第30話 知ること、理解すること(「ヌビアの遺跡群」)

『お仕事おつかれさまです。

 私、受かりました!

 千桜先輩はどうですか?』



 お昼休憩のとき、休日の藍奈ちゃんからメッセージが来た。藍奈ちゃんは無事に3級に合格したようだ。

 9月の最終週。今日は、世界遺産検定の合否発表の日。

 結果が郵送されるのはまだ先だが、ウェブでは今日から確認できる。

 でも、我慢。まだ確認しない。

 一緒に確認しようと約束しているから。

 誰と、って今さら訊かないでね。



『千桜ちゃん、大至急教えて!

 ギター侍は役に立たなくて💦

 世界遺産ができるきっかけになった遺跡って、何だっけ?』



 続いて、お姉ちゃんからメッセージ。

 ちょっと自信がないけれど、大至急ということなのでわかる範囲で答える。



『「アブ・シンベル神殿」かな。

 ダムに沈みそうだったけど、救済キャンペーンのお蔭で高台に移築されたの。

 自信ないから、ちゃんと調べて!

 頼りなくて、ごめん。』



『千桜ちゃん、ありがとう。

 道徳の授業で話したかったんだけど、高台に移築された神殿があるってことを耳にしただけだったから……名前がわかったから調べられる!

 本当に助かった! ありがとう!

 ギター侍には「お勉強してね❤」って言っておくね( ´艸`)』



 お姉ちゃんは、彼氏の神田さんのことを“ギター侍”と呼びながらも、大好きみたいだ。

 もしかしたら、ふたりはこのままゴールインしたりして。

 ……いや、待て。

 神田さんが義理のお兄さんになるのか? 嫌じゃないけど、手放しで喜べない。

 違うことを考えよう。

 今日は日勤。18時に退勤して、「旅の夜風」で待ち合わせて、検定の合否を一緒に確認するのだ。

 誰と、とは訊かないで!



 そろそろ18時という頃に、支店長から呼び出された。

 本社の須磨さんが来ている、とのことだった。

「白河さん、お久しぶりです。以前は申し訳なかった」

 にこにこと笑顔をたたえた“タスマニアデビル”は、相変わらず本心が読めない。

「成城支店に足を運んだついでに、三軒茶屋支店さんちゃの人にも謝りたくて。あのときは疑うような意地の悪いことを訊いて、ごめんね。でも僕、いつもあんな調子だから」

 須磨さんがいつもあんな調子なのは、何となく雰囲気で理解していた。

 牙をむけば怖いけれど、些細なことに目をそらさずに社員を守ろうとする姿勢に、私達は救われた。

 変なことに巻き込まれてしまったけれど、須磨さんが冷静な対処をして下さったから、私はこの会社にいることができる。

 須磨さんみたいな人がいなかったら、メール事件のときに辞めていたかもしれない。

 ……なんて、本人の前では絶対に言わないけどね。



 須磨さんと面談をしていたので、定時には上がれなかった。

 タイムカードを切り、急いで着替え、「旅の夜風」に向かう。

「ごめん! 遅くなりました!」

「大丈夫ですよ。俺もさっき着いたところですから」

「英一くん、今日は自転車ですか?」

「電車で来ました。千桜ちゃんと飲むつもりだったので」

 彼はいつものように穏やかに微笑む。

 ひげ剃りに失敗して負った傷は、ほとんど治っている。

 今日は無精ひげがない。思い切って剃ってきたのかな。

「英一くん、確認なんですけど……世界遺産の設立のきっかけになった遺跡は、アブ・シンベル神殿で合っていますか?」

 もしも間違っていたらお姉ちゃんに知らせなくてはならないから、頼れる彼に訊いてみた。

 彼は「合っていますよ」と頷く。

「ダム建設で水没しそうなったけれど、ユネスコと色々な国の呼びかけで救済活動が行われた遺跡ですよね」

 よかった。合っていた。

 ほっと息を吐いたら、彼に訊かれた。

「千桜ちゃんにとって世界遺産て何ですか?」

「私にとっての世界遺産……?」

 何だろう。どうに答えたら正解なのだろう。

「答え次第で千桜ちゃんを嫌うことはありません。この前、田沢くんにも訊いてみたんです。田沢くんは『ユネスコがつくってブランド』と答えてくれました」

 群馬県で会った田沢くんと、彼は情報を交換し合っているらしい。

 「ユネスコがつくったブランド」なんて、田沢くんは大胆に答えたね。

 私も思っていることを言ってしまっていいかな。

「ユネスコがつくった価値、かな。ずっと変わってほしくないし、皆で守りたいと思わせてくれる、世界共通の価値」

 田沢くんの「ユネスコがつくったブランド」に似てしまった。しかも、花村さんが以前話してくれたことともかぶっている。

「ごめんなさい。深い考察はできないです」

「そんなことないです」

 彼にとっての世界遺産は「紙媒体でない教科書」。電子書籍という意味ではない。

 世界遺産に関する歴史を知ることができて、世界遺産以外にも共通する考え方を学ばせてもらうことができるから。大切なのは、知ること、理解すること。

「それより、千桜ちゃん。合否確認しましょうよ」

 そうだった。

 スマートフォンから世界遺産検定のホームページにアクセスし、受験票の番号を入力する。

 「確認」マークをタップすれば、検定の合否が明らかになる。

 私は、かなりためらってから「確認」をタップした。

「千桜ちゃん?」

 スマートフォンを見つめて固まってしまった私は、彼に呼ばれて我に返った。

 お互いにスマートフォンの画面を見せ合って、にんまり笑う。

「1級も受験しちゃいますか?」

 私が訊ねると、彼は「受験しちゃいますか?」と返してくれた。

 1級の受験資格は、2級に合格していること。

 ふたりとも、その資格を満たしたのだ。

 英一くんと私は、ジン・トニックで「おめでとう」の乾杯をした。



「英一くん、これってデートなのでしょうか?」

「“デート兼同志会”ではないでしょうか、千桜ちゃん?」



     ◇   ◆   ◇



 「ヌビアの遺跡群」


 エジプト・アラブ共和国

 文化遺産

 1979年登録


 ナイル川上流のヌビア地方の遺跡群は、古代エジプト新王国時代(紀元前1570年頃~前1069年頃)、および古代エジプト末期のプトレマイオス朝時代(紀元前304年~前30年)に建てられた建造物群である。

 「アブ・シンベル神殿」「フィラエ神殿」「カラブシャ神殿」の3件で構成されている。

 アブ・シンベル神殿は、新王国時代第19代ファラオ・ラメセス2世によって建造された。平地を確保するのが困難な場所だったため、ナイル川にせり出した高い岩山を掘削してつくられた洞窟神殿となった。

 1960年に始まったエジプト政府のアスワン・ハイ・ダム建設によって一時水没の危機にあったが、ダム建設を知ったUNESCOは着工の前年からアブ・シンベル神殿のついての調査を開始。各国に向けて、遺跡の救済を呼びかけるキャンペーンを始めた。

 世界50か国が協力を約束し、1964年から救済事業がスタートする。

 アブ・シンベル神殿を小さなブロックに切断、解体し、西へ210m、もとあった場所から64m高い場所に移築することになった。

 当時の最新技術を駆使したこの工事は、1968年9月に完了した。

 このできごとがきっかけとなり、「世界遺産」が創設された。



【「白河千桜の世界遺産手帳」完】

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