俺に心をくれた彼女へ
海月陽菜
第1話
俺、
十六年間生きてきて、怒ったり泣いたりした記憶がない。
もちろん、生まれたばかりの子どもは泣いてばかりいるものだけど、俺は普通の子に比べたら、あまり泣かない子だったらしい。母さんは時々冗談のように、
「暖人は赤ちゃんのとき、
と言う。柚子というのは、俺の二つ下の、来年から高校生になる妹だ。
自分には感情と呼べるものがない。
はっきりとそう自覚し始めたのは、小学四年生のときぐらいだろうか。
四年生の夏休みに、じいちゃんが亡くなった。両親は共働きだから、学校から帰ってくると、俺と柚子はうちの隣のじいちゃんの家に行き、父さんか母さんが帰ってくるまで、じいちゃんやばあちゃんに遊んでもらっていた。俺はじいちゃんのことが大好きだった、はずだった。
でも俺は、じいちゃんが亡くなったと聞かされたときも、通夜や葬式のときも、じいちゃんの遺体が火葬されるときでさえ、泣かなかった。泣けなかった。
柚子は小さい子らしく大泣きして、親戚や知人の大人でさえ涙を流している人もいたのに、俺はただぼーっとして、目の前の光景を見ているだけだった。
心はいつもと変わらず平坦で、何かが出てくることはなかった。
当然、そんな俺の様子は目についたようで、全てが終わった後の集まりで親戚の人が噂していたらしく、それが両親の耳にも入ったようだった。
「やっぱり暖人、全然泣いてないみたいね。お義父さんのこと、好きだったと思うんだけど……。赤ちゃんの頃からあまり泣かなかったし、他の子と違うのかしら」
「暖人はまだ、親父が亡くなったってこと、実感できていないんじゃないか?」
「でも、柚子はあんなに泣きじゃくってたのに……」
両親にも、俺が生まれたときから気になるところはあったようだった。
もちろん俺は、じいちゃんがもうこの世にいないということを、ちゃんと理解していた。
それでも、無理なものは無理だった。
六年生のとき、俺が続けていたゲームのセーブデータを、柚子が間違えて消してしまったと言った。もうすぐ全部クリアするはずだった。柚子もそれを知っていて、俺を前にしてとても怯えているように見えた。
「ごめんなさい……せっかく大事にしてたのに……」
俺は、怒るべきなんだろうか。柚子は俺が怒ると思って、こんなに震えているんだろうか。
俺は躊躇した結果、
「……いいよ。次からは気をつけてね」
と言った。柚子は拍子抜けしたような顔をして、それからもう一度、ごめんね、と小さく言って自分の部屋に戻っていった。
結局俺は、柚子のことを怒れなかった。怒り方がわからなかった。それに、消えてしまったデータへの未練も全然なかった。柚子も十分反省していたみたいだし、そもそも間違えてやってしまったことだから、これ以上怖がらせることもないだろう、と思った。
こうして俺は、怒りでも執着でもなく、
中学校に入ってから、俺は吹奏楽部に入部した。特にこだわりもなくて、どの部活に入ろうかと迷っていたら、同じ小学校の友達に誘われて、テナーサックスを吹くことになった。
合奏をしているとき、顧問の先生は部員たちによくこう言った。
「ここはもっと、感情豊かに!」
「作曲者がどういう気持ちでこの曲を作ったか、よく考えて」
感情って何だろう。気持ちって何だろう。俺が教えてほしいくらいだ。
他の部員は時々そういうことも話し合っていたけれど、俺はついていけなかった。
答えは結局出ないまま二年半が過ぎ、引退の時期を迎えた。
サイコパス、という言葉に出会ったのは、中学二年生のときだった。
その頃読んでいた小説の中でそう呼ばれていた人は、感情を持たないが故に、他人のことを平気で傷つける人だった。その人は周囲に恐れられ、あるいは疎まれていた。
俺もサイコパスなんだろうか?
俺は、この人と同じなんだろうか?
このときに、感情がないなりに衝撃を受けたことを、俺は覚えている。
みんなも俺のことを、そんな目で見ているのか……?
今のところ、全くそんな感じはしない。それなりに友達はいるし、みんな俺と仲良くしてくれている。
でも、いつか気づいてしまうかもしれない。俺は感情が欠落した人間だと。そして、考え始めるかもしれない。俺がサイコパスだと。
自分の近くにそんな恐ろしい人間がいるということは、普通の人にとっては耐え難いことなんだろう、おそらく。
それに、俺も平気で誰かを傷つけるようなことをしてしまったら……?
『人の心に触れて、思いやりをもって誰とでも接することができる。そんな暖かい人になってほしいの』
小さい頃に自分の名前の由来を尋ねたときの、母さんの言葉だ。
俺は両親の願い通りに育つことができなかったみたいだ。
それならせめて、俺のせいで不幸になる人が出ないように心がけよう。
俺は本当は、人と関わったらいけないんだ。
俺からみんなが離れていっても、俺は少しも悲しいとは思わないだろう。でも、俺のせいで傷つく人がいるのは嫌だし、両親もそれを望まないだろうから。
そう思い始めたときから、俺は他人と自分との違いを隠しながら、なるべく人と深く関わることをやめた。そうすることで、俺の内面を悟らせず、誰も悲しませないことができると思ったから。
人の顔色を伺うことと、作り笑いだけがうまくなっていく。
楽しいともうれしいとも、悲しいとも辛いとも感じない。俺にはきっと、心がないんだ。きっとこのまま、俺は誰かを好きになることもないんだろう。最後は一人なのだろう。
世界にはたくさんの色が溢れているはずなのに、俺にはなぜかモノクロの世界を見ているように感じられる。
普通の人を羨ましく思うことが時々ある。時々、知りたいと思う。
感情があるって、どういうことだろう。
心って、どこに行ったら見つけられるんだろう。
高校は同じ中学校出身の人があまりいないところにして、最初から友達を積極的に作ろうとはしないことに決めていた。部活に入ることも強制ではないので、特に入らないことにしていた。
目立たず平穏な生活を送り、誰とも深くは関わらない、はずだったのに。
入学式の日の、最初のホームルームの前、窓際の席に座っている俺の横から、鈴が鳴るような声がした。
「あの」
静かだけど、はっきりと耳に届く声だと思った。
顔を向けると、少し明るめの色の髪を伸ばした女の子が、ぱっちりした大きな目で俺のことを見ていた。
「隣の席の
窓の外からそよ風に乗ってきた桜の花びらが、俺の机の上に着地した。
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