……」


 うまい返答が思いつかなくて困っていると、彼女は頬を膨らませた。


「答えたくないなら、別にいいもん」


 さらに焦った俺を見ると、彼女はすぐにいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「言いたくなったらいつでも言ってね。私もここでお弁当食べることにするから。暖くんと」


「……はい?」


「いいよね?」


 彼女の顔が、俺の目の前に迫っていた。


「…………うん」


 彼女の勢いに押されたのと、もっともらしく断る口実が見当たらなかったのとで、俺は思わず頷いてしまった。

 その日から、俺の変な日常が始まった。

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