第27話 それなのに(「グランド・キャニオン国立公園」)

「白河さん、こちらへどうぞ」

 珱子さんにすすめられ、私はカウンター席に移動した。

 利一さんもビールジョッキを持って、のこのこついてくる。

「千桜ちゃん、千桜ちゃん。ひとりなの? おじさん、ナンパしていい?」

「りっちゃん」

 カウンターの向こうから、珱子さんが利一さんをたしなめる。

「奥さんに知られるのと、出入禁止デキンになるの、どっちがいい?」

「……どっちも嫌です。ごめんなさい」

 利一さんは、しゅんとなってしまった。

 珱子さんが利一さんのストッパーになっているのは、本当だった。

「白河さん、ごめんなさいね。弟は、昨日来たんです。しばらくは早番が続くから、ここには来られないって言っていました」

「早番、ですか。弟さん、事務員さんですよね?」

「そうです。でも、介護現場が大変みたいで、ヘルプで現場もやるんだって」

「辞めたいって言ってたよ」

 珱子さんに続いて、利一さんが衝撃的な一言をさらりと放った。

「現場のリーダーみたいな人がきついんだって。介護現場の新人には厳しいし、ベテランの若い子にはつらく当たるし、事務員は暇だと思われているんだって。えいちゃん、メンタルやられてるっぽいよ」

「そのせいなのでしょうか。同志をやめようって言ったのは」

「え、何。えいちゃんがそんなこと言ったの?」

 ずいと身を乗り出す利一さんを、珱子さんが菜箸をのばして止めてくれた。

「りっちゃん。奥さんに知られるのと、出入禁止デキンになるの、どっちがいい?」

「どっちも嫌です。ごめんなさい」

 珱子さんは「よし」と深く頷いて菜箸を引っ込める。

「同志をやめたいなんて、本心なの? あの子から世界遺産を取り上げたら、何も残らないでしょう」

「性欲は残るよ」

「りっちゃん」

 珱子さんの声がワントーン低くなった。今度こそ、利一さんが黙る。

「弟は、もともと調べ物が好きな性格なの。きっかけは、多分小学生くらいだったかな」

 彼が世界遺産に興味を持ったのは小学5年生くらいだろう、と珱子さんは話してくれた。

 家庭科の宿題で、衣服に関して好きなことを調べるというものがあった。

 そこで彼は思いつきからジーンズについて調べ、インディゴのジーンズにはガラガラヘビが寄りつかない、という噂を知った。その蛇がグランド・キャニオンに生息することも。

 グランド・キャニオンがよほど印象に残ったのだろう。家庭科の宿題を提出した後、彼は図書館などでグランド・キャニオンのことを調べ始めた。

 子ども向けの本では飽き足らず、大人向けの事典にまで手を出して。グランド・キャニオンが世界遺産で、地元にある日光東照宮も世界遺産だということをそのときに知った。

 でも、彼の父親は、彼の調べもの好きをよしとしなかった。

 横田家は、鬼怒川の酒造の一家だった。

 長女は珱子さん、長男は圭太さんという人、次男で末っ子が、彼“英一くん”。

 父親は“男性重視”の人だった。

 女性軽視というのではない。

 珱子さんは、バーテンダーになりたいという夢を持っていて、父親は珱子さんを快く東京へ送り出してくれた。

「私は結局、数年しかバーに勤められなかった。でも、父は励ましてくれたし、今この店でアルバイトをしていることも理解して賛成してくれた。結婚したけど挙式できなくても、父は全然気にしなかった」

「珱子さん、ご結婚されていたんですか!?」

「あれ、言っていませんでしたっけ? 苗字、鹿木しかきっていうんです」

 珱子さんは無理矢理話を戻した。

 長男と次男には酒造で働いてほしいと強く願っていた父親は、調べ物が好きで世界遺産に没頭する彼が許せなかった。大学進学に反対し、自宅と高校以外の行き来を禁じた。高校では教諭に監視され、自宅での行動も制限されていたという。珱子さんはその様子を後で聞き、まるで軟禁だと思ったそうだ。

 彼は高校卒業後に酒造での雑用をさせられ始めたが、大学進学を諦め切れず、珱子さんや利一さんを頼って東京に行った。

 彼は利一さんの保護下で大学受験の勉強をして、一浪という形で都内の大学に進学した。

 酒造は、もともと継ぐ意思のあった長男の圭太さんが残って、修業をしている。

 彼の方は、今は全く実家と関わっていないそうだ。



 私は彼のことを何も知らなかった。

 日光の話題を避けようとしていたことは気になったが、最近はすっかり忘れていた。

 私が大変だったときに、彼は私を気晴らしに連れ出してくれた。それなのに、私は彼に何もできていない。

「でもね、白河さん。弟は、あなたに出会えたことが本当に嬉しかったみたいですよ。あなたの話になると、世界遺産の話以上に楽しそうに話すの。千ちゃんの字は珱子の“珱”に似ているとか、でれっとして嬉しそうに。あと、釣りの話とか……」

「釣り、ねえ」

 静かだったはずの利一さんが、くすくす笑っていた。

「ねえねえ、千桜ちゃん。おじさん、何歳だと思う?」

 全然話題が違うがな。

「俺、38歳なんだよ」

「若っ!」

 若いとは思っていたが、本当に若かった。珱子さんとはほとんど歳が離れていないんじゃないかな。

「おじさんも30年前は、千桜ちゃんみたいに河童を釣ろうとしてな」

「なぜその話を……!」

 私の黒歴史、彼は話してしまったのか。



 利一さんのおごりでアフリカンクイーンをいただいて、日付が変わらないうちにアパートに帰る。

 電車に揺られながら、少しは自分の気持ちがわかった。

 彼に会いたい。

 黒歴史の口外を問いただすのではなく。音信不通の原因と“同志”解散の理由を明らかにしたいのでもない。

 ただ、彼に会いたい。



     ◇   ◆   ◇



 「グランド・キャニオン国立公園」


 アメリカ合衆国

 自然遺産

 1979年登録


 アメリカ西部、コロラド川沿いに横たわるグランド・キャニオンは、長年にわたる浸食と風化によってつくり出された世界最大規模の峡谷である。

 この一帯は、約6,500万年前に発生した地殻変動による造山活動で隆起。約1,000万年前から、軟らかい堆積層がコロラド川の浸食により削られたり、岩の間に染み込んだ雨水が凍結、溶解する過程で岩を破壊したりする、いわゆる風化が繰り返され、約120万年前に現在の形になったと考えられている。

 アナサジ族や現在もこの一帯で生活をするハバスパイ族が暮らしていたこの地は、1919年にウッドロー・ウィルソン大統領によって国立公園に指定され、1979年に世界遺産に登録された。

 グランド・キャニオンの最大の特徴は、時代の異なる地層が幾層にも折り重なっていることである。大きく11層に分けられ、植物、昆虫、陸生動物、サメ、サンゴなど海洋生物の化石も発見された。

 最大1,700mに及ぶ高低差と相まって、寒帯や亜寒帯、乾燥帯など、異なる気候帯の動植物相が一地域で見られる世界でも珍しい例となっている。

 鳥類約300種、哺乳類約75種、爬虫類や両生類約50種、植物約1,000種が確認されている。

 この地は今も浸食と風化が起こっていて、微細ではあるが変化を続けている。

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