第28話 お話させて頂けませんか?(「富士山 –信仰の対象と芸術の源泉」)

 ――ちおちゃん、なにしてるの?

 ――ガラガラヘビさがしてるの。えいいちくんもやる?



 ……なんか、変な夢みた。

 思い立ったら吉日……ではないが、思い立ったら明後日とばかりに行動開始。

 仕事が終わり、私服に着替えると、スマートフォンの液晶を鏡の代わりにしてコーディネートをチェックする。

 白いブラウスとインディゴのデニムジャケット、黒いレースのスカートはミディ丈。パンプスはピンクベージュ。

 昨日の仕事帰りに、藍奈ちゃんにつき合ってもらって買いに行ったのだ。

「千桜先輩、がんばですよ」

 そういう藍奈ちゃんは、今日はこれから彼氏とデートなんだって。

 うらやましくないぞ!



 彼の居場所はだいたい見当がついている。

 職場は、桜新町のショートステイ。多分、「ショートステイ八重桜」という場所だ。

 東急田園都市線の三軒茶屋駅から2駅先の桜新町駅で降り、歩くこと5分ほど。

 「ショートステイ八重桜」と書かれた建物が見えた。

 もう18時半だが、入っても大丈夫だろうか。

 口実は考えてあるが、怪しまれないだろうか。

「すみません……今から見学できますか?」

 自動ドアの入口から入って事務所をのぞくと、職員さんがふたりいた。

 奥のデスクに、母くらいの歳の女性。

 手前の男性と目が合うと、自分の頬が紅潮して……こなかった。

 確かに“英一くん”なんだけど。自分の心臓が、壊れそうなほど早鐘を打っているんだけど。

 彼の頬からあごにかけて、白いガーゼが貼られている。

 一体何があったんですか、と訊きたいが、初対面を装う手前、そんなことは訊けない。

「あの、祖父母の今後のことを考えていて、色々な施設を見ようとしているんですけど、この時間だと見学は難しいですよね?」

「大丈夫ですよ」

 彼はいつもの穏やかな微笑で頷いた。

 白いガーゼが痛々しい。



 彼に代わり、事務所の女性職員さんが施設を案内してくれた。事務員さんではなく、生活相談員という役職らしい。

 丁寧にユニットをまわって説明してもらい、申し訳なかった。

 おじいちゃんとおばあちゃんの今後は気にしているが、まだ施設を探す段階ではないと思っている。

 おじいちゃん、おばあちゃん、だしに使ってごめんなさい。

 ただ“英一くん”に会いたいストーカーなんです。

 事務所の前に戻ると、カウンターにフォトフレームがあるのに気づいた。

 富士山をバックに撮られた、三保松原の写真だ。

「その写真、ご利用者様のご家族様が持ってきて下さったんです。旅行が好きなかたで、数年前までよく家族旅行をなさっていて……」

 相談員さんが話してくれる。

 ちらっと事務所を見たが、彼の姿はなかった。

「うちの事務の男の子が教えてくれたんですけど、富士山は京都とかの仲間の世界遺産なんですってね。知床とか自然の世界遺産じゃなくて、京都とか軍艦島みたいに文化の世界遺産なんだって、教えてもらいました」

 相談員さんは世界遺産に詳しくないみたいだけど、わかりやすく話してくれる。

 富士山のフォルムは綺麗だ。でも、富士山は自然遺産ではなく、文化遺産に分類される。

 富士山は、自然美や生態系を認められた自然遺産ではない。

 富士信仰や芸術作品のインスピレーションに富士山が大きく貢献したことが世界遺産としてふさわしいと世界遺産委員会で認められたのだ。

「事務の子は、資格は何も持っていないと言いますけど、実用的な知識がすごい子ですよ。普段から調べ物が好きみたいで、物事の考え方もしっかりしています。仕事もとてもできますし、もっと扱いを良くしてあげたいんですけど……事務所と介護現場の板挟みにさせてしまって、申し訳ないくらいです」

 相談員さんは、気さくでよく喋る。彼のことは息子みたいに気にかけているようだ。

 今日の昼休み、彼はあごを血だらけにして事務所に駆け込み、ティッシュボックスを探していたのだそうだ。

 トイレの洗面台でひげを剃っていたら、失敗して頬から顎にかけて切ってしまったらしい。

 その怪我を見た介護職員から「明日は早く来なくていいから」と言われたそうだ。

 彼はひげを剃るのが下手で、朝剃れなかった分を昼休みに剃ることが多い。

 先程の彼がガーゼを貼っていたのは、ひげ剃りに失敗したから。

 いつも無精ひげみたいなのは、綺麗に剃れないうちにまた伸びてくるから。

 全然知らなかった。

 彼はこの職場で、事務所と介護現場の板挟みになって悩んでいた。でも、働きぶりを相談員さんに認められていた。



 「ショートステイ八重桜」を出る頃には、19時をまわっていた。

 日中はまだ熱いけど、夜はけっこう涼しい。

 バスに乗ろうか徒歩で帰ろうか悩みながらぶらぶらしていると、自転車のベルの音が耳に入った。

 驚いて立ち止まると、後方から「白河さん」と声をかけられる。

 振り返ると、自転車を押した彼が近づいてくる。頬からあごをおおうガーゼが街灯に照らされる。

「白河さん、この前は申し訳ありませんでした」

 彼は歩を止め、ハンドルは握ったまま頭を下げる。

「少し、お話をさせて頂けませんか?」

 心臓を殴られた感じがした。心臓が早鐘のように……ではなく、心臓をがんがんかれるみたいだ。

 今頃になって頬が熱くなる。気持ちがふわふわしそうだ。

 いけない、いけない。

 彼はこの前、“同志”をやめたいと言ったのだ。その上、音信不通状態なのだ。

 彼の気持ちをちゃんと聞かなくちゃ。



     ◇   ◆   ◇



 「富士山 –信仰の対象と芸術の源泉」


 日本国(静岡県、山梨県)

 文化遺産

 2013年登録


 富士山域、富士山本宮浅間神社、御師住宅、忍野八海、三保松原など25件が登録されている。

 日本最高峰である標高3,776mの富士山では、平安時代から登拝が行われるようになり、修験道の場としても繁栄した。また江戸時代には、江戸とその近郊に「富士講」が組織され、大規模な登拝活動も展開された。

 日本独自の山岳信仰の象徴であるとともに、絵画や和歌など、芸術・文学活動の源となった文化的景観としての価値も重要とされている。

 1990年代から、富士山を世界遺産にしようという運動が活発になった。当初は自然遺産での登録を目指していたが、火山としての平凡性や環境管理の問題が困難となり、世界遺産への推薦は見送られた。

 その後、文化的景観の視点から、文化遺産としての登録を目指し、2007年に暫定リストに登録された。

 三保松原を除外するように事前勧告されたが、正式登録では三保松原も登録された。

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