第29話 同志の白河さんからも、可愛い千桜ちゃんからも(「ケルンの大聖堂」)

 お仕事は平気なんですか、と訊ねると、彼は困ったように笑った。

「平気ではないですけど、それどころではなくなってしまいました」

 今日は怪我をしたみたいだし、無理して残業するのは体に良くないだろう。

「少し遠回りしませんか? 弦巻つるまきに、マフィンとお花のお店があるんです」

「マフィン屋さんとお花屋さんですか?」

「いいえ、一軒のお店です」

「面白そう! 行ってみたいです」

 遠回りになってしまうけど、良いだろう。

 北の方に進めば上町に着くが、交差点で西に曲がって弦巻地区に向かう。

 弦巻は住宅街というイメージが強く、足を運んだことがない。

「今日は自転車なんですね」

「だいたい自転車です。変ですよね、ママチャリですし」

 彼の自転車は、ロードバイクみたいなタイプではなく、中高生が乗るような自転車だ。

三軒茶屋さんちゃに行くときも、たいてい自転車です。キャロットタワーの駐輪場にとめています。お酒を飲むときは電車で来ますけど」

 彼のアパートのある松陰神社前から桜新町も、桜新町から三軒茶屋も、自転車で行ける距離だ。

 若いのに偉いなあ。



「今日、少し考えていたんです」

 本題かと思いきや。

「完成までに時間のかかった世界遺産は何だろう、と」

 本題とは全然関係のない話題だった。

 でも、ちょっと考えてみたくなる。

「ウルル、ですか?」

 ウルル……エアーズロック。長い年月をかけて今の形になった一枚岩。

 でも彼から「文化遺産で」と言われてしまった。

「じゃあ、ストーンヘンジ!」

 紀元前何千年前から、期間を置いて形を変えていた謎の多いストーンサークル。

「……やっぱり、撤回します。不明な点が多過ぎて、純粋な時間がわからないです」

 私はすぐに答えが出せなかった。

 彼は正解を言わず、違う質問をしてくる。

「じゃあ逆に、完成に時間がかからなかった世界遺産は何だと思います?」

「富岡製糸場ですか? 2年半くらいでしたよね。それか、コルビュジェの建物か」

 なんだか、楽しい。こういう話をしていると、嫌なことや不安なことを忘れそうになる。

 でも、忘れちゃいけない。

「ていうか、ケータイ! LINEが消えちゃっているんですけど、何かあったんですか?

「LINE、消えてます? もしかして、スマホを修理に出しているからかな。この前からカメラ機能がおかしくなって、群馬に行った次の日に修理に出したんです。代わりに借りたスマホにはLINEがないから、一旦消えちゃったのかもしれません」

「なんだ、そうだったんですね」

「心配してくれたんですね」

「皆、心配していましたよ」

「白河さんも心配してくれたんですね」

 聞こえないふりをして歩き続けようとしたが、強い力で腕を掴まれた。

 目の前は横断歩道。信号は、赤だ。

「一時的な気の迷いで、白河さんを傷つけるようなことを言ってしまったと思っています」

 私は腕を掴まれたまま、彼の言葉に耳を傾ける。

「俺は恰好悪いんです。すぐに逃げようとします。実家が嫌で、実家から逃げました。仕事がつらくて、仕事をやめたいと思ってしまいました。同志もやめようとおもいました。白河さんのことをただの同志だと思い込むのが、いっぱいいっぱいだったから」

 彼は腕を離してくれた。

「あなたは逃げないのですね」

 行きましょう、と彼は自転車を押して横断歩道を渡る。

 私も彼の後について横断歩道を渡った。



 マフィンとお花のお店は、マンションの1階にあった。

 店内には、マフィンのショーケースと切り花のガラスケースが設置されている。

 「ギフトボックスのご予約うけたまわっています」という手書きのポスターに、マフィンとお花がひとつの箱に入っている写真が載っていた。

 閉店間際に残っていたチョコバナナマフィンを2個、彼が買ってくれた。私が支払うと言っても、彼は聞いてくれなかった。

 彼はまだ商品を見たいというので、私は先にお店を出て外で待つ。

 紙袋を開けて顔を近づけると、バナナの甘い香りがほのかに鼻をくすぐった。

「お待たせしました」

 彼の声で、私は我に返った。

「変なことはしていないです! おいしそうだと思って!」

「わかります。おいしそうですものね」

 お店の明かりが外まで漏れて、彼が穏やかに微笑むのがわかる。

 彼は自転車を動かそうとしない。

 ふう、と一呼吸おいて、一歩私に近づいた。

「同志をやめたいという発言、撤回させて下さい。もう逃げたくありません。……同志の白河さんからも、可愛い千桜ちゃんからも」

 ふわり、と花の香りが割り込んだ。

 目の前に差し出されたのは、小さな花束だ。

 オレンジ色のガーベラと、白いカラーと、ユーカリの葉。

「同志をやめず、異性として見てほしいのは、欲張りですか?」



 知らなかった。

 彼の気持ちも、自分の気持ちも。

 自分が彼と同じ気持ちだったことも。

 閑静な住宅街のお店の前で、彼に差し出された小さな花束を、私は受け取った。



「英一くん、ケルンの大聖堂も完成までに時間がかかったんでしたよね?」

「そうだった! 盲点でした。多分、サグラダ・ファミリアの予定よりも時間がかかっていますよね?」

「世界遺産が登録されるのは時間がかかりますけど、のちに世界遺産となる物件が完成するのはもっと時間がかかっているんですね。マフィン頂きます」

「千桜ちゃん、もう食べちゃいます? 歩きながら食べるとお腹壊しますよ。それより、ファミレスに行きませんか?」

「私がおごっていいなら、行きますよ」

「じゃあ、ファミレス行きましょう。俺のおごりで」

「英一くん、ずるい!」



     ◇   ◆   ◇



 「ケルンの大聖堂」


 ドイツ連邦共和国

 文化遺産

 1996年登録、2008年範囲変更


 ドイツ西部、ノルトライン・ヴェストファーレン州を流れるライン河畔にあるドイツ有数の古都ケルンに、ひときわ高くそびえるケルンの大聖堂は、1248年の建築開始から632年もの長い歳月を費やし、1880年に完成した。

 ケルンの大聖堂のもととなった聖堂は9世紀に建てられたもので、火災により一度焼失して再建。13世紀になると、大規模な建て替えが計画される。

 建築家のゲルハルトのもとで大がかりな工事が本格的に開始された。

 ゲルハルトの死後も設計担当者が何代も引き継がれながら、工事は連綿と続けられたが、あまりに壮大な計画だったため、たびたび資金不足になった。

 工事開始から300年以上が過ぎた1560年、工事は中断されてしまう。それから約300年もの間、そのままの形で放置されることになった。

 1814年、14世紀初頭のオリジナル図面が偶然発見され、その後その図面を補完する資料が発見される。1842年に工事が再開された。

 長期にわたる建築では、その時代の様式に影響を受けて設計が変更されてしまうことも多いが、ケルンの大聖堂は最初の図面通り純粋なゴシック建築様式として、1880年に完成した。

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